わかってないところがまた楽しいってもんだ

自分がまず楽しんでいるかどうか、を相手は見ているものだと思う。
それはこっちが「見せたい自分」でふるまっているときには機能しなくって、
「みせたくない自分」とか「今見てなくてもいいだろう、って時の自分」というのを
他人が見たがって、それを信じたがっているとも思う。意識しないでふるまっている
部分こそを他者は信じやすい、ということなのだろう。

禅を極めたお坊様であれば、そうした無意識の自分までもコントロールするんだろう
けれど、こちとら凡人なので「じゃ、すきなよーに解釈しといて」とさっさと
気にしないことを選択する。それでいいと思う。

 

こうして私がこのごろ絵以上に写真ばかり載せているのはあきらかに私がものすごくものすごく
喜んで、誰にも頼まれなくても、望まれなくても、手前勝手にやたらうれしがっていることが
伝わる。マンガも写真も映画も芝居もこんな感じで作っているといい気分になれる。

好きすぎると、自分が好きでいる、ことを忘れてる。
これらの写真を撮った日もそうだった。朝から温泉めぐりして、部屋でゆっくりしたらいいのに
「温泉も入った・・・さーて」と航空基地に向かっているのだ。これって文章おかしくない?
気晴らしに、吹きさらしの、寒風吹きすさぶ航空基地周辺に、温泉上がりに向かうのだ。
温泉も、撮影も「少し時間ができたら」考えなしに行く。行ってから「さて、なんだっけ?」くらいに
自分でも考えなしであったことに笑えてくる。「でもまあ、来たんだし」と来ちゃったので
温泉はいります、写真撮ります、となんだかもう無意識に近い感覚。自分が好きか、どうかすらも
考えていない状態。そこに身をおいて時間を過ごすことに「もう自分で決めてて」、その決定が
自分ではよく分かってなくて、そういう欲のないブラリ気分でやることは、気負いがないので
頑張ってる時よりも俄然魅力的で奔放な結果になる。うまくいく、のだ。

「好きでやってるので、うまくしたい」などと思うともう純粋に好き、だけでやってられなくなる。
うまくなくちゃ、とか仕事にしなくちゃ、で始めると、とたんに自分が面白くなくなって来て、
最初に書いてきた、自分を見ている他人が「あ、ながや、楽しんでないモードに切り替えたな」って
ばれる。ばれてもいいんだけど、ばれることそのものより「楽しみきれてない」感情の起伏のなさに、
自分以外の人もこころなしか静かにがっかりにつきあってくれるように、私には感じる。

この考え方のはじまりは大学の時にやったお芝居が発端。
芸大だったので上手なお芝居をする人はたくさんいた。そんな大学の中で興味本位でお芝居をうってみようと
はじめた道楽芝居が、思いのほか本格的になってきたときに、私は自分が芝居を「うまくなれる」とは
とても思えなかった。志が悪い。うまくてすごくて楽しい芝居に自分が寄与できるとは思ってなかったし、
常々他者のツマンネー作品に触れるごとに「ホントに作品が好きならお前は作品なんかつくるんじゃねー!
お前ごときの作品があるから、『この芸術は駄目だねー』って人が出てくるんだ。ホントに好きなら
さっさとこの芸術のために離れろ!!」とか怒ってきてたいきさつがあるため、大学3年で突然お金取って
お芝居をすることにした自分をどう位置付けたらいいかわかんなくなってた。

そのとき「上手な芝居」をかなり早々にあきらめて「芝居が楽しそうな自分」でいくことにした。
非常に作り手としては邪道である。邪道なんだけど、それまで私が作ってきた映画やマンガやアニメでは
しなかったスタンスがそこに生まれた。「楽しそうである自分」から発せられる電波のようなものがあって、
実はそれを見たがってる人というのもあるのだ、としみたのだ。

うまくて、すごくて、ユニークであればいいよね。でも、うまくても、すごくても、独創的でも生み出せない
ものがあるとすれば、それが「作り手こそが楽しんでいる」という無意識に近い「本気さ」ではないだろうか。
新しいことに没入できるうれしさっていうのは誰にでも共感できるし、再現がしにくいから、それを稀なものと
感じ受ける。人は他人のそれであっても触れていると高揚できるのだ。
映画も音楽も、そうした高揚感を「再現」するために人は触れていってるんだと思う。
かつて知った高揚感に似たなにか、を自分に取り戻す行程なのかもしれない。

自分自身でそれが生み出せなくても別にいいのだ。それそこに近付いたり触れたりすれば取り戻せる感覚
それこそが一番よろこんでしまってるものなんだと思う。
私のこの頃の写真を見たって、人によっては「なんだよこんなありふれた写真」でしかない人もいると思う。
でも実際この写真を撮るまでにしてた準備がどういうものかを「すげえ!」っていう人もいると思う。
私がこれらの写真を撮ってて思うのは「おもしれーー!」であって、その間に横たわる手間や出費がさほど
重要ではない。「おもしれーーーー!」がニセモノでないのはこうしてエッセイにしてたり、写真をわざわざ
アップしてたりすることが、ひとりよがりでも楽しそうであることでわかると思う。

どうつきつめてみても、その人がただ「楽しい」だけでやっていたら、もうまわりは「そーだよねー」って
いうほか、別に言えることも、足すこともなんにもないと思う。一番いい状態だよ、それって。
楽しい、ってことは、わかんなくっていいんだ。うん、それだけのことだ。まったくな。

 

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