見られているもの

ぼくらはいつも現実に試される。君はどこまでの
ことをしようとしてるんだ、で、どこまで準備できて
いるんだ?で、どこまでをやった?

それを周りが見ていて、ああ、そうか、アイツはそこまでの
決意をしてるのか、ああ、そうか、アイツはそうなんだ、と
「今、そうであるもの」と「将来、どこまでやるのか」を推察
する。直感のようなものはだいたい正しい。

人のことを夢見がち、と片付けるのはたやすい。
でも本当の意味においてその言葉を言うに値する人は希。
誰がそれをいうのかで、その言葉の意味あいはまったく
重みを変える。

その時の状況や、結果が全てだ、と言う人の視野は狭い。
失敗そのものや、失態、破錠、困難そのものには意味がない。
同じように幸福、成功、好調、発展そのものも意味はない。
ホントに見るべきは、その時に、その人のとった態度だ
その人のしてる決心のサイズと質を目の当たりにするときに、
ボクらはハッとする。

大きなサイズと良質の決意には味方がつく。放っておくのが
惜しくなるからだ。それは自然なことだ。
小さなサイズや悪質の決意には長もちしないものを嗅ぎとって
人は敬遠することを選びがちだ。それも自然なことだ。
どっちが正しいとか偉い、ではない。そんなことは無意味だ。
どっちでもいい。そんなことそのものには意味はない。

案外、人は目先の損得では動いていない。
深く、心が推すものを嗜好する。起こっている事態に対する
態度からででしか、人はその人を計る術がないのだ。

だから、人を「試す」ことをやってしまいがちだ。これはとても
悲しいなぁといつも思う。人を試すのは無礼だ。
私は中学の頃あたりから、「あ、今、俺のこと、試してる・・」と
人がふっかけてくるものを感じることが強かった。試してくること
そのものはかまわないけれど、毎度「悲しいなぁ」と思った。
なんでそんなふうに人のこと、計りにくるの?
なんで放っておけないの?
そう、放っておけないのか。
試してくる人は、たいてい自覚症状がない。時々自覚のある人が
いるが、これはもう性根が悪い。これには怒ってもいい。

少し、大人になると、今度はそうしたことが面倒臭くなってくる。
ああ、またか、くらいに感じるようになると、これが心に
よくない。だからきちんと放っておいてくれる人に出会うと、
私は心底、楽な気持ちになる。上手にしてくれてありがとうって
感謝を心につぶやく。お礼はしないけれど、私は懇意を示す。

現実はひっきりなしに人を試しにくる。もうそれだけで十分
人を推しはかれる。現実は厳しいのではなく、こちらの人となりを
赤裸々にしにくるのだ。だから自然体で迎えたらいい。飾っても
装っても意味がない。現実を前に一番ハッキリするのは自分って
ものだから、裸で鏡を見てるようなものだ。

わたしたちは見られている。
まっ先に見ているのは、いつも自分だ。
まず自分を見られている。
自分に。
真っ向から。

直視を怠ると、後味がひどく悪い。
自分を直視しないままにしてしまった決意ですらやはり
自分のものだから、私は「レットイットビー」ができない。
「ケセラセラ」も得意じゃない。下手なのだな。
なるようにならせているのも、自分の決意の内なのだな。
なるようになった結果は、嫌なのな。そう思ってしまう人なのな。

「しちまった決意」と「しなかった決意」
両方とも結果を生むだろう。
どこかにはたどりつけるものなのだから。
でも進む道はそこで激しくずれる。
同じ道は2度とない。わかる?
毎日決めても決めなくても辿り着くところがあるんだよ。
だから、毎日・毎チャンスごとに、私達は進みのベクトルを変えて
いるってことなの。だから、さ、「ケセラセラ」ってものには
そうはいくか、って思う方。
ふうん、そう、じゃ、どうよ?俺?
はい。示していきます。これからも。
比較的、正直に。

 

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