覚悟

なにかしようと思えば、なにかできるもんだ。
したい、だけじゃ、できないもんだけど、一番最初に来るものは知ってる。
「覚悟」だ。

半端にする覚悟もできるし、全力注いだ覚悟もある。その覚悟にこもるものが
どんだけの大きさで、どんだけの量加減で、大きさなのかによって、
自分がたどりつけるもの、手に入れられるものが、違ってくるのだ。
それはもう、全然違う結果が待っている。

自分をどこにたどり着かせたいのかによって、覚悟ってのはさ、かえることが
できるんだ。覚悟してりゃ、なにか手に入る、だなんて甘えだよ。
覚悟だけじゃ、足りなんだよ全然足りないんだよ。

それでも覚悟なしに手に入るものなんて、それこそないんだよ。

最初に覚悟がいると思う。どんなことにも、どんな場合でも。

私達が、普段目にしてる、ことにしてるものたちの大半は、プロたちが作りそろえてくれた
「つくり置き」の世界なんだと思う。こと足りて、便利で、少しだけ「欲しくなる」もので
砂糖菓子のようにできあがってる。

でもつくり置き、なんだよね。いわずもがなに、「それに合わせて」ってことが
ディファクト・スタンダードにされてる。「みんなそうじゃん」という得体の知れない
「普通」によって。それは悪くない。きめるのが嫌な時には、やっぱり便利なのだ。

そうしたことによって、どんだけ進んでも、どんだけかき集めても、こんもり
するだけなのだ。選んでも、探しても、たどりつけないのは、できあいのものだからだ。

自分の中から出てないものを身にまとっておいて、どうして「自分」がわかるだろう。
どうよくなるのだろう。どうして、それが、いいものでいられると、信じたがったのだろう。

足りなかったのは覚悟。
最初にそれを持って、立ったことのないところに立つ。そこから見渡して生きること。
覚悟だけじゃ、どこにもたどり着けないけれど、覚悟なしじゃ、立つことすらできない。
見渡すことすらしない。考えることすらはじめない。

どこで、誰と、なににまみれて生きているかなんて、決められることだから、
それを「しない」でいるのは、もうすでに、「意志」なのだ。
「しない」という、「意志」なのだ。

起死回生の一打、なんて馬鹿馬鹿しいものに思う?
私は思わない。それは、ある。
実際、ある。

その一作品で世界を変えるくらいのつもりでものを作らなきゃ、と宮崎駿監督は言ったけど
例え話じゃなく、本気の、本音の言葉だと思う。
マンガと言うフォーマットの破壊を起こすくらいの作品を次世代に求めると手塚先生は
言ったと言うけど、それも本当だと思う。

新しい、ということはバリエーションの豊富さではなく、フォーマットの発生なんだろう。
マンガが多岐に、多彩に、群像のように経済を生んだとしても、それは新しさ、ではない。
そこで一儲け、とか、プロに、というのは「目標」で足りる輩には、それもいい。
絵を書いてリゃ楽しいとか、そーゆーんじゃないんだ。みんなで楽しい、とかいうんじゃ
なくて、焦がれているものが、少し分かってきた気がする。

些末な一撃でしかないのかもしれないけれど、それをしなくては。
足のつま先にまで血の巡りを感じる脈動みたいなものを、自分に掘り下げて求めるだけでしか
生まれ得ないなにかは、最初の糸口を「覚悟」でしか見つけられないんだ。

なにか決める、てことは、どこは捨てるとか、なにはあきらめる、とかが決まることだ。
なんでもあり、なのは「可能性」ばかりで、「可能性」のままでは、面白いくらい
「なにもない」を宣言していることなのだ。

要るものは起死回生の一撃。予感するものからたぐりよせるしかない。
そしてそれは、ある、のだ。
収斂するものから、それを予感して、精度をあげるんだ。

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