役者じゃのー

一般にいう「アイツは役者だ」ってな次元の役者ってものもある。
人は見てくれの芝居を生活の中でしているものだから、みんな
少しずつ役者ではある。好きな人に見せたいいい人であったり、
苦手な人間にみせるそらぞらしい知らんぷり、仲間と一緒にいるときに
「合わせる」人柄など、人は状況によって少しづつの役者であるはずだ。

普通の人の方が役者である。なんら意識せずに芝居をうっている。
さて、じゃあ俗にいう芝居の役者ってものがなんなのか、学生の
ころからずーっと考えてみたり、感じてみたりしている。

映画で役者ってものがいるときに、アマチュアフィルムではなかなか
うまい役者ってものが確保できない。そこで自分の仲間うちから
役者ってものを集めてくる。必然芝居のうまい人と下手な人ってものが
混在する作品を作ることになる。同じ「人」なのに、フィルムの前で
発揮される芝居に明らかに「差」ができるのはなんでだろう?
うまい芝居をする子は2度でも3度でもいい芝居をするのである。

同じフィルムの尺(長さ)を使って、そこにインパクトできるものが
役者ってものの質の違いで100倍くらい違ってくる。じゃあ、役者って
なんなんよ?ってところにいくと、一概にいい役者の定義は意味がない
なぁってこのごろ痛感しているのだ。

大雑把にいうと役者ってものは次くらいにはわけることができる。
◯ うまい役者
◯ 面白い役者
◯ 下手な役者
◯ どうでもいい役者

うまい役者ってのは「舞台の上にたつといい声で、キチンと世界観を
感じさせる役者」だと思う。へたじゃない。へたじゃないけど、
面白くない。面白くはないけれど、うまい。へたじゃない。私はこうした
役者はたくさんいると思う。でもみんなが芝居ってものに期待しているのは
こんな役者じゃない。でも世の中に一番たくさんいるのはこれだ。
基本がしっかりできてて、芝居への理論も自分なりにできてて、受け答えも
アドリブもそこそこうまくて、なんとでもなって、なんとも退屈だ。
演劇の学校などで量産される役者がここに入る。

面白い役者が「うまい役者」と決定的に違うのは「基本に不誠実」なところ
で、発声も筋肉トレーニングもあんまり重きがない。なのに、芝居の
上では「うまい役者」をすっかり凌駕してしまうくらい、観客の心を
グワシとわしづかみにする。
これは人間としての「個性」をすっかり自分の武器にできる人が面白い
役者になる。美人とかハンサムなんてつまらないも次元のものをそっとばして
役者をめざす人はこの方向が一番しっくりくる。
「面白い役者」は他人にまねができない。
「うまい役者」は他人にもある程度まねができるのに比べて、面白さって
ものはまねしてみても、オリジナルほどのキレも凄みもない。
真似ができないから価値がある。
ブサイクさやマヌケぶりも武器にしてくるから、まったく悪怯れたところが
ない。そんな人間は輝いている。ふっきれている。

下手な役者は「一生懸命芝居らしいものをやろうとしててまったくうまく
イカネー」役者である。芝居をしてて、めざしてるものが明らかに
「うまい役者」なのに、その人にできる芝居は「『うまい役者になりたがる』芝居」
なもんだから、芝居そのものの方へ観客がひきこめない。もしかしたら
あんまり芝居そのものは好きじゃねーのかもなって思ったりする。
芝居をみてる観客が、芝居を見てるってのに他の考え事ができちゃったり
するときは、たいていこの「下手な役者」が舞台にでてるときだ。
とはいえ、日常生活では普通の人よりは芝居がうまいのである。
なのに舞台にたつとからっきし魅力がないって人は存在する。いや、たくさんの
人がそれである。役者として魅力がないのである。本人は芝居が好きかも
しれないが、その芝居ってものの本質の面白さに無頓着で、本人はまったく
面白くないのに自覚はない。

いっそ「面白い役者」めざせばいいものを、前述のように、本人は
うまい役者になりたがってて、主役ばかりが芝居よぉ!くらいに鼻息が
荒くって、まったくいてもいなくてもいい役者だと私は思う。
むしろ、本当に「芝居が好き!」と公言するのなら、早々に芝居をやめなくては
イカンと思う。だって、その人の芝居を見たことで、「芝居嫌い」になる客を
生んでいるのだから、まっとうにいい芝居をしている本当にいい役者達の
迷惑なのだ。芝居、は面白いものに違いない。それをミスミスつまらない
ものにさせてるのが「下手な役者」なんだから。

