作成日: 22/03/07  
修正日: 22/03/07  

"つかみのひとこと"全集

”つかみのひとこと”全集
”つかみのひとこと”とは、「パリとも本店」のホームページの中でCGI駆動しておりました

キャッチーな一言集です。昨今OSによっては閲覧できない頻度が高まっていたので、今回思いきって
エッセイ化して、リアップしなおしたのですが、見事に1日費やしてしまいました。ひゃー。


自分が気に入った言葉を引用させていただいた集まりですので、少なからず「雑多」感も
ございますがそこまでまるごと愛して下さい。まるっとね。
(見出し文のあとに日付けがあるのが、CGIでアップした日付けです)

● 師匠!ボクね、スーパーロボット世代なんです![2001年10月17日(水)]

(サイボーグクロちゃんより)

この時、スズキは弟子になった。ずいぶんとふがいない弟子だが言ってることは意外な上、妙にミニマムに

説得力があり笑えます


● 僕はただ足を失っただけの、なんでもできる人間だ 
[2001年10月18日(木)]

ボブ・ウィラードさんの言葉。アメリカに住んでいる人物だけど腰から下がない。
ないのに、腕だけでアメリカ大陸を横断した。ものすごいかっこいいじいさん。その人の言葉。
素敵。


● 私は何本かホームランを打った。それで何点はいったかはみんながきめることさ [2001年10月19日(金)]

もとGE会長ジャック・ウェルチののたまった言葉。とにかく挑戦する数そのものを増やせ、という簡単で

難しいことを推奨する人でした。



● まるで大きな石の壁です、お蝶婦人、貴方は![2001年10月21日(日)]

日本選抜メンバーを選ぶ試合の相手がお蝶婦人だった岡ひろみがつぶやく言葉。

出崎氏のあのギラギラした演出がまったりとてんこもりです。大きなものに挑むときの

気持ちがうまーく出てる言葉ですね。


● Mr.Nuts goes to the big top! [2001年10月22日(月)]

直訳すると「つまらないもの、頂上をめざす」みたいな意味。
とあるバレエ振り付け師の言葉で、
私が大好きな言葉。


● 絶好のチャンスだ。やろう![2001年10月24日(水)]

アラビア湾でたった一度のチャンスで石油を掘り当てようとする勇気ある男達の放った言葉。

この台詞の前には「これこそおれたちの実力を試すチャンスだ」というのが付く。

これらを言える生活はそう滅多にあるものじゃない。


● やなせたかしの『アンパンマン』では悪の定義がはっきりしているんだ [2001年10月25日(木)]

「クリスマスのプレゼントをひとりじめしてしまうのが悪い奴」

朝日新聞で哲学者鶴見俊輔氏がアフガンとアメリカの戦争をみての感想にでてたコメント。

私達は目の前にいろいろ見ているのに、そこに含まれるものをキチンと見い出していない。

それ、そこに「気付く」ことをさせるのは知恵なのだ。アンパンマンの例えは簡明で分かりやすかった。


● 私が1%のインスピレーションのためにどれだけ集中し、努力していることか![2001年10月28日 (日)]

御存じエジソン。99%の努力って方ばかり強調されているが、エジソンその人としては、

1%のインスピレーションなしには99%の努力は無駄だ、と言いたかったらしい。

ごもっとも、エジソン。


● それが答え?そんなに簡単に全部手放すの?[2001年10月31日(水)]

トライガンマキシマムの中でヴァッシュが自殺を謀る時にレムがヴァッシュの手にしてる

ナイフの刃先をとめながらつぶやく言葉。


トライガンという作品の台詞には心に刺さるものが多い。たじろぐヴァッシュを目の前に

レムが続ける


「あなた自分を軽く見過ぎよ」


そのままレムは倒れる


● お蝶婦人の大事なラケットをなくした私には怒られる資格もないんだわ[2001年11月02日(金)]

御存じ岡ひろみが「エースをねらえ」6話(アニメ)でつぶやく言葉。

どんな資格かよくわかりませんが、自分を追い詰める時はこんなふうに思いつめる」ものです。

しかし、高校生の言葉なんだろうか・・岡!


