素朴

剣道を小学生から中学生までやっていた。なかなか上手にはならなかったけど、
礼儀とか姿勢とかには役にたったと思う。剣道に限らず、スポーツのできる
人っていいなあ、と思ってた。スポーツのできる人の「スポーツ勘」のような
ものが、自分には足りないなあって思ってた。運動神経ってやつだと思ってた。

テレビでイチローや松井(ゴジラ)さんのコメントを聞いてて、アッ、と
思った。ピッチャーの癖やしぐさから、次に来る球威を読み取るというのだ。
なに!一回一回勝負してるんじゃなかったんだ!と驚きつつ、うなづきつつ、
正直な感想は「ずるい!」だった。

無頓着に、「次になにが来たって、応じてみせる」というのがプロとか
スポーツに強い人の特性と信じていた私は「それって生き凌ぐのが上手なのと
同じ次元じゃん」とスポーツってもののフェアさとは別の力と感じたんです。

うん、まぁ人によればそうした「読みのうまさ」もスポーツなんでしょうし、
実際実力のある人がそうしたセンスを発揮するまでも含めて「スポーツ」って
定義するんなら、別段問題にするこっちゃないんです。
でもわたしはスポーツに関してはそうした前情報なしに応じる運動勘の天才さ、ってものを
競ってると思ってたので、頭の良さで凌がれてしまうと、なんといいますか、
「あ〜あ」なんです。うん、私の勝手な解釈ですけどね。

生き上手、なんてな言葉があるのかは知らないんですけど、このごろ人の
生きざまってものを目の当たりによくします。潔かったり、うやむやだったり、
渾沌としてたり、性格の良く出る事態に直面します。

世の中ってのは「自分は一生懸命やってる」だけじゃ間に合わないことがままある。
思ったようにはならないんだけど、そんなことは分かってるんだけど、それでも
慣れ知った環境だけは長く続くと信じたがってしまう自分の心に、人は、自分で
負けてしまうもんだと、私自身が思い知るばかりです。

でもそんなことはずっと昔から何度も何度も繰り替えし味わって来たことなので
いい加減慣れて「こんなもんさ」とか「しかたない」とかいいたくなるんだけど、
かつてそれを言った連中が心底私は嫌いなので、せめて同じ穴のムジナには
ならないことくらいを自分に課してるくらいの決心しかないのね。
それでもそれがあることだけで踏ん張れる自分ってものもあるんだ。
なけなしの、ちっぽけで、他人の土俵の上にある、さもしい決意なのかもしれないけど
それは私には大事な橋頭堡なのだ。

なにが起こるかわからない御時世で「なにか起こるかわかんないからこわくて
なにもできない」って考えるのもひとつです。
でもどうせいろんなことってのは勝手に起こるんだし、止められないのであるなら
「なにが起こっても応じる」方法を模索したり、工夫したりする方が、私の性分には
合ってる。

私ってものは頑丈にも丈夫にもタフにも仕上がってないので、簡単で些末なストレスに
あっというまに飲み込まれて溺れて、くたびれきってしまう。リスクの分散を
あらかじめ考え、被害のもっとも少ないであろう方向をめざす。
かといって、リスクに近付かない、ってのも筋が違うと思う。思うから涙目で
なにが起こってるのかは見る。見て感じたものをそのまま腹の底にズドンと
落としておく。落としておいて、何度も何度も何度も反芻する。いつでも
思い出せる準備が続く。1回した失敗を何度もしちゃうこともあるけど、
生きてるんだから、人ってバカなもんなんだから、それはそれでいいのだ。
ただ、なかったことにはしない

賢く、上手に生きたいんじゃないと、エッセイでずっと書いてきています。
心が嫌だ嫌だといってることを、行動で別のことをしていると、人間ってのは
ちゃんと病気になるようにできてるんですね。心と身体は同じ方向で向かって
いられるのが一番です。

なにか決意してたり、好き、嫌いを設置してる以上、人はその気持ちに左右される。
なにを見て、なにを聞くかを、選んでしまうことをする。片寄った情報に自分を
翻弄させてしまう。流れってものまで、こっちのした決めごとの上にちゃんと
流れている。だから結果にものっかる気持ちが自分の中に、いつも、こっそり、ある。

決めれば決める程に、窮屈になり、解釈が要り、複雑な気持ちになる。
決めなければ、おおらかではあるけど、たどり着けるところは、自分のコントロールから
少なからず遠いものになる。
迷っていてもコマっていても時間は均等に流れ、私達はどこかなにかへと辿り着く。
せめて自分の期待するところに近く不時着すべく日々奮闘するくらいの努力を
一生懸命にやる。

そういう意味では、私は冒頭に言うスポーツ選手のような「うまさ」じゃなく、
愚直にも「きっと運動の勘ってものがあるんだ」と信じてうろうろしてる
いつもの私の見え方の方が、きっと好きなのだ。
すごいのも、うまいのも、私は憧れるけれど、本当に好きなのは、もっと愚かしくも
手管や策略の効かない、素朴な生きざまのような気がする。

加工や工夫の効かない、それ以上分解も、再加工もできない、最小単位の「本当さ」
ってものだけで、生きられたら、楽しくって嬉しいだろうな。
世の中で生きるため、ってふれこみで、あまりに邪魔っけなものを後天的に
私達は仕込まれ過ぎてしまっているから、パンクしてしまった人たちが社会に
こんなにあふれてるじゃん。落伍者ってより、「こんな社会にうまく馴染めるかよ!」って
方がしっくりくる言い方だと思わない?

なんせ僕らは便利で上手で賢いってことに過剰に憧れ過ぎているのだ。
結局はそれに振り回されてしまう。装飾が、本質を越えることは、ないのだ。
(こんな部分で器用であったっていいことなんかないんだからね)

たまーに、本質を使って生きてる人に会うとうれしくなってしまうのは
そのためなんだろう。ああ、やっぱりそれって素敵ですよね、って話し掛けたくなる。
こんなことが稀であるってことがそもそもさみしい話ですよ。うん。

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