まわりがどーだろーとね

調子が悪くて、いろんなことがうまくいかねー、とか思うときがある。
なんでそう思ちゃうんだろうね。調子、なんてもので左右される程度なら、それこそが
問題なんだけどね。
周りが悪くってうまくいかないってのもおんなじだ。周りが悪くて止まるようなものなら
それはそういう縁とでも思えばいい。
がっかりしつくしたり、今の不幸に溺れていい気になっていられるところでもじもじしてないで
さっさと一歩進んでいれば、それでいい。

このごろの不況とやらで目に見えて「従来通り」でいられなくなっているものが増えた。
従来通り、ってのがくせものなんであって、「そのまま大丈夫」って思えた自分の考え方が
そもそも無理がある。そして世の中は間違いなく、元通りではないどこかにたどりつくことを
目指している。事態は必ず進むし、必ず変わる。だから「今」ってヤツにぐずぐずとかまって
いられるほど喜んだり泣いたりしてる場合じゃないんだ。

正しくて、一生懸命なものは、美しく言われることが多いけれど、意外にいざというときには
真っ先に切り捨てられる。生き残るものというのは、もっと切迫した勢いのようなものを
求めているから、ちゃんと生きる方法の肝心なところは、誰かレクチャーすべきだとも思う。
いやいや、そういうのは立派だよ。知ってなくちゃいけない。でも生きるときの決定打にならない。
それによりかかったり、頼ったりしても、裏切られたとか、的外れなことを考えない方がいい。
考え方が緩かっただけだ。

周りってやつに振り回されて、なんともはがゆく、打ちのめされた気持ちになることが増えてる
時代だと思う。目に見えた、真っ正面の敵!なんてなものじゃなく、見えないところから、
婉曲的に嫌われもって、疎まれて、去らされるような、ゆるい真綿で絞め殺されるような
息苦しさが、今の空気なんだろう。

じゃあなによ、その空気だからどうなのよ、ってことよ。

まぁ息苦しさがあったとしてさ、それに左右されてるから手間取る。
気にしないこと、をしないから、真正面からがっぷり組み合って、がっかりすることを自分で
選んでるからつらくなる。
気にしない、ってのは訓練しないとできないよ。気になったものをいちいち選り分けて、自分で
「気にしてる」んだから、ほかでもない自分が「好きでやってる」ことなんだから、
誰にも邪魔も工夫もできないもの。考えなしに「気にしない」ができると思ってるとしたら、
甘いんじゃない?

時代がこうだからこそ作れる心持ちってヤツもある。
否応なくもたなくちゃならなくなった心持ちだって、財産だと思う。

この年になってきて、思い通りじゃないってことが苦痛じゃなくなってきた。
思い通りってやつは、つまるところ「自分の分かるもの」の大きさが限界のサイズで、
自分が預かり知らないものは入って来れない。
予想外のものをたらふく、しこたま楽しみに含めたい方には「思い通り」なんてものでは
てんで足りないものなんだと思う。

無鉄砲にあれこれ、ってんじゃ幸せにならないことも分かる年になってきた。
やりたいことをやったツケは数十年かかっても、必ず、報いてくることも目の当たりにしてる。
積み重ねたものが、積もり積もるっていうことが、ちゃんとあって、「かつて知らなかった」ことで
あっても、その責を負う仕組みがあるのだ。

調子とか、周りがどーとか言ってられるうちは余裕しゃくしゃくなのだ。
周りがどーだろーと突き抜けていられることを知ってる人は、十分没頭して生きていられる最中にいるもの。
ぷりぷり怒ってたりがっかりしてる暇は、ほかのことにあてがえ。時間が惜しい。

ほかのエッセイ