自称?マンガ家

さあて、稼ぐ稼ぐといきまいてみるものの、とんと思い通りに
いかないから、未だ得体のしれない「自称マンガ家」な生活も
20代後半から続けてるから、これもいよいよ本物だなぁと
自分に感心できたりする昨今です。
このごろはコンテスト狙いに戻ってしまっていますが、
なかなか勉強になることも多く、周りの人には大変わるいが
このままでやってく他ないなあ、ってのが持論になりつつありますな。

いやいや、昔はもっとみんなの意見つーのも十分配慮せなアカンとか
なんとか迷ってみたり、人様のいうような作品ってのに試行錯誤
したりしてみたけど、つまるところ、ものを作る人間ってのが
思ったより器用にやれないことがここ何年かで気付き、ぶきっちょ
ゆえにものづくりなんてのに、邁進してるんだなあと理解してきた
ところなんであります。

あたまのいいひとはサッサと「フツー」の生活ってのに目覚めて
キチンとしたところで、キチンとしたストレスってのでキチンと
文句ブーブーいってるので、ああ、ああゆうのもいいなあと
昨今は本気でうらやましくなったりもします。

なんていいつつ、家族との約束もぶっちぎり、未だマンガマンガと
ほざく自称マンガ家ながやは稼がなアカンくせになかなか稼ぐことが
ままなりません。

友人知人のアドバイスってのも、意外な害となることもままありました。
それはホントに良かれと思ってしてくれた箇々人のアドバイスが
その人本人にはたしかにあてはまる、確かな情報であっても、いざ
自分に引用して見ると、自分から生まれたものでない知恵というのは
キチンと生きてくれず、的外れな結果に邁進してしまったりする。
ガックリしてみてはじめて「ああ、これはダメ」ということができる。
まして自分とは生活も目指すところもまったく異なる人は、
いくらその人個人がいいひとであっても、こちらの生活のペースに
あるべきものがそっちになかったりして、役にたたないことが
ままある。誰のせいでもなく、盲目に他人様のお知恵を拝借するってことの
面倒くささってのもあるんだなと気付きました。

そうそう、あと人の言い分ってのもまるのみはイカンなぁと思えるように
なりました。まあたしかに昔から疑い深い奴ではありましたが、ここに
いうはなしは、そうじゃなく、相手の言い分には相手の事情が多分に
ふくまれていて、それほど正直には話しきれない部分が人には増えてくるんだ
ってことでしょう。正しいことをただ正しい!と言い切れるのは
フツーのことであって、年を経ることによって「一概にいいきれない」こと
ばかりが増え、いよいよ乱暴に「こうだ!」といいきるタイプと
「まぁそれはそれで」とおさめる人とに別れてくる。どっちもイマイチ
不正解っぽくて、的もはずしているような気がする。

そこでいよいよ人のいいぶんを聴けなくなってゆくような気がしますが、
商業マンガってのが多くの人に読んでもらえるように書かれる以上、
人様の意見ってのをムゲにはできない。しかしながら「一般的」な
人というのはマンガに「面白いね」くらいにしかボキャブラリを有して
ないから、自分の作品のリサーチで意見を聞き出すというのは、恐ろしく
力のかかる作業になる。おっつけ、自分はマンガの作者でありつつ、同時に
最もさめたところから作品を批評するまっさきな読者でもなくてはならない。

そしてその作品というものに「食いブチ」として懸けてゆくのが
雑誌の「編集」するひとたちなのである。作品の出来、不出来はそのまま
編集の方々の生活ってものに響いてゆくことになる。マンガ家ってのは
そうした状況下で、自分の作品を自信にあふれてだしてゆく稼業なのだろう。
一概に「編集」といっても作家の意向を尊重してくれる人から、編集自身の
好みを強要する人、保身の人物から冒険家とさまざまな人たちにあふれている。
同じマンガひとつの評価は雑誌編集部によって、全然ちがうものになるから、
ひとつふたつ駄目だったからといって、マンガ家はガッカリしなくてもいいし、
他の「自分を受け止めてくれる」ところに出向くのがカシコイというもので
ある。まあ、その、受けとめてくれるところ、ってのに巡り会うまでは
ホント、難儀するんだけどね。いや、ホント。

とまあ、そんなこんなを書くひまがあるんなら、4コマの一作品でもやれば
いいのだよ、なんて思わないでもないが、とびきりスゲエことやってやらぁと
イキマクほど、出だしばかりおくれて、収拾がつかなくなってくんだから
人間って不思議だよなあ。
(こんなとりとめのない、結論もない文章につきあっていただき、ありがとう)

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