自信があるのである

旧友とラーメン食べてて、ふとなにかの拍子に「自信」の話になる。
わたしも相手も、「妙な自信」があることが判明した。それは世間にいう
「自分を信じる」といった控えめな類いのそれではなく、いわれのない次元から来る
理由なき自信、であることも共通していた。

なにかを成して、その結果に「えへん!」とするのではなく、まだなにも成しても
いないというのに、自信がすでにあった状態で生き長らえてきているのだ。
つまり、結果や評価という、周りの人を合点させる理由のそれではなく、まずなにより
先に「自分を基本的に疑っていない」という安定感がある。
誰彼がなにかを言っても、言わなくても、評価を変えないという絶対的審美眼のようなものが
まったく揺れ動かない状態でいられるのだ。

知識や才能をはなにかけるでもなく、なぜかもうそこにある自信。
返して言えば、なんで周りの人たちは自信がないのだろう、あって当たり前じゃないのは
なんでだろう?くらいの圧倒的自信なのだ。上手くいくに違いないと、信じてる。
信じてる。
信じてるのよ。
疑ってない。

なんでだろ?
なんででしょう?
「可能性」ですか?


がっかりしたり、悲しくなったりもするんですけど、
自分を嫌いになったりしてるような気もするんですけど
いや待てよ・・・してないな。嫌いになってない・・・

そうはいっても、じゃあ周りの連中が間違ってる!とも思わない。
みんなはみんな。自分は自分。
一斉に「自分は大好き」だけで済む話よね。

んー、つか、それじゃあ駄目なの?
自信もってたらいいのに。
かつて「それは君だからだよ。みんながみんな、そうはいかない」って言われた
こともある。
そうか。
そうなのか。
と、したら私はただ「自信があるのです」ってだけ思えただけラッキー!! 程度に
思うだけなのです。なんの得も損もない、ただ持ってる「自信」。

ただ、これがあるだけで、できること、しようとすることの絶対量は変わってくるとは
思う。分からないこと、知らないことっていうものに、あきらめたり座り込んだり
しないで、自信一つで突入することはあるもんです。

そういう意味では、資格とか才能とかいう「世渡りの道具」に凝るより前に
まずもって鍛えておくべきものは「自信」なんだろーな、とは思う。
パソコンでいうと「資格」「才能」は性能のいいアプリケーションだろうけど、
「自信」という「OS」の決定的な度量のでかさ、性能の善し悪しの前では
「不毛な高性能」になりかねない危惧を抱え持つ。

まず「自信ありき」ってのは、結局昔っからその「自信」の肉付けに手間ひまかけたって
ことだと思う。ここいらへんに早く気付くと、けっこううまく生きるものなんである。

....って、なに書いてるんだこれは。
なんか、フツーのことなんだけど。
が、他人に言わせると「妙な自信」って表現の方がわかりやすいみたい。
じゃ、そーゆーことで。

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