調子のいいとき・悪いとき

物理的に人間の中身に大きな質量差がでているわけでもないのに
調子のいいとき、悪いときという、露骨な差が生まれる。
調子はそのまま、自分の出せる結果にまで影響してしまう。

私は特にゲンをかつぐようなことはしないけれど、それでも
自分の出す結果を商品にしようとしている人間なので、
なにを取り込んで、なにを拒絶しようとしているかを決めて
いるくらいには、自分の傾向を把握はしているのです。

まー、この、「取り込み」だとか「拒絶」だとかゆーてるからこそ
限界ってものも設定してしまうのですが。

さて、質量として、脳の中のものとして、大きな差を生んでいないのに
人としてできることがあまりに「違って」しまうので、親にすら
私個人では「躁鬱のケがあるかもよ」と言われるくらいに、生活の
スピード、質に差が生じます。意識してなんとかなるってものでもないし、
調子を上げも下げもできず、そう、唯一「調子」に関与するために、
「いい作品を発見する」ことでしか、自分の中のものなのに、触って
いけないものがある。

幼少のころから私はこの「調子の差」には困ってきた。
特に不調のときに、自分でも「アカンなぁ」とわかっているのに、
そのうえ他人が気づかってくれるのが苦しかった。「がんばって」と
いわれるのも困るんですが、人としてひどくムラが生まれることを
指摘してくる人には特に困ったものです。自分でもひどくムラがあると
わかってて、治そうにも自分ではうまく触れられない部分。

治す・・っていいますか、あんまり調子を上下させない方法みたいなものは
なんとなくは分かるんです。それはたしかにある。
そのうえで、その方法は私にはできないと決めているフシがあります。
調子を落としたときはうまく立ち直れませんが、その分調子のいいときは
普通の人よりずいぶんと我ながら面白いことになるからです。
調子のいいときの自分というものは、自分のことなのに、自分の
生みだせるものが予感できず、意外ないいものが生みだせたりします。
で、反面不調の具合とはおおむね思った範疇で不調の具合がおさまるので
「不調の面白み」って点ではつまらないのです。

不調の時のモガキみたいなものは、まるまる自分の性格にまで波及し、
知らず知らずのうちに、自分の不調な部分を防御する性格を作る。
人はもしかして伸びるものよりも、不調をカバーするものによって
人間性をつくっているのではないかと思うのです。

「パラシュートといっしょで、人間の心だって大きく開かなくては
使い勝手が悪いのです」とどこかのラジオでいってた人がいました。
んー、まー、ええんやろね、広いほうが。
あんまり大ぶろしきを広げたことのある人が、広げすぎて自分で
収まりがつけられなくなって、やがて疲れたり、壊れたりして
自分のサイズというものを決め込んでいく。

ものを作る人っていうのは、自分で生む結果に驚きたいんですな。
自分で作ってるはずなのに、作品はどこか自分の事情だけでは
作りきれないものがあって、どこか幸運や無意識な作用が、作品の
方向を大きく左右します。

だから、自分で心底嫌いなものも、一応見たり触ったりはするんです。
自分が意識してないところからも、作品が生まれてしまうからです。
結果が自分に不利になっても、長期的に得るものもあるからです。
それは、自分の性格からはまったく相容れないものでして、ひどく
傷ついてもやってしまうわけです。やっちまってからも、あ〜あ、とか
思うとわかっているのに、やっちまうわけです。つまり、「やっちまえ」
と飛び込めたところまでが、その人そのものというわけです。
結果はすべてしでかしたことに対する返事。

社会の構造は、ムラなく均質なものが提供できるようにできる方向に
向かっているから、「いいものを、より安く」とか「エブリディ・
ロープライス」とか言うわけです。人間味のあるものは、ムラだらけ
なもんです。きれいに掃除をする部屋も、1週間すれば汚くなる。
汚くちらかしては、きれいにしなおす。奇麗にした先から散らかす。
「いいもの」に向かって、人々の期待するものを見越してサービスは
開発され、1ケ月もしないでいいものが行列をなしていいものが
生まれてきて、なーんか、つかれてしまうんですのう。

「いつも楽しく元気で!」という生活を期待させるメディアが騒ぐほど
イライラする人間が「生産」されている。その素敵なラインに自分が
たどり着けていないと憤って、焦って、いつも「足りない」ものばかり
自分に強調してしまう。

地球の雑菌だらけの大気の底で生きてる人間だとゆーのに、
そうそう美しくてどーしますのやら。

「ええんや!今そのままでえーのや!」と叫ぶ人がいない。
いや、いるんですが、メディアには載らない。お金にならない
主張だからだ。
足りるも足りんもない。今あるものがすべてだし、今あるものから
次のものが用意され、生まれるんだ。不足と感じてるところへ
補充がされる。

こう進めてみますと、「調子の悪いとき」ってのが怪しくなってくる。
自分の調子に「基準」があるでなし、「悪い」といってみたところで
どこから、なにと比べて、どう悪い、ってもんでもないことのように
思えてくる。調子とはそのときのそのまんまだけが状態として
あるだけで、それをそのまま自分に「うん、今はそう」で
済ませられないことこそ、むしろ「なんで?」と思うべきなのかも
しれないや。

ンムー、なんか、ここまで書いてきた文章読みなおししてみたら、
分裂症みたい。フッフッフ。
でもこれは私の持ち味につながってる。万全を求めるのは滑稽なんでしょう。

 

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