● なにも咲かない寒い日は[2001年11月03日(土)]

下へ下へと根をのばせ

と、高橋尚子選手は教訓に抱いているといっていた。静かながらたっぷりとした含蓄がある。


● 忍者はどんなものだって武器にする![2001年11月05日(月)]

「朝のソーセージでもな!ハッ!ハッ!ハォウー!・・・」

ジョニー・ブラボーが子供向け空手道場で子供相手に放った言葉。このあと子供に向けて

ソーセージを投げ付け、子供のアタマにボヨンと当てた上で自慢げに一言


「油断したなぁ?」


バ・・・・バカすぎる・・・・


● 一生蒲焼きを売っても足りない・・・[2001年11月06日(火)]

NHK「プロジェクトX」で通天閣建設に挑んだ七人の庶民たちの物語の中で、

建設当時、見積もりで「1億5千万円(現在で言う20~30億円)」が出た時に

蒲焼き屋さんが思ったらしい台詞。


通天閣・1億5千万円、そして「蒲焼き屋さん」、そしてそして「足りない・・・」という台詞。

すごいじゃん、この考え方ってすごいじゃん。挑んでるもの、1億5千万円にさ。

気付いてるもん、「足りない」ってさ。
一生かけても足りないんだよ。蒲焼き屋さんが
毎日毎日焼いて稼いでも足りないんだよ。
自分の生活の計算の中に、『「通天閣」の建設費』が想像できちゃうんだよ。


私はこの可愛さ、素敵さが大好きだ!

そしてこの「かなわなさ加減」が大好きだ!気持ちが負けてないんだもん。かっこいい!


● ボクね、生徒に『ジム』って呼ばれてるんですよ
[2001年11月08日(木)]

「意味わかりますかぁ?『戦力にならない』って意味なんですよぉ~」
サイボーグクロちゃんで
鈴木の言葉。

マニアックなこの台詞がガンダム以外で子供向けに放たれているのが素敵なトコよね。


●「あらゆる道筋をつぶさない」[2001年11月11日(日)]

「出来ないとはいえない。断わるのは難しいのだ」と、続く島秀雄さんの言葉。

D51や新幹線を作った島ファミリーの一員。


弾丸列車や満州の「あじあ号」もこの人の手による。『車体が軽く、加減速に優れた電気列車、

各車両にモーターがつき、各車両を軽量化する』など、企画そのものが新しい着想でどきどき

できる時代があったのだ。


新幹線の予算過剰から引責辞任するにあたっての言葉も潔い。


「新幹線ができたのだから、それでいいではないか」


人間、でっかく生きたいものだ。ものナリ。ウム


●「触らないで でも 離れないで」[2009年08月26日(水)]

「ねぇ ホントに出て行くの?」

「逃げるんだ 私から」


3月のライオン3巻チャプタ-30「月光」より引用。

世間でエヴァンゲリオンがフィーバーしたとき、その根底に「人類補完計画」という

ものが引用されていましたが、「さみしさ」を正面から扱うロボットものに、

アニメファンじゃない人も大量に流れ込めた。


さみしさから人は随分いろんなことをしてしまえる。さみしさって、実はものすごい

エネルギーを秘めていて、それを隠し持っていようものなら、遠からず、人はなにか

しでかしてしまう。静かにしまっておくのが本当に難しい。


感情って意味では「怒り」や「喜び」以上に威力のあるもののような気がする。

主人公、零くんの義理の姉香子は居場所を失ってうつろう。美しくても、賢くても

自分がそのままで認めてもらえない寂しさの前では、猛烈な欠損感にさいなまれる

うまれちまったさみしさに、あてがうものがわからないまま、「無謀」のようにし

あれこれ「試す」のも、また、人なのだ。


いろいろ試すのはいいが、いろいろ失いもする。取り返しのつかない喪失を何度も何度も

多彩に、深く、味わう。失うものなんて忘れちまえばいいのにね


できたり、できなかったりすんだよ、人って。


せめて「さみしさ」から、なにか「はじめる」っていうスタートラインを
私は持たないことに、随分前に決めました。


毒から始まる動機で行ったことは、たとえ運良く、うまくいっても、毒をはらむ。

見るのも嫌だし、味わうのも嫌だ。近づくのもごめんだ。吐き気すら覚える。

だから知覚できないくらい、私は、遠のく。2度とは、味あわない。


● 今日はすべきことがあまりに多いから
一時間ほど余分に祈りの時間を
とらねばならぬ  [2001年11月17日(土)]

とはマルチン・ルター。


祈る時間すらない、となりそうなところを、内省する時間が大事とするスタンスが

 持てるか持てないかが賢者とそれ以外を分けるってことなのかしら?


 役者・筧利夫さんも朝風呂で一時間集中すると言ってた。雑なままでできることは少ない。


 ●「人民のためのパイの味をうけてみよ!」[2001年11月19日(月)]

と叫ぶや、ヤッとばかりにすてきにでかいクリームパイを(フルシチョフは)ケネディめがけて

投げつけた。

「世界パイ戦争」という北杜夫先生の素敵な一節。この「すてきにでかい」という表現の

素敵さにつくづく北先生は素敵よねえ~とため息混じりに感嘆しちゃうのだ。イカス!


