あたらしいとこ

ちょっと前のSF作品で、宇宙の覇権を争っていた国がアメリカとソ連だった
ことを思えば、それこそ作家のSF度、本来背負うべきだった「想像力」の
見込みのあまさ、のようなものが露呈しているのであって、作家がそもそも
一番発揮すべき点を「見過ごしてました」って言ってるような気がして。

作品ってものは、新しくうまれるわけがあって欲しい、などと私は思う。
つまり寡作なでも水増しでも、作家が作品を生む際には、発明がその作品に
含まれているべきだ、と思う。

ゴダールが映画に出ているジョン・ウェインを評して「彼はなにか考えている
ような演技、をしているのであって、考えているわけではない」と
したように、映画もそのほとんどが引用、脚色であり、その「発明」に
挑んだゴダールにしても、決していい作品を生んでいるわけでもない。

ジャパニメーションなどとさけぶ不可解な業界はさておき、ジブリにしても
押井演出にしても、世界に羽ばたく作品も、それが受賞に至るころには
ある種の「マンネリ」に鎮座する頃であり、その作家の演出がその新鮮さを
発露させている時には、大衆/消費者というところからは「つまらねー」という
まったく作品の評価のしようのない位置に立たされるところにいる。

邦画ってのもほとんど見ることがなくなったけれど、作家に惹かれることが
近年稀になり、岩井俊二監督くらいは続けてもみるが、それ以外は
「ピンポン」などのように、作品ひとつに感銘はうけても、作家に持続した
期待をすること、そのものが、いささか億劫になっている。

演劇はその時代の流行というものに欠損したものを、比較的真正面から
「足りねーのはこれ?」って90年代あたりから感じられたけれど、
それでも1年のスパンがもう「長い」って思っちゃうのがすでに異常。
廃れこそしないにしても、この「受け手」ってものの未成熟、っていうのか、
「ただ満足でいる状態」が持続できないのは、一種、不幸ではないのか?

しちゃった分の期待があるだけに、今度は、もう、しない、なんて結論に
至るってことも、本当に嫌なのだ。

実際、「新しいもの」がうまれていない。
かつまた、「新しいものを拾い上げる」人も「見つける」人も少ない。
と、いいますか、
「ただ、日々、不満足な人」ばかりが増えるのが、わたしたちの未来だったろうか?

これならまだフリッツ・ラングや手塚治虫の描いた未来の方が美しいじゃないか。
クラシックな未来観に未だ追い越せない、私達の想像力のおぼつかなさは
いったいなんなんだろう?ってこのごろホントに感じる。

サイバーパンクに一瞬期待をできた時があって、たしかにネット世界は幾許かの
「予想外」をのばしてくれるだろうけれど、それがなんだか「道具」の方に
向かう時に、やっぱりわたしたちの未来観は「想像力」の「幸せぢから」に
いよいよ本腰いれるべきなんじゃないか?って思うのだ。

新しいものってのがほとんどうまれない時代にあっては、「自分の好きな方」に
凝るのが安逸なんだけれど、そこが、どーのにも、うまくねーんだわな。
窮屈な方に向かってる自覚があるままでは楽しんで幸せな気持ちを維持できない。

悲観も否定も非難も、それだけだと退屈で窮屈なところに陥るけれど、
今、の状態が把握されてないままにどこかには向けないし、走れない。
立ち位置、が曖昧すぎる。

つまり、
さんざんののしれるだけの語彙を持ち、
思索に足るだけの情報をあつめることと、選りすぐることができて、
そこから新しいものをサルベージするだけの決心を忘れないでいれば、
人は、きちんと、着地できる楽園に至るとは信じられる。

サルベージ。
そう、必ず存在する「川」のような「あたらしいもの」は水のように
たゆたいながら、やっぱり、しっかり、そこにあって、
「発明」とかいっておきながら、やっぱり「ある」前提なのだ。

 

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