よくわかんないけど、とにかく挨拶は大事
何か目指してやりとげたい、とします。決意や計画、実行力や仲間作りなど、もろもろの
準備をしないと仕上がらない。その上「思った通り」の結果とは違うもの。そういうのに
いちいち悶々として「嫌だなあ」とか「こうじゃないんだよなあ」っていう思いを持つことも
ままあると思います。

このごろ思うのは、人(他人)と気持ちよく生きていないと、自分の「思った通り」なんてのは
うまくいっても幸せなものとして残らないなあ、ってことです。
一瞬の、一時の期間を「いい気分」くらいにいられても、はかないまでにそれは霧散することを
手に入れた瞬間に、直感として気づくことが増えたので、「永くいい気分」でいるためには
「自分の欲」だけでは成り立たないんですね。

頭が良くても、仲間がいても、それだけじゃうまくいかないこともあります。
大事なのはそうした「知恵」とか「利害関係」のそれじゃなくて、
「ありがとう」「いってらっしゃい」っていうような、普段の生活に使ってる「知恵を含まない言葉」
だったりしませんか?

相手をどうこうしたい気持ちから出るものではなく、自然体に、自分が当たり前に使える言葉や
気持ち、態度が、相手に対してただギフトするだけのものが、一番強くて素敵です。

綺麗なこと言ってるんじゃなく、一番威力があるのがこれだと思います。
知恵を含まない、自分と相手を常々意識して、近い未来のうちに利害関係を推察して準備するように
人と接する人もいますが、そういう人は話してても「はっきりしすぎたり」「隠しすぎたり」と
戦略そのものが見え隠れして、辟易とするのです。そんな次元で右往左往する様につきあわされるのは
少々つまらない、いや、てんでクダラネーとか思っちゃうのです。
稀に上手にそうしたものを感じさせない人がいたにしても、長期的には気づきますし、結局のところ
そうした、こざかしい戦略なしに堂々と話してる人の魅力にはかないません。

現代社会ってのはなににつけ自分の側に「準備しておけ」「備えておけ」と物静かな脅しの連続を強いますから
ただのんきに、普通に生きるってのはすこぶる難しいです。付け入ってくる人ってのもいますし、ネット世界では
それは顕著です。ケータイ文化も「入り込んでくる」ものが多すぎます。無防備に生きるのは難しいのは
たしかなんですけど、それでいて「常に備えている」生き方はあまりに窮屈ですし、生きてることに
一抹のつまらなさとメンドくささが延々死ぬまで続きます。これで心が健全でいようってのがそもそも
無茶ぶりです。

「知らない大人についてっちゃいけません」って言葉をこどもに言うようになったのはいつからでしょう。
少なくとも私が幼少の頃、困ったときには近くの大人に助けを求めなさい、っていう道徳教育は
大人になりきる前に変わっていました。最初の方の文章は「知らない大人は、悪い大人です」っていう文章ですよね、
これは。
そうなんでしょうけどね、そうなんでしょうけど、こどもの頃にこんな言葉が入ったこどもが、
人を信じなさい、っていう啓蒙教育を順次学校で習ったところで、幼少の折から連綿と言われ続けた
「知らない大人には〜」のすりこみには勝てないでしょう。基本的に疑ってかかれ、という教えを
打開するには、個人で勉強するか、宗教にでも入信してその手のお言葉をいただくかくらいしか
アプローチの手だてがない。それこそすでに不幸ですもんね。

人と共に生きてゆき、気持ちよくやりとりするには「損得勘定抜き」でいられるか否か、が分岐点です。
たとえ家族でも損得勘定が入るときもあるでしょう。なしにはなりゃしません。損得勘定も大事です。
ただ人に「挨拶をする」っていうことは「やりなさい」とか「やったほうがいい」というものではなく、
挨拶をしてることが、結局一番無理なく人と生きれるよ、なにかごちゃごちゃ迷ったり困ったり
しないで済む生き方につながってくよ、ってことが予感できるのです。
予感できるのです、という言い回しは私自身が最近つくづくそう思ったばかりで、まだうまく説明
できない直感を書いてるのでこうなりました。

挨拶ってさ、知らない人にも知ってる人にもできるじゃん。それでいてされた方は誰にしたって嫌な気持ちに
ならないでしょう?これってすごいことじゃない?誰にしたっていいんだよ。減らないし、心が
コンタクトするんだよ。一瞬でもさ、それって普段してる生活で一番できないことじゃない?
さりげなく、知恵もなく、損得もなく、ほんの少し人をいい気持ちにしてゆくことを毎日毎日する。
ちゃんと挨拶のできる人は、ちゃんと生きることを「考えたり」「迷ったり」する頻度が少ないと思う。
それは日頃から挨拶によっていろーんな自分以外のものと「つながる」ことや「距離」がはかられていて
自然体で過ごすことを許してるし、許されてる物腰になるからです。いいですよ、このスタンスは。

努力してなにか手に入れたり賢くってなにか物事がうまく進んだりする人もすごいなあって思いますが
人為的すぎて、思った通り過ぎて、自分寄りすぎて、正味の話、うさんくささが残る。
心底楽しいものってのは、誰の意図もなく、漠然と進んでいって、意外に面白いってのが本当だと
思いませんか?「誰の願ったゴールでもないものにたどり着くのが人生」だとしたら人生の多くの場合は
「思った通りじゃない!」の連続な訳で、その中で出会う「自分の思った通り」「他人の思った通り」なんてのの
結果なんてのはちっぽけで瑣末で小さなものなのだ。それゆえに「他人の借金を負う」とか「誰それにだまされた」
とか他人に関わったことで被った気持ちになる実損で、自分の人生が振り回されると、すこぶる嫌な気持ちに
なります。そういうのは、本来関わっていたくないちっぽけさのものだからです。でも見過ごせない拘束力を
もつので適当にあしらうことも難しいでしょう。

人が「生きている」のは理由なんてものはない。ただ、生きている。そこに、ある。
ただ、そこにある、っていうことの、ものすごさ。
ただ、ある。
ただ、いる。というとんでもなさ。
今、ただ、そこにいるからこそ、偶然のように「そこに、いた」人と挨拶ができて、気持ちが生まれる。
挨拶を返されると、ふんわり気持ちが和む。偶然、幸いそこに「ある」人ふたりがいて、ようやく
そうの気持ちを「味わえた」ことの結果を持って、生き続ける。

意図はない。戦略も別段必要ない。そんな「心地」で生きてる時間を増やせると、おっつけ幸せなものは
寄ってくるものだ。自分に寄ってくるものは、自分に相応なものが選ばれてくる。自分が選ぶものより
他人が選んでくれるものの方が適切ってことあるでしょう?それだよ、人生の大半で触れているものは。
それの連続。

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