インターネットラジオ

テレビがすっかり嫌んなってスカパーに逃げ出したものの、スカパーすらも凝視できない
感じになって、しばらくラジオばかり聞いていたんですね、でもまあそのラジオのCMですら
なんだか億劫になるもんなんですね、CDで音楽聞いていても、なんだか閉塞感にさいなまれ
まして、ゆるゆると世間とつながっておきつつも、音の入って来るなどという都合のいいものは
ありはしないかね、となんとも自堕落なことを考えていました。

ある日パソコン屋さんで「インターネットラジオ」なるものを見つけ、むむ、ラジオってのは
電器屋さんで扱う類いのものではないんですかと興味をそそられ、説明を読んでいますと
どうやらituneとかでつながる、あのインターネット上の番組を、パソコン無しで聞けますよって言う
なんとも牧歌的なアイテムらしいのです。

インターネットラジオってパソコン起動しないと聞けない状況ですよね。ディスプレイは煌々と
明るく、時々ハードディスクがぶいーんって鳴って、熱くなってくるとファンがぶわーんって鳴る
ラジオ環境が「ネットラジオ」のイメージなだけに、そうした煩わしさがないってんなら
モロ手を挙げて歓迎よ!ってなばかりに即攻買ってしまいそうでしたが、先だって「いつでも
岩盤浴パッド」なるものを手に入れたばかりの私は、少々自分の買い物センスを疑ってる節が
ありまして、遠慮がてらしばらく冷静になる時間を置くことにしました。

1週間も自分を我慢させてみましたが、しょんぼりしない自分の「ラジオが好き」熱に発火している
ことを感じ入り、本日買ってまいりました。

インターネットラジオがどれだけ「普通のラジオ」と違うかと言えば、CMもMCもほとんどない
ところでしょうか。番組、というよりも「音楽のだだ流し」ですね。あるジャンルの傾向ばかりが
延々流れている。

事実、私がネットラジオを入手して聞いているのは「LiveSoundFrom西表島」などという、
西表島の鳥や森の音が延々流れてるだけの環境音楽だったりするのです。ながやの実家は
そういう田舎サウンドに事欠きませんが、そうそう田舎には戻れませんし、今生きてる住空間で
しんなりした自分の気持ちにしっくりくる、そして「ボディソニック」なる「音の出るリクライニング
シート」が部屋にあるワタクシには、世間一般の「ラジオ」が醸す「主張」が五月蝿い(うるさい、に
この字を当て込んだ人は天才ですね)だけだと思え、西表島の音だけ、という静けさのような「音」が
素晴らしくベストマッチするように思えたのです。

実際、ラジオなのに、「気にならない」、その存在感の薄さが実に心地よかったです。
ニュースも音楽も「主張してこない」音は、もうなんだか「ジョン・ケージ」の実験音楽寸前の
奇怪さのように皆さんには響くかもしれませんが、そうではないです。

主張がそもそもある、ってだけで暑苦しくなれるだけの情報社会に住まわされてる「とっくに拷問」な
最中に、いかに情報をそぎおとしておきながら、それでも流れ続けます、などという一見呑気なようでいて
維持が極端に難しい要望を、応え続けられるのが、ネットラジオだったんですね。
だいたい西表島の音を聞きたいだけの人にとって「その音を手にするためにはスポンサードがっ、
クライアントがっ」なんてのはそもそも暑苦しいのです。あり得ないのです。

「加工なく、だだ、そうなんで」というモロ身のものを、味付けなく、プレーンに、素朴に、
味わう人だけが、ただ、泰然と、そーなんですか、そーですか、と味わうだけの媒体。
それができるのがネットラジオの「強さ」なんですね。

他人の声も、コメントも、考え方も聞きたくないんだけど、音は耳に入っていたい、というのは
しばらく「贅沢」の扱いだったんですよね。「ヒーリング」とか「カフェラウンジ」とか
ジャンル名のついた「癒しアイテム」の一角なわけです。今はそれすら仰々しいですよ。

ネットで「無料」って名のつくものは、めぐりめぐって「クライアント」にお金の戻る仕組みに
どこかで出会ってしまうことが増えてきてたから、それだけでげんなりできるくらい、こっちの
心ってやつは「打たれ弱く」なってきてたこともわかる。繊細なものを寄越せと野蛮な自分が要求してる。

テレビやラジオが「騒ぐ」ほどには有益な情報を含んでおらず、そのくせ触れている分だけ「毒づく」自分が
自覚できる昨今では、「情報リテラシー」とかいうコムヅカシイ単語で人を煙りにまくうさん臭い人も
多いから、そうそうカシコまった横文字で難解に解説するのではなく、ここはひとつ呑気な感じに
「ラジオもテレビも、うっとおしいので、ネットラジオにしました」って、大ざっぱ、かつガサツに
解決してみました。
そしてその決断はどうも正しかったようです。
少々私は、正気を取り戻してきています。

「好きなものしか触れ続けない」ことの危惧は、以前他のエッセイで書いてるから割愛しますが
それでも「力なく、考えなく生きていることで、自然と入って来るだけの情報だけで生きてみようと
したら、そのことごとくが雑音のように無意味だったり、どこかある方向へ思考をスピンオフさせる
ベクトルを持った、あざとい情報であった」
ものばかりであると、ただ放っておくわけには
いかない、って思うじゃないですか。

実際、今の「マスメディア」の品のなさは少々問題ですね。こんなテレビ・ラジオは見ないで、聞かないで
いた方がマシってもんです。品質の劣化がかなり激しいです。落ち着きがなく、冷静に考える素地を
人に与えない、雑なものが多すぎます。

そーんなことを思ってた矢先に、このラジオです。「犬の遠ぼえ」とか「虫の声」しかしてないラジオを
こうしてエッセイを打ち込んでるうちにも聞いています。考え事もできるし、音も邪魔にならない!
なんてミラクルなサウンド!なぜいままでこうした音はなかったのか!嗚呼!おお!

総じて言えば「耳が寂しい」のを紛らわす程度のものなのかもしれませんね。えらそうな蘊蓄がついたところで
あんまり大したエッセイじゃないかもしれませんね。でもそれがエッセイの持つ武器ですもんね。言いますとも、
書きますとも。そしてネットラジオ仲間をこっそり募るのですとも。たとえそのお互いがネットラジオを
聞きあい、たたえあっていても、沙汰なく、つながりがなくてもかまやしないのです。
「ただ、お互いにつながっていなくても、並行して、ただそう思う」ってだけで同士といえましょう。
いえますとも。言い張りますとも。ええ、それはもう。

だってそれくらい無益で(褒め言葉ですよ)無頓着ですらいられなかった時代が長過ぎたのです。
「意味」がつねにあり「理由」がちゃんといえるものしか存在できてこなかっただけの、その貧相な
社会存在こそが「あかーん!」といわれるべきものだったのです!(そんな壮大なエッセイだったっけか?)
「放っておいてちょうだい」主義万歳!(だったっけか、このエッセイは)

そんな自由自在なネットラジオの恩恵をあずかるのが「ネットラジオ」ですね。いちいちパソコンを
起動したり、ソフト立ち上げたり、アドレス打ち込んだりするのは面倒なんです(この一言で済むなあ)。
ラジオ聞きながら寝たいんです(これも本音だなあ)。ハードディスクの音もディスプレイの明るさも
ごめんなんです(だよなあ)。そうした悶々とした、鬱屈とした不満をケロリと解消したのが
今回購入しましたネットラジオだったのです。

実に無意味。実にすんなり。身構えないでいい相手を見つけた心地よさです。

 

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