アジアンカンフージェネレーション

NARUTOのオープニングで一撃でノックアウトされた。
心臓を他人にわしづかみにされたような気分になって、泣きそうに
なりながらCDを買いにいった。

およそ、アニメのオープニングとも思えないジャケットのうえに
「崩壊アンプリファー」などという、オープニング曲の入った
タイトルとも思えないマキシタイトルで、店頭で大いに迷った。

でも心は急いていて、店員さんに「あ、アジアンカンフーのっ!」
とか、なんかヒデーことでも口走りそうな形相で検索してもらった。

車内に戻ってCDにかけたらもう別世界だった。
いい世界観なのだ。歌詞も、曲も、聴いてる人をどっかに放り込んでくれる
力づくみたいなものがって、うれしくってしかたなかった。

これまででいうと、くるりやピロウズでみつけた時の感情の
ようなものがった。「あっ!」というキャッチーな気分に
きっと演劇とかやってる人はエンディングとかでつかっちゃって、
さっさと曲に負けちゃうような、そんなパンチがバシビシ決まってた。

で、15秒のCMスポットにすっかり心奪われてた私はアジアンカウンフーの
二枚目を買ってしまった。

やっぱり歌詞にやられた。
なんだろ?この負けがこんでるのに突っ走る感じは?
勝ってる人間にどうしても感じられないカタルシスをかったい塊にして
「ばかやろうっっっっっっぅ!」とか叫びながらぶつけてくる感じだ。
なんの解決にも向かわないかもしれないけれど、その時にたどり着ける
ある「感情」をむき出しに観られたうれしさみたいなものがあるんだな。

でね、うれしいのね。
ああ、そう、これよ、って思うのね。

「未来の破片」も素敵だけど、わたしは二曲目の「エントランス」って
曲が引っぱり込む世界観が大好きだ。

この二枚目を買う時に「茄子・アンダルシアの夏」が上映終わりというので
この夏2度めに観劇にいったところだった。
この映画は大人の作品であって、大人達が自分達の生活の中で抱える
いくつかのことに「傷つききってしまう」その少し前をギリギリしながら
突っ走る映画で、すばらしいのはそのスピード描写だ。
自転車のすばらしさもあるけれど、演出が生み出してる「スピード観」
こそが一番の武器だと思う。

この作品の前に「トレジャープラネット」みてたから、そのディズニーの
「無理矢理にでもハッピーエンド」に心底憎しみを覚えてた。
あの「宝島」がなんてみすぼらしい世界観にされちまったんだ、と
このうえない憤慨を覚えてたから、「茄子〜」の「救いはないけど、
やるべきことはやあったぜ!」という大人故のガッツがうれしかった。

主人公に対して「好きよ!ペペ」と言ってしまえる大人達に
「来んなー!」とさけんで振り向かない主人公が大好きだ!
ずるいぞ、みんな。さんざん見送っておきながら「好きだ!」だなんて
言ってあげんなよ、って思えたのだ。ペペはペペの理由だけで走らせて
あげなくちゃ!横からスイとやってきて、「応援」しちゃうだなんて、
なんというか、虫がいいよ!って思えたのだ。

走ってる人間と、走るのを辞めた人間には、言葉にならない気持ちで
大きな差がある。
せめて、走るのを辞めた人間は、走ってることをやめた幸せを
隠してくれなくちゃ、って思えたのだ。ペペにウェディングドレスを
みせちゃってどーすんのさ!お兄ちゃんが自転車で並走したがって
どうすんのさ。振り切る気持ちまでを自分のなけなしの武器に
しちゃってる人間に、それはあんまりじゃないか!

だから、ペペのひとりで走ってゆく姿が嬉しかったのだ。
ちっともこの映画の中で「自分の感情」を吐露しない、その
本当ぶりがうれしかったのだ。

自分を本気にさせるために、自分というボイラーの中へ
「自分を幸せにするもの」まで投げ込んで火力を得る人間ってのは
たしかにいるんだ。いるんだぞ。

そんな気持ちが、アジアンカンフージェネレーションには
いつも自然に備わっていて、ふわっ、とすくわれた気持ちになるのだ。
ああ、歌であるな、ってだけですくわれた気持ちになるのだ。

そんな余裕のないこというなよ、ながや、とかいわんといてな。
こんな余裕のないことがいえなくなっちゃうと、たどり着けない
感情ってものもあんのよな。

他のエッセイもどやっ!