ソフトウェアな人類として

まんがを読んでて、書いていて、ふと考え至るのは「なんで女性って
モチーフにしやすいんだろう」
ってこと。

不思議だよね、人類の半分が男だってのに、こうも男を魅力的に扱いにくい
ってのはなにかしら?とか思うわけです。んで、あるとき掃除してて思った
んですけど、女性って、男性より「ソフトウェア度」が高いんじゃなかろーか、と。


人と、人の間に存在する時間が、女性は男性より長いんじゃなかろーかね、
ってのが、ひとつの突端になるのです。子供と、お年寄りと、女性は
男性よりもなんだか広く、長くつながってるところにいると思う。
男性はそれをどこか期待しているフシもあると思うのね。実際。

人ってのはふたりいれば、ひとりはもう「他人」なわけで、他人とうまくやるには
人間の内面にそなわっているものが発揮されるか否かで、てんで違うところに
たどりつくと思うんです。そんなとき、女性にはなんだかDNAに「人と過ごす」
ものを埋め込まれているような感じがするんです。

ジャパニメーションにせよ世界初のロボット映画にせよ、いつも突端にくる人工物は
「女性」なわけです。宮崎駿先生のアニメの主役もほとんどが「女性」なわけです。
物語世界を駆け巡る人物像が、いろんなしがらみを振り切ったところにいる
「自由人」であるときに、男性はやっぱりどこか社会に属していて、ファンタジーの
主人公でもない限り、どこか昼間っからポケットに手を突っ込んであるける
人間なんてよっぽどいないわけです、ってな話をゴダールが書いてたけど、
そーだよねー。ファンタジー、受けるわけです。リアル、でありえないのなら
いっそファンタジー・・・ってのは私にはちとサミシーのであります。

その点、女性にはどこか走り出すこと、がありえるな、って信じやすいのです。
男どもの、このがんじがらめの一生懸命さに随分とあっさり見切りをつけて、
走り出しちゃってもいいよな、って思えるものを見受けるのです。

昔の映画や小説はもっと男が走り回っていました。暴れて、壊して、活躍を
していました。が、そうした作品群が走り抜けたあと、「それはうさんくさい」と
信じにくくなってきてしまったのでしょうね。随分とそんな作品が減りました。
作品というのは時代の空気が許してくれるものでなくては存在できないものなので、
ちょっとしたリアリティがなくては存在もゆるされないものです。
「暴れん坊で正義をふりかざす」人は、今のブッシュJr.のようにぶざまで
無配慮で粗野なテキサスヤンキーくらいの位置付けでしかないのです。

作品に「時代のリアル」を仕込まなくては受け入れてもらえないのが暗黙の
了解である以上、こんな混沌として綺麗な21世紀を「とっととあきらめて」
「走り出せる冒頭の馬力」があるのは、やっぱり男性じゃないのかもしれませんね。

ソフトウェアな存在として、柔軟に、多くの接続端末が常時用意されていて、
そのひとつひとつを殺さずに、かつまた集約して自分の力と成す、というのは
「器用」って次元だけでなく、アグレッシヴさが伴うことになります。

わたしの知ってる人に、いろいろ挑める人間がいます。
その人は女性ですが、いろんなことに本当に気持ちよく飛び込んでいます。
ですがその人を評するときに、人によっては「逃げる」と形容することが
あるかもしれません。
実際、その人はなにかに飛び込んでしまうと、それまでつながってきてた
人間関係をかなりあっさりと切りました。そうしてきました、とその人も
自分でいうのです。それでいて、切られた方はなんだか納得できるんです。
すがすがしく切るのですが、それゆえに、その人はどんどん高みに挑んで
いるのが本当にはっきり見えてくるんです。

わたしはその姿勢にひどく心打たれました。
かえって応援する気持ちが高まるのがわかりました。
なんだろう?この潔さは。

そしてそのステップ、踏み出しの、足取りの軽さの、その本気さっていうのは
なんていいもんなんだ!とつくづく沁みるのです。

いないでしょ?そんな人。めったに。
いろんなしがらみ全部背負い込んで走る!と息巻く人もいますが人には背負い込める
キャパシティってもんがあります。遠く、早く走る人間が、いろいろ抱えたままで
いられますか?そういう決意の人は、とっくに「抱えない」ことをしっかり
決めていました。それがものすごく、その人にきちんと見えたんです。

ですから、他の人に見えない光をその人に感じました。まぶしかった。
人間としてまぶしかった。
相手の気持ちを慮(おもんばか)ったりしてたら、人間は飛び出せないんです。
いや、慮れる人間は、どこかで「飛び出さない」選択を決めているんです。
「慮るために」を理由に、飛び出さないと決めたがる人間もいます。

飛び出す
それを「若い」とか「馬鹿」って評する人もいるでしょう。
みんながどう言ってもいいけど、わたしには、ただ、ひどく、まぶしかったんです。
ああ、生き方でそれも素敵だと思ったんです。習い、教えてもらってきた

道徳観念では発生し得ない「美しさ」が見えたんです。

思い切れた人は、新しい世界に挑むうれしさでギラギラとしてくるんです。
ソフトウェアとして、今、そこまで培ってきたものをフイに横へ置きやり、
猛ダッシュで白紙からはじめるうれしさで満たされる。
横に置きやったものは、そこで腐ることなく、新しい知識の肥えになり、
挑みっぱなしの人間に、「いつでも使えよ。要るときにはよ」と喜んで備わっている。
私たち一般の「知識の蓄え」はそのほとんどを腐らせる、「ただ知ってるだけ」という
経験則でしかなく、その気持ちのどこかに「がっかり」していることも
分かってるわけです。そんなとき、無闇にも果敢にその活用ばかりをする人間を
目の当たりにすると、自分がいかに座り込んだまま気勢をあげていたかと無様さを
思い知るわけです。

つまるところ、人間ってのは「ソフトウェア」の存在のような気がするんです。
世の中の「解釈の仕方」の違いってやつで、自分と他人とを差異してると思うんです。
解釈のダイナミックなものを実践している人間に出会うと、もうとたんに平静で
いられなくなるわけです。ああ、こんな生き方あるんだ!!!!というハツラツとした
気持ちに思考が負けるのです。気持ちは使っていなくちゃ塞ぐモンなわけです。
上手に生きてても、どこかつまんないわけです。つまんないことに慣れるほど
人間は退屈にできていないので、生活に支障のないサイズの「プチ冒険」に
あまんじてみるわけです。ちょっぴり小出しに感情をを使って、チョイと波立つ
感じになれば気が済むのです。でも基本的には「もとに戻る」つもりの上なわけです。

気が済むんならそんでもいいよね。
済まない人ってのをいったんみかけると、ああ、もう知らなかった、では
済ませなくなるんです。ここまでできる人ってのがいて、自分は「しない側」の
人間なんだと計ることになるんです。
「それでいいのか」って訳です。
「そのまんまでいいのか」って訳です。

人のソフトウェアとしての威力を私は信じます。
ですから、わたしはそこについて力添えをする人間の側ではありたいと思うのです。
本当の意味での「臆病さ」が物ではないように、人間の気持ちの上に
生まれでます。わたしたちは貧相なソフトウェアしか知らないままに生かされてる
ことに憤っていいような気がします。そして、それを放っておかないように
生きるのも大事のよーな気がします。実践はすこぶる難儀なもんです。
どんなことでもね。しゃべりすぎだし、わたし。

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