妄想とファントムペイン

禅の本をよく読むようになった。こだわって、執着して、頑張って、どんどん
殺伐とする連続が、なんだか周りのせいじゃなく、自分に由来するものなんじゃ
ないだろうかと、心当たりを手繰ってみると、禅の言葉がいくつか役にたったためだ。

大ざっぱな認識しかない私がスイスイと禅について語るに値しないのだが、「妄想」という
観念に自分は随分損をしてきたように感じるのだ。相手や、周りが理由なんかじゃなく、
自分の周りを「見たいように見て、感じたいように感じてきた」のが自分であり、
おおむね「自分がした解釈」で自分の中におさまっているのだから、それについて
怒ったり、笑ったり、悲しんだり、喜んだりっていうのは、どこか「ひとり芝居」の
ようでもある。実際に起こったことなんてのはすでに通過しており、こだわるにも
こだわりようのない「過去」となっているのに、それについて感情を起こしては
すったもんだしていられるっていうのは、「妄想」である、というわけ。

マンガを書いてて「妄想が過大なほどまんがは面白くなる」と言われて、そう言われれば
そうだなって思ったことがある。まんがを書く力とは「妄想の威力」でもある。
洗練された妄想が、他人を引き込む力を放つ。

実際に起こる、起こってることではなく、「自分が見て、聞いて、知って、情報を
そろえた上で、再度自分の分かるなりに『再構築』して、自分の合点のいきやすいように
思い直して、記憶の最初から『まず、こうでした』って都合良く覚えるのが、人」という
ものなのだ。

事実、真実なんてものではなく、実際に起こったことなんてものは、それを受ける側の人の
解釈によって「見え方」の部分からすでに、ゆがんだレンズで脳に蓄積される。
それを人づてに聞き知ったところで、事実だったものは「その人が感じ受けたもの」に
変容しており、いくつかの『その人には感じ受けなかった部分』は省かれ、『その人には
聞き受けられた』部分が誇張され、伝播する。

禅のめざす悟りってのは、わたしにはてんで遠い世界観なのだが、ある意味「起こったことは
起こったまま受け取れ」の修練で、自分の余計な解釈で、事実を汚さず、そのまま受け取れって
いうことを求めてくる。これは「普通」に生きてる人には非常に難しい。

人って言うのは、ただ「生きてる」だけでも、自分の考え、ってものに左右されてて
決して客観的なるものにはなれない。自分は自分じゃないか、とか思ってしまう辺りが
すでにスタートとしては不純。もっとプレーンな状態で、ものごとを見ること。
プリミティヴ、ともちょっと違う。

ただ、このごろ少しばかり「妄想」で余分に疲れ続けてきたことは自覚できるように
なってきた。妄想反対!とか言ってるんじゃなくて、妄想の正体を輪郭でもいいから
予感できるようにしておき、実際被らないで済む失敗や損害を、むやみに寄せつけないで
済ますくらいはしてもいいと思った。

人は、自分に許した分だけしか、怒ることも悲しむこともできない。
自分が許さなければ、どんな感情も、その力を発揮できない。

「そんなことないよ!私は自分が思っても見ない時にも怒れるし、悲しむよ!」って
人もいるかもしれない。
感情は自然に生まれでて、意志とは別に大きくなったり、生まれたりするんであって、
自分が、許す、許さないなんかじゃないよ!  そういう人もいるでしょう。
自分の力じゃなんともならない、どうしようもないことだってあるじゃん!
しようがないんだよ、どうしようもなかったんだよ、と。

そう、じゃあ、あなたには、そう、でいいじゃない。

私は思う。
自分に許さないことには、自分を傷つけることなんてできない。

そして「ファントムペイン」
幻肢痛。
事故などで健丈体だった人が、腕や足などを切断することになったときに、すでにない腕や足の
痛みを覚える感覚、とのこと。

すでにない、のに、痛い。
「それは神経の切断箇所が痛むんでしょう!」とかいう話じゃなく、自分自身が確かに感じる
「痛み」だけが本物、という立場から見れば、「痛い」という事実があり、すでにない体の
一部が「痛む」と認識しているんだから、痛いの他に考えようがない。

痛い、痛いはずなのに、肝心の痛いところ、そのものがない。
実際に痛い。ものすごく痛い。「でも、ない」

ない、ところが、痛む
痛み、は本物で、今、そこに、ある。
ないわけないじゃん、今、痛いんだよ?

痛いんだよ?
ない、じゃ、ないだろう!!

痛い、が事実、なんじゃないの?
「痛いはずない」って他人が言える?
当人への「痛み」が事実でしょう?


禅にいう現実、というものは、このファントムペイン、ってものと、どこか合致しないだろうか。
実際自分の身に「起こっている」ことは、はかない、霧散しそうな過去、にできるだろうか。
そんなことにこだわってないで、とか妄想、の一言で済む手合いにできるもんなのだろうか。

妄想、によって得られる自分への満足というリアルに、
ファントムペインという実体のないはずの痛みというリアルに、
生きてる私達は、なんとすんなり、日々負けていることだろう。

「それは自分の感じた、実際の感覚だったから」を
妄想、とかファントムペインの一種と片付けられる人は達観してると思う。それは普通じゃない。
それこそ普通、じゃない。

普通、が妄想の一種なのかもしれない。
「自分が感じたから」に依存したいがための、執着心みたいなものなのかもしれない。

私は思う。
妄想とか、ファントムペインに意義があるとする人の側であるべきだ、と。

悟りも達観もないせいで、日々の生活に苦しんだり不要に泣いたり、苦しんだりすることを
わたしたちは、自分で、決めてきた「果実」なんだ。
自分を、自分にいたらしめた原因も結果も「こんなはずじゃない!」という叫びまで含めて
「合点づく」なのだ。

自分、を突き詰めてしまうこともまた、決断なのだ。
自分を緩くあきらめることもまた、決断なのだ。
こだわろうと、こだわれなかろうと、いいも悪いもありゃしない。

ただ、「わけもわからずなんだか嫌」程度の認識でいると、苦しむばかりだからね。
大人って呼ばれる人たちは、そういうのが上手なんだ。身に起こることのいくつかを
「運が悪かった」ではなく、いきさつも、運も、もっとでっかくひっくるめて「まぁ、こうなるわな」と
得心が行く顔になる。

自分がわけを知ってる訳じゃない。説明も多分できない。
ただ、「自分がわかんないから」なことであっても、起こってくるできごとを受け入れるしかない
ことに慣れるのだ。自分が分からない、ことは、自分が知らないだけのことであり、
自分が知れる大きさも知れているのであり、予想できようとできまいと起こるものは起こるのだ。
それに対して「嫌」も「応」もない。

あきらめ、ではなく、そういうのが、生きることだもんな。

だから。

だからさー

わかろうとわからなかろうと、妄想本意のファントムぺインみたいな「自分」という
感覚をさ、大事にしたいんよ。
揺るごうと、馬鹿だろうとさ、「そうするしかなかった」と思えた自分を、擁護したいんだと思う。
たとえ一時のしのぎのような自分であっても、自分にはそのときにはそこに、そうあることが
重要だったんだから、そうしたんだ。

妄想結構。ファントムぺイン上等。

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