● 今の漫画家には頓知が欠けてる 
[2001年11月(火)]

故・横山隆一先生がテレビの追悼番組でそんなようなことを言っていた。教祖様の臑毛を

いただいてよろこんでしまうようなユーモア精神を持ってる先生がそういうのだから、きっと

頓知が欠けているのかもなぁ、と思いました。頓知。死語に近いけれど、たしかに日本人の

心象にうまい具合言葉です。


「ユーモア」っていうとどうもたいそうでね。


●「謀略で強引すべし・・・[2001年11月23日(金)]

国家は追認する」関東軍参謀石原の手記。

日本って国を大事にしたいといいつつ、やってしまったのは他国への侵略。

そして国そのものを悪い方向へ走らせて、そのうえ自分にはブレーキとなる力もなかった。

責任を負わない挙動に参謀の名は値するのだろうか。


●「死ぬかもしんないのに
なんで食べてんだろ、俺」[2001年11月28日(水)]

イデオンでデクが戦闘中にポロリとこぼす台詞。デク君はイデオデルタでコスモの

横に座るナビゲータなのに随分可哀相な終末を迎える。

子供のセリフでこんなのを使える作品はそう滅多にないでしょう。とても印象的。


●「あんたの言ってることの方が筋がとおってることなんだよな」[2001年11月29日(木)]

羊をめぐる冒険(村上春樹:著)より抜粋。

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「さっきなにか投げてたね」

「投げたよ」と僕は言った。

「なにを投げたんだ」

「丸くて金属でできていて、ふたのあるものだよ」

警備員は面喰らったようだった。


「なぜ投げたんだ」

「理由なんてないよ。12年前からずっと投げてる。半ダースまとめて投げたこともあるけど、
誰も文句は
言わなかった」


「昔は昔だよ」と警備員は言った。

「今ここは市有地で、市有地へのゴミの無断放棄は禁じられてる」

僕はしばらく黙っていた。体の中で一瞬なにかが震え、そして止んだ。


「問題は」僕は言った。

「あんたの言ってることの方が筋がとおってることなんだよな」

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この台詞には含蓄がある。

正しいとかどーとかいう他の視点がある。それは放っておいていいもんかどーか、私にはどーも大事なことに思 う。


● 輝き磨き、してました [2001年12月08日(土)]

コメットさんより。いい言葉でしょう?好きだわぁ


●「キーポイントは弱さなんだ 
[2001年12月10日(月)]

全てはそこから始まってるんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ。
」
羊をめぐる冒険より抜粋。


「俺は俺の弱さが好きなんだよ」とも語っている。


言葉を使って、言葉のあいだのものを伝える能力。言葉そのものはあまり重要ではないのね。


●「人は誰でも自分に自信がなくなってしまうときがある [2001年12月23日(日)]

特に人を傷つけたりしたら胸が痛む。だがコメット、お前が楽しい気持ちを失ってしまったら、

人を喜ばせることはできなくなってしまうのだよ。


サンタの仕事はね、想像することしかできないけど、喜んでくれることを願うこと。

そして喜んでくれることを信じること。」


サンタびとになったコメットのお父さんの心の台詞。


●「自分の限界を探ったことのない人は
自分に限界があることを知らない」 [2002年01月05日 (土)]
ラインホルト・メスナー:登山家


自分のスピードでてがかりを探し、自分の歩幅を知り、小股に足場をとらえ、周りを

見渡して、ルートを自分で発見し、無理があったら立ち止まって迂回し、無駄のない

足さばきで、自分の心を総動員して山を登るのだ。

ちなみに山登り、というのはいつもの道を歩く歩幅とスピードではすぐにぐったり

してしまうのだ。自分のコントロールを気にできる人でしか、山のぼりはできない。


私はこのことを知らずに鳥取の大山で失敗してる。七割も登ったあたりですっかり

疲れ切ってしまったし、のども枯れ、息があがってしまった。


私よりもはるかに年配の方が頂上から帰ってきてるのをみて、自分の無知さ、浅はかさがしみた。


根性論はまったく的を外している。捨てるように生きてはいけない。今日やってることが、なにか

ひとつ自分の身体になるようにするのだ。


● 日常の生活では人間は一部の能力しか使いませんが
山では人間の全能力について考えます [2002年 01月13日(日)]
(ラインホルト・メスナー)


