素養のような才能

人間の見てくれ、というのは親ごさん、つまり父・母のDNAがもりもり
交わって、ふたりの見てくれから遺伝するのであって、その本人の
努力というのはその成長過程で後天的に育てるものの部分に作用できる。

どーしようもなく美しい人、という人が時々いるが、それはその人の
才能というよりも「運」がよかった感じがするのだ。それでも美人や
ハンサムには相応の「とりまき」があるもので、普通の人にはない繁雑な
人間関係というのが派生しているものだから、一概に「わぁ、うらやましい」
ってことも、あんまりないものである。

さてところで、今回のエッセイは「役者」さんにあって、「声優」さんに
欠けているものをえぐりだせたらなぁ、というラインの話しである。
(どんなラインよ?)
声優学校が日本のアチコチにできているので、声優目指す人間が
各地に点在していることはよく理解できます。しかしかれらは「役者」
になりたい、とはあんまり思っていないフシがあります。わたしの身近に
ふたりほど日ナレの学校に通う人がいますし、ワタクシの末の弟も
いよいよそっちの学校系にいきそうって時なんですが、ハナから「声優」を
目指しているのです。

返していうと、「役者」にあこがれることなく、ノッケから「声優」を
めざしています。そういった学校でやる勉強というのもエチュードやら
カツゼツやら感情表現やらとつまるところ「役者」の勉強なのですが、
それは「声優」への1ステップという認識のようです。

昨今は声優がアイドルなみにメディアに露出してきているので、
どこかかしこかで、みなさんも「本業・声優」さんを目のあたりに
しておるわけで、毎朝「オッハー!」とやってくれる人メジャーぶりには
どこか「声優」の認知度が高まったようで、うれしいようなそうで
ないような。うむ。
CDのオリコンチャートにしたって、声優の歌う歌がランキングしてない
時の方が少なくない?だいたい林原さんとか椎名へきるさんとかが
ランキングしている。
が、普通のJ−POPってもののなかで曲が続けざまにながれると、
さすがに声優さんは「ああ、歌手じゃないのね」とわかるくらいでは
あります。
あと、テレビにでている声優さんも「声優さんなのにテレビにでてる!」
といったライン以上のものではなく、パッと見には「どこにでもいる
人」であったりするわけです。

それは「アイドル」や「役者」さんに対し、「声優」さんに期待されて
いるものの露骨な素養の差ですね。声優さんは「アテレコ」の瞬間に
生まれる「今、そこで発した感情の表明」こそがその威力であり、
どうあがいたって、他人や一般の人よりその表現が「ピッタリ」に
できる才能をもっている。「声」の芝居を華麗に披露するには、
声優側に多彩な感情が準備されていなくてはならない。そのストックの
量もやはり多い。パッと見の映画やアニメの一瞬の感情に一番しっくり
くるものをインスピレーションで生みだし、観客の感情に
インスパイアできるものを叩き込んでくる。とうていシロートさんには
スイとできる技量ではないのだ。

だから、声優という商売には奥底に「職人気質」がある。作家主義の
魅力がパンパンに詰め込まれている。そこがどうしても「役者」や
「アイドル」と並ぶと腫れぼったく、重くなってしまうのだろうか、
役者・アイドルの放つ、あの「見てくれにガーン!」というインパクトに
物足りないのである。もちろんそれでいい。声優もやれれば役者も
やれるアイドルなんて「役にたってません」場合が多いのだし。

そのせいか、「声優」をめざす子たちは「華やかさ」には欠くが、
人一倍「思い入れ」は巧みである。「役者」か「アイドル」を
目指す人には「華やかさ」は必須である。

小劇場などで芝居を普通の人よりはやや見てる方だとわたしは自負してる
わけですが、いつも気になるのが「ただ立っているだけなのに、目が
吸い寄せられてしまう人」が世の中にいるということ。
動きの面妖さというか、奇抜さというか、しぐさの美しさ、というか、
目線のうつろい、というか、人としての「ドキン!」とくるところに、
音をさせないで放ってくる人間、というのが世の中には存在するのである。

