よく知ってる・そしてまだ知らぬもの

 

「バベル17」を読んでいる。それの前に「FORGET-ME-NOT」も
読んでいる。懐かしくも違和感を覚えた。
「時代」に関係なく、SFってやつに流れてる独特の倫理観、と
いいましょーか、そう明さ、といーましょーか、それに「お!」って
思ったんです。

それは女性キャラクターの喋り方でした。
丁寧な口調、そう明な切り口と、簡潔な表現。省略。比喩。

これらはふだん、私達の生活の中で「知って」はいても、ついぞお目に
かかっていない「喋り方」だよな、って思ったんです。

昔の白黒映画に出てくる青春ものの登場人物達のあの喋り方って
なんだか独特でしょう?やけにていねいで、やけに機知に富んでいて
感情にあふれてて、気持ちのいいものになってる。

そういうものが、生きてる世界観そのものがすでに「うらやましい」んだけど、
その「喋り方」ってのが、なんだかとても憧れてるなにか、なのだと
ハタと感じたわけです。

明治の文明開化とやらで、江戸がトーキョーになって、全国に「標準語」が
教育・流布されたときにさ、なんで「江戸弁」ではなく、「標準語」とかいう
ものができたか、っていう話をどこかで聞いたんですが、それって
夏目漱石などの「文学」がつくり出してきた言語体系らしいのね。

つまり「書き言葉」だったものが、実際の「方言」とか「喋り言葉」を
駆逐して、日本中に広がった、ていうのよ。
すごくない?カルチャーがその「国」で喋ってる言葉を生み出してるなんて。

んでさ、そーゆーことから推察するに、SF小説とか、昔の白黒映画に
残る「やけに独特の丁寧な日本語」ってのは、なんだか今でも「生きる」
言葉だな、って思うわけです。
「コギャル言葉」とか「変態少女文字」とか、どーせ死滅するんだし、って
低レベルなモンじゃなしに、まぁ100年ぐらいあとになって見返しても
「ああ、きれいな言葉が・・・」って思える「魅力」があるわけです。

小津映画のなかの登場人物の言葉の少なさ、丁寧さ、控えめで、吟味された
言葉に「詩」をみつける外人すらいるしね。つーか、小津映画の世界に
憧れて、「東京」を恋いこがれたヴィム・ベンダースが「もう私の
知ってるはずの東京はない」みたいなことを言えてしまうように、
ていねいな言葉がつむぎだしてくる「まるで理想のような世界」は
実際の目の前のものをみやりつつ、やはりどこかSFなのかもしれない。

そう。
実際の、目の前の、現実って呼んでるものの風景や音、香りのどれも
人間の脳には直には届いてないんですよね、たしか。もっとうまく言いますと
「たとえひとすじの光と言えども、脳に直に届いているわけではない」と。

目、という器官が受光して、神経回路を経由して、「脳」がそれを再構築して、
「見やすく」自分に解釈のいいように仕立て上げる。
つまーり、現実の目の前のことですら、わたしたちはやりやすいよーに
脳で管理して、解釈しなおして、仕立てなおしやすいようにうけとってる。

わたしなりに言えば、これはもうSFと大差ないじゃん、ってモンなんです。
自分の「脳」がよかれ、と判断するものでしか、みやることができない
のが人間。

どんなに仲のいい友人や親族であっても、たったひとつの「赤」という色が
自分以外のだれかと必ず「同じ色である」って比べようはないのだ。
物理的に、同じ「赤」を脳が捕らえてるかどうかの比較ってのはできない
はず・・・だと思う。

ひとりは「赤!」って呼んでるものが、実際に目に見えてる色は
薄紫の濃いものだったとしても、それを幼少の頃からみんなに「赤」って
言われてきたことで「赤!」っていってるのだとしたら、じゃあ
「誰もに脳解釈による誤差のない、徹底した『絶対赤』」ってものは
どうやって生み出せるのだろう。
時間だってグリニッジ・ミーン・タイムが精一杯なのに。
(共通認識のレベルでいいんです、この際)


ま、俗に言う「死語」っていうものが、SFにも白黒映画にも生きてる。
で、誰もが知ってるその言葉。最近で言えば「キッチン」の映画で
登場人物達は文章のように言葉を使ってた。ここちもいいけれど、
違和感の大きさは否めない。

まあきっと日本の誰もにしられてる言葉たち、その丁寧な言葉は
たしかに存在してるし、メディアに記録もあるのに、なのに、なのに、
まだ現実のなにか、として「成し遂げてない」ものであるように思う。

海外の日本人が、実際の今の日本人よりも美しい言葉を維持してる、って
話しを聞いたことがある。それは戦前戦中に海外に出た人たちが
その昔の「教養」の言葉として覚えたものを、下手な解釈や崩しを
しないで、「自分達のアイデンティティ」として大切にしてきたから、
本国で「好き放題に改ざん」みたいな目にあわないで済んだ言葉
なのだそうな。

世界の日系の人の言葉は時々映画のように美しい。
それは、現代に、日本ってところで生まれた人間にとっては
よく知ってる・なのにまだ知らぬ日本語、ですよね。

わたしはその言葉のそう明さに憧れる。楽しむ会話という次元も
悪くないけれど、書き言葉に含まれる、含蓄の深さ、ていねいさは
なかなか手に入らない「教養」なのだ。

言葉を上手に、丁寧に使える人には前提のない信頼を覚えます。
(つまらねー下心なしにね)(うさんくさい丁寧語は吐き気がしますね)

それは、SFでしか成り立たないものなんかじゃないですよね。

 

他のエッセイを読む