全部の力を使ってないと、すぐに自分の限界に達してしまい、まいってしまう。山登りを

するときは、普段、道であるいてるペースで進むと途中でくじけるハメになる。


自分の力量、加減、アンバイのコントロールのできないままではおそかれ早かれ死んでしまう、と

メスナーは言ってた。


●「大多数の若者は、単にぶしつけで粗野であるに過ぎないのに、自分を自然だと思い込んでいる」[2002年 01月15日(火)]

 ラ・ロシュフコー・箴言集 朝日新聞天声人語より


まさに然り。だからなんだっての。


●「そうなんだ 
[2002年01月19日(土)]

木や草がおいしい実をつけてくれたのは夏の間に強いお日さまをいっぱいあびて、

風を受けて鍛えてがんばった証しなんだね。

だから、今は風やお日さまがこんなに祝福してくれてる。


今日は風になろう。それなら会いにいけるよね?」


コメットさんの台詞。

ケースケがこっそり旅立つ時のもの。

こうもいってる。


「あたしが知ってるケースケはがんばってたもん。

だから勝って!」


するりと言う言葉がここちよい。


● ロシア人は精神的に不幸な人間なのです [2002年01月20日(日)]

外国人には謎かも知れないが、不幸を

わざわざ考えだし、不幸を喜ぶ。チェーホフはこの不幸を優しくみつめた。

(朝日新聞・書評のページから)


ちなみに米国人は幸せな人間、日本人は常になにかと戦ってる人間。

ナルホド。


● 命がけの美 [2002年02月02日(土)]

朝日舞台芸術賞をとった白河直子さんの受賞の言葉でゴダールの映画史からの引用の言葉。

なんでも作品内で「命がけの美」をくりかえすそうだ。


なにかしでかせる人間は量の大小はあるにしても、寿命を削るがんばりをしてしまうがゆえに、

作品へ凄みを加える。


イキオイのあるものへ触れていくのがいいことなんだ。


● 子供は丸いものが好きなんです [2002年03月06日(水)]

 テレビ番組で手塚治虫特集をやってて「円」についての考察をしてた。

 その中で、子供が積み木で遊んでるシーンがあった。子供というか、赤ちゃん達は、丸いボールを

 投げたり転がしたり、大人の手のひらにわたしたりして延々遊んでいた。


 一方、四角い積み木は5分で飽きていた。遊び方に面白みがないのだ。動かないし、
転がらないし、
 積み上げるのには理論がいるのだ。


 子供用品の社長の言葉も印象的で「赤ちゃんは神様にもっとも近い生き物だ」と。


 丸い玉はなんであんなに人を惹くのか。それは「予想外」に勝手に動く要因にあると思うのだ。

 だからスポーツの多くは「球」を使う。意外な展開をするからだ。

 そこに、人の感じる「面白み」があるのだろう。


● いじわるされたことも忘れちゃえるの? [2002年03月11日(月)]

そう問いただしてくるレラの言葉にスマリは答える


「忘れてないよ

 つらいこととかはどうせ忘れようと思っても忘れられないし、だからいろんな事、覚えておくんだ。

楽しい事も、悲しいことも毎日思いだす訳じゃないけど、覚えていれば相手の気持ちが

 少し分かるようになる」

白泉社・遠藤淑子著「スマリの森」より抜粋。


忘れることはできない。でもそれでいいと思う。それがいいのだと思う。


● 三人知っている人がいても、ふたりいなくなれば秘密は守られる [2002年03月18日(月)]

イギリスの格言だっけ。


「2人の秘密は永遠の秘密

 3人の秘密はみんなの秘密」

これはフランスの。ふふふっ、素敵ね。


● なーーーーーーーーーんじゃ、そりゃ [2002年03月29日(金)]

「GO!」という邦画を見ましたか?あの中で主人公演じる窪塚がこの台詞を節々で使います。

感覚を表現するにはうまい言葉です。

「なーんじゃ、そりゃ」


飾るでなく、諦めるでなく、無感情でもなく、その独特の間合いで「なーんじゃ、そりゃ」

そこにこもる気持ちが好きだ。とても。


●「芝居ってのは嘘でも人の心を喜ばせるものなのかな、って」
[2002年04月02日(火)]

毒蝮三太夫さんが小学生の頃に、学校に持っていった瑣末なお弁当(動物のエサ)を友人に

ののしられ、それでも「おいしかったよ」とお母さんに伝え、お母さんが喜んでくれた、って

話をしてる時に上の言葉を言ってました。


貧しい中から、まさに「必死」になって食べるものを探してきてくれたお母さん。

それを知ってる幼少の三太夫さん。

豊かだ。


食べるものといっしょに、気持ちが体に入る。毒蝮三太夫さんにこんな話しされちゃうと、なんだか、

もう、たまらなく、心が、締まる。ギュッと。


● 闘うプロが必要なのだ [2002年04月13日(土)]