前のエッセイで「ワークショップ」ってものに参加してみたとわたしは
書いておりますが、このときにも愛知ではありますが、その中の小劇場
たちから50人ほどが集まったことがありまして、普段「役者」を
自称してる人達にあっても、そうした「魅力」を放てる人というのは
稀でした。つまり、芝居をやってる状態と、芝居をやってない状態に
「なんら差のねぇ!」人がゴマンといました。ずーっと魅力的なまま、と
いうならいいのですが、その逆で、「芝居をやっているのに、魅力って
なぁに?とボンヤリ」していることがまま、あったのです。ホールで
ジュース飲んで休憩しているときと、エチュードで人に芝居を見せて
いるときに、なんら「魅力」として差のない人がいたのです。

小学校の劇とは違い、人様からお金をいただいて「芝居」をみせる人
たちというのは、相応にそうした「魅力」を放つのが筋ってもんじゃ
ありませんか。そうでしょう?その人達に払っているお金の何割かは
「役者の魅力」へのお駄賃だとわたしは思っておるのです。

それはお金を払ってでも拝みたい「魅力」というイマジネーションの
産物であるのだし、それを開発・発掘・育成・発揮してくるから
芝居ってスゲーんじゃん。役者ってスゲーんじゃん。
それが「できない人」、つまり「自称・役者」って人はどことなく
「声優」を目指してる人に、パッと見、似てるなぁ、と思ったのです。
つまり「声」はだしているし、身振りもしているけれど、そこから
芽吹いてくる感情がこちらには生まれてこないなぁ、とボンヤリ
おもうのです。つまり「なにも与えてこない」。さて、こうなったとき
「サギ」とどれだけ違うでしょう。いいですか、声優さんは少なくとも
「アテレコ」をしてるときに、見てる側を「ガツン!」としてくれる
「華」が職人のものとしてあります。下手な「自称・役者」には
そうした「見せ場」がスタンバってないのです。なーんじゃろ、この
不手際は。なーんじゃろ、その無頓着は。なーんじゃろ、その
無神経は。それではいけないでしょう。

DVDのオマケ映像などで特に「作品の裏側」などを安易に出して
いるますが、やはり声優さんはどうみても、見てくれで「ドキン」とまで
しません。先だっては「朴瑠美」さんや「高橋理恵子」さんを目のあたりに
したけれど、そこいらへんの人よりは「美しく」ても、突出した
魅力に翻弄されるってほどの威力ではなかったです。いえ、それでいいの
ですが、アイドルや役者を目指す人はやはりその線で頭ひとつ・ふたつは
突出していてほしいな、と。そこに魅了されるのだから。そこが不思議で
あるのだから。それはあらゆる業界の作品ってもの全てにいえる
条件でもあるのだけれど。ハイ。

つまるところ、才能のある人間というのはその「準備してきたもの」を
使っているつもりでも、人々を魅了しているのは意識してないその人の
「素養」であったりするのです。生まれてから持っていたり、育てられて
無意識に埋め込まれた意識であったり、知らず知らずのうちに気に入って
いたフレーズだったりと、その人が「意識しないで発揮してるレベルのもの」
こそが「素養」ってものだと思う。自然に出せてて、尽きる様子もなく、
なおかつ周りの人間の方から「好きー!」になっていくほかないもの。

その「素養のような才能」は「個性」でもある。
他人とそれをとっかえひっかえできない。誰でもない、その人にしか
できない。その人に触れることでしか見付け出せないから、その人に
触れにいくしかないもの。プロのひとたちにはそれがある。
努力して発散できる類のものとは決定的に違う。それに人はそんなに
努力して生まれてきたものを凝視してられないようでもある。
「努力!」「がんばれ!」を連呼してる割に、漫然とそのなかで
過ごしていることはできないくらいには気紛れな生命なのであります。
フッシギー。

役者にはあって、声優にないもの、少しは解明できたのかな。
返していうと、声優にはあって、役者にはないもの、がある。
でもこのエッセイでは「ただ、スイ、とそこに立っているだけ」なのに
魅かれてしまう人、の素養について書きたかったのに。うーん、
ちょっと失敗。ちょっと成功。

ワーッとみんなが騒いでいるときに目立つ人間というのは声を枯らして
叫んでいる人間ではない。見透かしたように黙って、なんらの思索も
推察させない間合いでスイと立っている人だ。ズラッと並ぶ人のなかで、
あたまひとつぶん、こちらの方から魅惑されてしまう音のない素養。
力づくではなく、テクニックともちょっと違う。ただ、意味もなく、こちらが
「ポキン」と折れることでしか近づけないなにか、だ。
それは「魅力」の「威力」だ。素養として、それのある人では
ありたいものであります。まさに。ええ、まさに。

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