どうでもいい役者
これはもう、役者じゃねーだろ?って人が舞台に立ってることが希にある。
台詞も読んでるし、叫んだり、笑ったりしてるのに、目はもうなんだか
死にそうに必死必死の感じで、もう芝居じゃねーだろ?ってくらい、
「ただ必死」なのを延々と見せられるのだ。だから厳密には役者じゃない。
なのに、舞台に立ってやがるせいで「役者」って呼んでやらねばならない
クダラネー奴である。
感情的な台詞を口から出しているのに顔は一緒。
叫ぶ、泣く、怒るなどの演技はしても、人にまったくなにも伝播しない。
アニメのキャラみたいになんだか他人ごとの芝居で、感情が少ない。
そう、人間として極端に感情が少ない。感情の数こそが役者の幅ってーのに
まったく感情の表現に機微がない。前述の「下手な役者」にはまだ
向上する余地があるけれど、「どうでもいい役者」はどこにものびる
ための要因がないので、芝居以外に出ていく出口しかない。


さて、一般人と役者はあきらかに違う。本当にうまい役者ってものは存在する。
うまい役者、面白い役者は人の前にポンと立つと、そこですでに「舞台」を
感じることができる。一般人との間に「はい、こっから先は舞台なんで」と
一般人が入るのを躊躇(ちゅうちょ)させる雰囲気が生まれているのだ。

それは役者ってものがあんまり意識しないで生みだせる「威力」なのだ。
それは才能ってよばれるものだ。これもなしに、これに惹かれもせずにどうして
役者ってものがわかるものか。下手な役者やどうでもいい役者にはこれがスッポリ
抜けていて平気な顔つきである。バッカじゃねーの?って思う。

人になにかを伝えるってことは、伝えたがってる側の「感情」の量と質が
たっぷりとあって、それを少ない挙動で、それもたっぷりと予感させる方法が
そなわっている人間がすることなのだ。

数年前まではそれを「がんばって」生み出す風潮だった。役者も映画も漫画も
頑張っていた。で、いつのまにか「がんばってる」ものに溢れた社会になってて、
肩の凝る雰囲気でふくれてきた。
が、ここ2年ばかり「がんばらない」で面白い、ってことがナチュラルに
受け入れられるようになってきた。素で、面白いとはちょっと違う。
当然役者本人の心構えの中では戦略がうごめいているのに、それを「努力」とか
「がんばる」ことで発揮するのではなく、その、人の「素養」として、
あんまり仰々しくしないで、タンパクにポンと出すことのできる雰囲気が生まれて
きているのだ。大歓迎である。ここにうまれるのは「うまい役者」ではなく、
「面白い役者」なのである。そう、芝居ってのは頑張ったりうまかったりするのが
私にはもうノーサンキューなのである。やや胸焼けすら感じているのである。
食傷気味なのである。うまい役者はなまじうまいだけに、「つまらない」ことに
無頓着である。うまいけりゃうまいに越したことはないが、うまいだけの役者は
下手な役者によく似ている。

ズラリと並ぶ「役者ども」の中で、ポコンと頭ひとつ、自然体で目立ってしまう
人の「魅力」ってもののありようが、役者ってものを見ていると理解できる
気がすることがある。結局のところ、役者をみつつも探しているのは「魅力って
ものはなんだろ」ってことなんだろうか。「ただの人、なのに、見逃せない人」が
あなたの周りにはいないだろうか?その「見逃せない人」は魅力を発散しているでしょう?
わたしはそれが気になって仕方がないのである。
それが見たくて仕方ないのである。
だから芝居を見に行く時にはそれを期待する。
映画を見に行くときにも、それを期待する。
新しくて、すごいものは「うまい」人からうまれるのではない。
「面白い」人はやはり普通、ではないのだ。訳があるのだ。見逃せないものがあるのだ。
放っておかせないものがあるのだ。それはしばらく生きていく時に役にたつ
生活の元気の素になるものだ。役者はそれを人に植え付けるものなのだ。

面白い、ってことをあなどる奴はアホだ。
面白いものはかなり洗練されている。少ないもので多大な想像力を刺激する
魅力に満ちあふれている。役者さんはそれを推し量るのに分かりやすい
モチーフだったので、引用させてもらいました。

他のエッセイを読む