遥洋子さんが辻本元議員へのコメントを新聞コラムに載せてる中で言ってた台詞。


「守ってもらえない」人を最近よくみる。辻本さんが追求された事柄がなにか、ではなく、

「なぜいま?」って感じがしていやらしくて吐き気がした。


感情的には不快感でいっぱいなんだけど、それでも味方ってものや「闘う」ことの意味は、

今回の事件にはたくさん見いだせる。闘うプロ、日本でどうしたスタイルがあるやら。


●「自分が納得いってても、いってなくても
どんどん次のカットに進んでいっちゃうんですね」[2002年 05月12日(日)]

FORWARD!というタイトルの映画を撮ったのはもう2年前のこと。そのときに

はじめて8ミリ映画の制作を目の当たりにした女優さんが言ってた台詞。


「うまく映ってるか、すぐには確認できないんですね」

そう、フィルムは現像があがってくるまで結果がわからない。

ゆえに、撮影の現場は独特の雰囲気を作るし、それが作品にでてくる。それはビデオの

撮影とは決定的に違う。


「分かってきたころには、もう終わりなんですね」

そう、映画は完成したころに、ようやく自分のやってきてたことの全容がぼんやりわかってくる。

そして、そのころは、もう、終わりなのだ。深い。


● あらゆることが幾度も起こって、終わって [2002年05月15日(水)]

驚きがなくなったとき、最初になにが起こったかが重要になる。


レイ・ブラッドベリの作品は随所にこんな言葉がツイ、と載っている。いろんな人にあてはまり、

いろんな気持ちにうなづく優しさと含蓄のある言葉だと思う。


● なにもかもが、つまりは果たされるべき誓いなんだ。[2002年05月15日(水)]

嘘と見えるものは、実は粗末な作りの欲求であって、この世にどっかり立ちたいと願ってるんだ。


これもブラッドベリ。

現実と虚構の違いはなんだろう。じゃ、現実が偉いのか?


「虚構」とか「想像」という言葉は、それらが実際に生み出してる成果をあまりに低く評価してる

単語のような気がする。


現実以上に、想像や虚構が威力を発揮するというのに!


● 生活は豊かさにほど遠いのに、心の中は賑やかだった 
[2002年05月30日(木)]

若き乱読時代を語る作家竹西寛子さんの言葉らしいです。朝日新聞の天声人語より抜粋。


そう、本ってほんと不思議。こっちの人間の生きてるスピードから、意識がすっかり本の方のペースに

持っていかれてしまう。その強奪感の悔しいことに心地よい、ってのが本のいいとこ。


読むスピードそのものではなく、脳の中で活性化される想像力としてのスピードの妙なることよ!

かつて「ナベシン」監督の「ハレブタ」を評した岡田斗司夫氏が「ギャグの脳内スピードに、ようやく

追いつける作品がでた」っていってた時のようなそうした「スピード」の体験こそが、本ってものの威力だ。


● 絶望の暗闇じゃ、針の穴の希望が 太陽に見える [2002年06月01日(土)]

ピロウズの歌詞は、こちらの心覚えに肉迫してくる。格言やありきたりのお説教で近寄ってくる連中が

ほとんど無自覚な「借り物」以下のものをふりかざしてくることが、よ~く分かる。

「心のカーテンは

 自分自身で選んだのさ

 その気になればすぐに

 ひきちぎってかまわない」


こんだけのことが、僕ら凡人には言えない言葉なのだと気付いてしまうのだ。ピロウズの歌詞ってやつは。

「今、逃げ出した日の

 痛みを胸に旅立つ」


この言葉を他人ごとにできるやつは子供だ。言葉以上に、メロディまでが雄弁だから、ピロウズは放っておけな い。


● あきらめずに努力することと望む結果にならなくても耐えることとは違うわ [2002年06月21日 (金)]

「狼には気をつけて」四巻でハーマンさんがアランにそういった。


ぼくらはいろんなことをごっちゃにして生きてしまっているから、ときどき混乱しちゃってたり、

雑になってたりすることに「ハッ」として正気にかえる。簡単な言葉に「あ・・・」と思う。


「私の祖母は耐えることこそが美徳だと言っていたけれど、

 がまんなんてしなくても、しすぎても不幸になるわ。

 人生はちょうどいいタイミングを計るのが大切。」


分かってるはずなのに


● 言う者は知らず、知る者は言わず [2002年07月08日(月)]

