もうどうでもいいや

時々そんな気持ちになる。なにやったってうまくいかんし、どったんばったんと
嫌な気持ちばかりがたまってくる感じで、そのうちうまくいくような気がしない。
なんか、どっかにいい予感があるだけでええのにな、って期待まではしっかり
してるのに、それがなんとなく見つからないだけで、暗たんたる気持ちに
おさまってしまう。なんやろね、あれは。

そんでも、こうも思うんです。
「もうどうでもいいや」ってのも、決意なんだな、と。

自分でどうのしようもないんだから、周りに流されてもええんでしょ?
でもそれも「自分が許した」ことまでしか、どうせ流れへんのですよ。
ほんなら、そう、カッコエエ決意なんぞせんでもええ、ってだけで、
ゆるりと「どうでもいいのです」って「決めた」んだし、それは相応に
そん時の決心だもんな。

どうでもええときはどうでもよくあるのがよろしい。
なんぞ気張って立派にカッコつけよとすんのが一番見苦しい。
ほんでも「なんとかしたるわい!」ってのはカッコエエなと思う方です。
なんもないよ、ええよ、大丈夫やよ、ってなんでもないようにすんのは
なんだか、悲しいよなあ。

なんでもないことないよ!
だってヘコんだり、泣いたり、怒ったりすんのは、そんくらいには本気ですやん。
放っとかれへんくらいには、せいぜいの本気ですやん。
ほたら、その本気の方を支持する気持ちでいったらいい。
なんかドカーっとキメたろ、とか欲張るからブッサイクなことになってしまう。
他人様の目ぇとか気にしてるからブッサイクになんねんて。
せやんか?ちゃう?そやろ?そーゆーこってす。

時々、三河弁を使おうと試みるけど、なんか、もう、うまく出なくなってきてる。
高校までは早口の三河弁だったよーな気がするが、大阪にいってからは
思考もやっぱりどこかで大阪のスピードになってて、帰ってきてもその
言語スピードは大阪のそれなんだな。
さく、さくっと言葉がいちいちおさまりを持ってて、相手も自分も合点がいく。
腑に落ちる。便利な言語なのだ。特に会話ではそうだ。

いや、なんも、こんな題材でエッセイ書いてるからって、ながやがヘコんでるとか
困ってるんとちゃいますよ。ボク、けっこう昇り調子ですもん、このごろ。
自分も、仕込んでたことも、その周りも、非常にうまくかみあってる。

ああ、でも、なんか、分ってるのだ。
うまくいってる、ってのはなんか、物足りなくさせるのだ。
欲張りな、って話とちゃうよ?贅沢ゆーてどーのって話ともちゃうよ。
自分が、正味の話、なにを求めてるかってのは、そこそこ「足りてる」
時にこそ、ハッキリしてるくなあ、って話よ。

今の日本って国は、非常識なことや突飛なことせやんかったらそこそこええ暮らしが
できてるよーな気がします。買いたいもんがまよわんと買え、食べ、寝て、
遊べて、そこそこ、まんざら悪くもないですよ。
ほんでも、ほら、ぽかーんって大きな「穴」背負って歩いてるみたいな空虚感も
またホントでしょ?ない?ない?ボクありますよ。ぽかーん、って。

満たされたよーな気でおったらあかんな、ってのがこのエッセイのホントんとこ
なんですよ。なんか、日々、OKって生き方じゃ、足りないんですよ。
人間ってのは。
かといって、そこそこのスリルとか、そこそこの冒険、危険ってのは
私の性分では「しらける」んです。その、後戻りすることが前提の、
謝ったら済むってのが腹の底に見えかくれする手合いの「プチ家出」みたい
なんは、なんか、つまらん、と思っちゃうわけです。

「もうどうでもいいや」ってのと、「日々を一生懸命」に生きてることに
どんだけの差があるんでしょう。60%が水分の僕らが、残り40%の
他人との差だけで、上下があるともとーてー思えない。
返して言うと、「決意」なんかで人は動いてるとは思えない、ってことなんです。
思い込もう、頑張ろう、しっかりしよう、なんてシュプレヒコールの要る
人間ってのは「英雄のいないのが不幸なんじゃない。英雄の要ることが
不幸なのだ」ってどっかの格言(うろ覚え)のように、ムナシーのであります。
なにより、自分への不正直さ、について思考がない。

そんでも自分がかつて受けた経験の中でキョーレツにうれしかったり、
楽しかったものを、一度でも持ってる人間は「満たされてる」ってのが
「そんなもんじゃない」ってどこかで直感するんでしょうね。
自分が今や未来に「満たされる」ためにガンバるってのは、どこか
盲目な、宗教のような、ドラッグのような、なりふりのかまえない正直さで
パンパンに見える。

それがあかんのなわたし。
なんか、あかんのよ。いや、別にええねんけど、他人がそうであっても
とがめへんけど、自分にはあかんのよ。変に覚める。

そん時にね、「もう、どうでもいいや」って言葉が、どっかキーワードに
思えてくるんです。
え、じゃあなに?今までそんなに立派に日々決意してましたっけ?ってのもあるよね。
え?今までどうでもよくなくしてこれましたっけ?ってのも出てくるよね。
せやし、今そんな、トートツにリッパになられても困惑するってのよ。
水分ですし、僕ら60%くらい。ほとんど水なんスよ、僕ら。
宇宙にいっても砂漠にあっても、僕らは水なんスよ。
そんなボクらが、フイにした決心が、なんだか、グーゼンの産物のように
やってくるものだとしたら、そんだけで凄くない?「あ、そうだ」って
思えただけでもすでに素敵じゃない?水のくせに。

そんくらいのスタンスじゃあかんのかしら?
いつもボコンボコンな人はボコンボコンでいいんじゃないかしら?
どうあったら、幸せ、だなんて思い込みなんだから、そうそう幸せを
模索してなくてもいいんじゃないかしら?
「幸せで無くちゃ、不幸!」ってのはもうすでに不幸。

「勝つ!」と「負ける!」って言葉がある時に
「勝つ!」と「負けない!」は同じ言葉じゃないでしょ?
「勝たない!」と「負ける」も同じ言葉じゃないでしょ?
そのあいだのどこか。勝つでも負けるでもない、てのの方がうんと広い。

「もう、どうでもいいや」はあきらめの言葉に思えなくなってくるんです。
それは、自分の中でどこかに知ってる、心当たりのある、自分なりの
「決心」の抜け穴のよーなもんじゃないのかな、ってしめるわけです。

 

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