人間の尊厳というもの

昔、授業で習ってて社会科などで「人権」とか言われた日には「なんのことやら」と
まったく理解できなかった。英語で「ヒューマンライツ」でしたっけ?
ま、なんせ理系なんでどーもなんだかね。

外国人なら分かるのかな、ともボンヤリ思った。「人権」、フム、やはり今でもどーも
なんだかしっくりこない。
で、今日は「尊厳」については少し、ほんの少し「あ」って思えたので、がんばって
書いてみる。どーかな、いや、書いてみる。やってみる。

映画にせよ、まんがにせよ、お芝居にせよ、物語はいつもキャラクターってものが
あって、そこに描かれるリアクションのつもりつもったものが「物語」になる。

高校生の頃にね、美術の時間に好きな絵を書いていいと言われたことがあって、
「F-14がビルの合間を音速で飛ぶ」という絵を描いたことがあった。
ビルの窓はことごとく割れて、破片が飛び散る。そこには人物は描かれていない。
高校生なりのカタルシスが発揮された絵を見て美術の講師、通称「マフィア」先生は
「このビルにいる人たちはどうなってるんだ?」と聞いてきたのである。
え?って思った。先生なにいってるんだろ?とその意味が分からなかった。

風景があって、そこに人がいない絵。
飛行機は飛んでいて、窓が割れていて、そこに動いているものがあるのに、人が
まったくいない町を、私は描いていたのだ。


さて、このごろのドラマやアニメ、映画を見てて、なんというか、しんどいのであります。
なーんか足りないなぁ、配慮が・・・って感じるのだ。
描きっぱなし、っていうのでしょうか、売れ線の作品に世界は満ちあふれてますなあ。
がっぽりはもーからないかもしんないけれど、クリエータたちが食べていける作品が
邦洋問わず世間に出回っている。

それは人にいい作品、という前に、先にくるのはなんだか「食い扶持」くささがハナにつくのだ。
作りっぱなしの感じがするのだ。

そうした作品世界にあって、キャラクターたちを見やるのだ。その時、息づくっていうのかな、
そこで生きる、ってことにされたキャラクターたちは、「人」としてきちんと描かれて
いるだろうか
、って見やってしまうのだ。

大きなお世話よね。面白くてなにが悪い?なにいってんの?ながや、ってなもんよね。

で、そこまで理解できてこなかった言葉、「尊厳」ってなんだろう?ってなりました。
「尊厳」・・・もうすでに漢字がなんだかちょっと難し気。
立派すぎてどーもなんだかね、って感じ。

人、がただ凛(リン)として、誰の邪魔もせず、誰の邪魔にもならず、ものおじなく、
その人そのもので、ただ、あることをよしとして、スンと立っている、そんな風景が
私には「尊厳」の風景だ。

実際のその人がどんな人で、どんなことをやってきて、今、どんな人か、ってのが
世間でのその人の「評価」になるんだけれど、「尊厳」って話になると、そーした
「人からの評価」の外のものになると感じます。

誰彼の評価、にまったく重きがなく、その人個人、そう、個人がただ「凛として」いる、
そう、いられる気持ちがあるかどうか?が「尊厳」な気がする。

その人が「どんな目にあってるか?」「虐待・争いの渦中にあるか」といった表っつらの
状態ではなく、芯の方で「それでもわたしはわたし」と、ただ自分にじっくり自信を
保てているかどうか。本当の自信はあまり「まわりの理由」に揺らがない。揺らぎようがない。

それを、作品世界のキャラクターに探すのは愚かだろうか。
たしかにそれを感じる時というのがあって、そうした作品は売れる、売れないに関わらず
人にとって「他人事でない」ところにスウッて入る。それは「好きなもの」以上に
「要るもの」になる。

洋画、ことさらハリウッドの映画がそうなんだけれど、ただただ派手なエピソードを
てんこもりにしてくるものを「ハイ!豪華にしたからたっぷり楽しめ!貴様ら!」みたいな
押し付けがましくて、なおかつ作り手が思ってる程面白くもないものを、大量に
注ぎ込まれると、ホントにいやんなっちゃう。その作品が嫌い、でおさまればいいけれど、
やもすると「映画は嫌い」ってなりかねない。かつて退屈なお芝居ってもののせいで、
演劇がすっかりつまらなかった時があったように、つまらない作品の集合は害にしか
ならないのだ。

そうした中、物語が「尊厳」のある人間を描いてくれていると、エピソードの派手さは
あまり重要ではないんですね、とストンと腑に落ちる作品ってのもハッキリしてくる。
「ヨコハマ買い出し紀行」なんて一見地味そうなエピソードに満ちているけれど、
そこには「尊厳」がある。遠藤淑子先生の一連の作品も、人の尊厳に満ちている。
ホッとする。正気に戻る。心が座る感じがする。

派手ににぎやかしな作品で世間が満ちる時、私は尊厳のあるところを探す。
つまりは、自分の枠の外に、尊厳を信じられるものを期待したいのである。
そしてそれはあちらこちらにあるし、探す苦労にそぐう大きさや素敵さを持っている。

尊厳について、早々に「あきらめたり」「探すのをやめる」のもありだな、とも
思う。けっこうシンドい作業でもある。心が淀むのをどれだけこらえるのか?って
ことだけなんだろうけれど、それもありだ。


私のF14の絵について、美術の先生がいった言葉はこの「尊厳」があるの?ないの?という
質問だったような気がしてるのだ。描くのは、やはり、人の感情なんだし、その絵に
尊厳をお前は描くことにしたの?それとも今回は忌避したの?って見すかされたのだ。

絵のテクニックとか、パースとか、描写力、って次元ではなくね、うまい、下手でもなくってね、
「お前はこの絵に『込めるの?込めないの?』」って聞かれた気がする。

高校生のわたしは、とてもこの絵をうまく描いたと思うが、大きく欠損してるものを
あとあとじくじくたる思いで見返すのだ。

私は映像製作を生業(なりわい)としてたことがあって、そのときにも「商業としての撮影」に
ほとほと疲れ切った記憶もある。「なにか作っていれば幸せ」ってもんではないのだ。

なにを込められたか、それが作品で伝播できたか?
そう思うと、作品の派手さ、売れ具合がどうしても、頓着しにくくなりますよね。
分かっておりますとも。売り方、ってものがいくつか分かってきたあとでも「それはしない」とか
いってるうちはなんにもなりませんね、はい、そのとーりです。

尊厳、って言葉は大仰すぎますね。
もちっと、スルッ、と、スイッと使える言葉ならいいのにね。

元気な人も、不幸な人も、嬉しい人も、悲しい人も、うるさい人も、泣いてる人も、怒ってる人も
病んでいる人も、「尊厳」を秘めた気持ちが底にあると、やはり人間の姿勢がいい。
それが、とても、人に、大きな、感銘を運ぶ、キーなのだ。

尊厳ぶり、のよーなものが、その人から輝きを放つんですね。いや、ホントに。

 

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