小林秀雄さんという人の言葉らしいです。


ろくな質問の仕方もしらずにいろいろ人に聞いてしまうことがあって、それがどんなに

失礼なことかと気付くと、今度は質問するのがひどく億劫(おっくう)になって、気が引ける。


「よい答えを聞くには、うまい質問をしなくてはならない」というのがフランスの格言にある。

うまい質問の仕方もしらないうちに、「どうして教えてくれないの!」とか怒りだす人もいる。

うまく聞いてきてくれさえすれば、きちんと返す言葉が待っているのに。


聞き所の要所をなるべくショートカットで辿り着くためには、相応のセンスが聞き出す側になくては、

相手ものってこない。


ただ、「やたらに喋ってる」人がいる。さんざん喋って「うるさい」くらいにしか感じられない。

黙ってるのに「いわくありげ」な印象の人もいる。しぐさや対応の端々に、うかつに入っていけない凄みがある。

聞き上手、くらいが一番気持ちいいと思う。


● 弱さゆえの向上心 [2002年08月01日(木)]

ひさしぶりに「フルーツバスケット」を見返した。その中の台詞にこれがあった。


人は強いばかりじゃない。弱いのがいいとも思わない。そうした中で「弱い」がゆえに、弱さをたっぷり

分かった上で、上を向き、進む。


弱さ、を自覚すると、足がすくむ。「弱い自分」を理由にして、なにかをあきらめたり挫折することに

するりと気持ちをスライドさせる。がっかりしないで済むような気が、その時はする。


弱い、ことが分かってる上で、そろりと出す足を持ってるか。弱さをわかってる人間が進むと、

弱さを知らない人よりもタフになるのは、当り前のことなのだ。


強くて進むんじゃない。弱いがゆえに、進むことになるのだ。進むことをしない「弱さ」とは、

もう人の目に入らないものだ。


● エロイカというのはいやらしいイカか [2002年08月25日(日)]

と、辞書をひいてみると、英雄や。感動しました」とはチチ松村さん。イカに凝っているそうです。

イカに凝っているのに、エロイカ・・・とヌケヌケとサラリといって許せる素敵な大人。

イカ日記をつけてるそうなんですが、読みたいものです。


● この星の1等賞になりたいの、おれは!そんだけっっ! [2002年09月11日(水)]

御存じ映画「ピンポン」でペコが海に向かって叫ぶその台詞は、なんら気負いなく、でもまた本気で、

かつまたまだすべき努力をする前のペコ。


自分が今、どうであるのか、でなく、まず叫んでしまえること、ができる人は、やはりどこかに手が届く。


この映画のこの台詞は随分スルリと流れていくが、実は重く、かっこいい。


● 地方で演劇活動を続ける自分の矜持として持ちつづけたのは「プロ意識」である [2002年09月29日 (日)]

「プロとはありていにいえば、その仕事によって自らの生活に十分な報酬を得る人々の総称であろう。

状況として、そうした可能性の(ない、とはいわぬとも)薄い地方演劇にあってなおこだわるとすれば

「プロであること」ではなく「プロ意識を持つこと」だったからである。


なぜならば、さまざまな状況において「プロ」にはなれない自分たちが登ったり作ったりする舞台を

見に来るお客様達は、入場料を払ってくださっているからだ。
その「入場料を払ってくださっている」という事実と、自分たちが演劇活動によって生活に充分な
報酬を(というより、いかなる報酬も)得ていないということは全然次元の違う事柄だからだ。

(以上、『劇場としての書店』福島聡・著/新評論・刊より抜粋)


的確です。その通りです。どこのどんな仕事にいたっていいけど、どこででも言える言葉です。

この本は言葉に威力があって、かなり体が火照ってくるので、みなさまにもオススメです。


●「応援したいから応援するの」
[2002年09月30日(月)]

「バトンには人を元気にする力があるの」ふっふっふっふ、AT-Xで「コメットさん」再放送中(執筆当時)。

うれしい、うれしい、うれしい。


コメットさんはケースケの応援をした。憎まれ口やいやみばっかり言うケースケの応援をついついしちゃう。

相手がどんなことをしても、どんな事を言ってもこっちはこっちで、応援したいから、するの。


そう言える言葉の澄んでいること。海の底からにっこり微笑んで、ケースケを応援できる

コメットさんの笑顔には、なんの「努力」のあともない。ただ、応援したいから、してる、コメットさん。


● 負けてるモンが勝つにはノックアウトしかないんですよ [2002年10月07日(月)]

奥野史子さんの言葉らしいです。そう、人生で横入りしてスタートをきるつもりのひとは、

相応にパンチの効く段取りが要る。


切り札を持てひとつの穴しかないモグラはすぐ捕まるだろ?簡単な話だ


●「洗練されるために生きるのだ、と思う」[2002年10月19日(土)]

ジャンヌマリー社長大倉紀子氏の言葉。人はなんのために生きるのか?という自問への

答えがこれだった。


それが正しいとか、正解だとかいうんじゃなく、ああ、いい答えだなぁと思いました。

「洗練」。きゅっきゅっと自分を磨く。ピカピカの人よりも、磨いてる人こそが輝く。


今がどう、じゃなく、これからにどうあるかに目を向ける人間はいいなぁ、と思うのです。


●「悪人における始末の良さは、彼等のゲームにルールがあること、[2002年10月25日(金)]

したがってルールに従ってさえしていれば彼等はむしろ極めてつきあいやすい。」

善意からの行為が最悪なのは、どこからなにが飛び出すか分からない「無文法(ノーグラマー)にあって

警戒の手が効かない。(悪人礼賛を説いた評論家・故中野好夫さんの言葉)


「善意から出たのだからなんでも許される、責任をとらなくてもいい、といった思い込みがあって始末が悪い」


朝日新聞天声人語にのってた。

うなった。「正義」とか「真実」って言葉には上述のように、ある視野をひどく欠くぶしつけというか、

ごう慢というか、うさんくささがある。そこに目を向けている上で「正義」とか「真実」を

語る者、ってのも恐いんだけれど、悪人万歳とは言わないにしても、ロボットアニメみたいなヒーロー観で

いいとも思えない、そんな時にいい足場をくれる言葉です。


● ランガだって悲しみでおかしくなったりするんだし [2002年11月21日(木)]

南海奇皇をスカパーで見てて意外に面白かった。3姉妹の描き方も良かった。直に見せないで

画面の外に想像させる演出に加え、上の台詞である。

ランガとはこの物語において「神」である。神がおかしくなる、というのだ。それも悲しみで。


わたしにとっていい作品というのはいい童話に値する。物語られて、いい言葉やいい感情に

出会えるものを指す。神、と悲しみ、という同軸線にのってこないものを、台詞にすとんと乗せる

作品はわたしにはいい作品。


● スゴイ人がスゴクて当たり前なんだけど [2002年12月05日(木)]

スゴくない人がスゴいとスゲーじゃん。いかにしてスゴくない人がスゴくあるか、ソコよ。


わたしのことば。大してありがたいウンチクはない。つまらない映画とかつまらない人物はいつも

「スゴく」あろうと見せかけるのに必死の形相で滑稽だ。


スゴい人がスゴくあることは、ひどい言い方をすれば「当たり前」なので、有り難みや

面白みや新しさってものに欠いて退屈なのだが、ごくごくフツーの人があんまりがんばっても

いないくせに輝く瞬間というものは尋常でなく愉快な気持ちになれる。


まず「フツー」の感覚をたっぷり持っておくことと、スゴいものがスゴい、と

気づけるだけのハナを持つことと面白いものをじりじり渇望し続けることと、

大きくたっぷり笑えること。遠慮なく。たっぷりと。


● 人の幸せは砂利の味がする [2002年12月18日(水)]

やっぱり買ってしもたわいな「みんなはどぉ?メガキューブ」。

G=ヒコロウ先生の台詞回しにはズキュンズキュンと撃ち抜かれる。

「違います!早く死ね!!」「ニアピン!でもガーター」「ボロは着ててもピンチにパンチ」

「ショーチューとギョーチューは似てるねえ・・・答えは死後!」


スピードがあって、キャッチーな絵面が書けて、ちょっぴり狂ってる、そんないい感じの

作家は滅多にいないのでチェキ!


● なんか分からんがスルドク違う!!
[2002年12月18日(水)]

「キレイ」より。片桐はいりさまが劇中の台詞でするっという言葉。

なんでもかんでもスパンッと言えてもどーもしっくりしないときに、こうしたやけっぱちな

言い回しこそがイチバン「グッ!」とくることがある。


アタマがいーとかワリーとかじゃなくて、誰でもにピーンとくるかどうか?ってあたりが

重心になってほしいときにこうした言い回しがあるかないかは一大事だ。

エモーション!エモーショナル!ビバ!


「安い人間には安い神様がフィットするんだよ!」

ふっ。いいお芝居にはいい台詞満載。


●「できることはなんでもして警官に感謝したかった」[2002年12月26日(木)]

「大勢で25セント、10セント、5セント硬貨をかき集めたんだ」 

ニューヨークのホームレス男性(30)が12/25、仲間と空き缶拾いなどをしてためた

3,000ドル(約36万)を、5人の子を持ち、30日間の停職処分を受けている警官(37)に贈った。


警官は、屋内駐車場で寒さをしのいでいたホームレスの逮捕命令を拒んで処分された。

(AP)(以上、朝日新聞・地球24時のコラムより引用)


クリスマスにキリスト教の国でのことである。今年は法皇さままでが「商業主義クリスマスは

いかんいかん!」と御立腹された。


逮捕命令、というのは警官の仕事である。それをクリスマスの夜に寒さをしのぐ、という人々に、

実行できるものだろうか。私達が実際、その立場に立った時に、逮捕命令拒否ができるだろうか。

仕事、ってことではいけないことだろうけれど、この警官の行動には頭が下がる。そして我が身を

振り返る。心根を問うてみる。


警官だけじゃない。それに応えるホームレスの一生懸命な気持ちがすんなりしみる。


日本で最近こうした話が少ないのが気掛かりだ。人情とか隣付き合い、とかいうウェットなヤツ

なんかじゃなく、もっとドライなままで、他人を尊重できる目線が欲しい。

根性論や日本万歳的発想はごめんこうむりたいけれど、自然に紡ぎ出せる気持ちをとらえたいのだ。


●「静けさにもいろいろある」[2003年01月05日(日)]

ロストロポービッチさんが指揮者小澤征二とのキャラバンで伝えてた表現。

「ためしに鳥の鳴き出す少し前の静けさを考えてみよう。鳴く前だから音はしない。でも独特の気配がある」

「愛しい人に恋の告白をすることを考えてみよう。

(大声で)アナタガ タイヘン スキ デス!!!
(ほらね、って顔で)こんなふうにはいわないでしょう?」

そういって囁くのだ。


小澤さんとロストロポービッチ氏をテレビでみてて思ったのはああ、自分の好きなものをやってて、

あんまりにもその量が多くって、溢れてしまうんだな、と。そしてその量に周りの人がすっかり

とりこまれてしまうんだけれど、それがなんとも心地のいいものなんだな、とブラウン管ごしに

みえてしまうのだからたまらない。


音楽を知らない人が音楽に触れた時に見せるものに触れることこそ、音楽家として最高の時だ、とも

いってた。そこに指揮者の真価がある、と。


真価。

本当の価値。

そこに音楽があることの驚きと今、目の前に生まれているものを受けて、そのまま包まれるという

大きさ、そう、やはり「量」なのだ。

訳もなく泣けてきてたおじさんとかテレビに写ってた。


感情

そのうちどの感情でいるのか。うれしい、ひとつとってもどの種類の嬉しい!なのか。その彩りの多さ、

やはり「量」なのだ。


●「人の顔は簡単に殴れるのに、自分の顔は殴れない」[2003年01月26日(日)]

「自分のものになった瞬間に、手が出せなくなる。自分のものはなにも壊せなくなる。」

『スカイ・クロラ』中央公論新社 森博嗣:著 より抜粋


戦記物、ことさら戦闘機を扱う作品はともすれば安易な軍人描写に走ってしまって「ふーっ」って

ことがあるんだけれど、その作品の端々に出るプチ哲学みたいなものは、それ個としてしみる。


自分にばかり優しい人、自分には優しくできない人、他人には優しい人、他人にしか優しくできない人、

どこにも誰にも優しくできない人、いろんな人がいる。そのことになんの罪もないはずなのに、わたしたちは

時々そこを振り返っては「いけない」とつぶやく。疲れてる時、特にそれに触れてしまう。疲れているから、か。


● 人生はトーナメント制な訳で、けっしてリーグ戦じゃないわけです。
[2003年02月11日(火)]

「1戦1戦勝ちあがっていくわけです」蜷川幸雄と安藤忠雄さんがNHKで話してた言葉。


「人間がだんだんと心の中から怒らなくなってゆくんですね」「成功が年をとらせるんですね」

「がむしゃらやないと生き残れない」「生々しくぶつからないと、シェークスピアなんてできないんですよね」


安藤さんの言葉は番組や時期を問わずにいつ聴いてもどきどきする。上のふたりとも、いったん

怒り出すと烈火のごとく怒りまくるそうだ。


そう。怒れなくちゃ。たっぷりとね。怒ることを手抜いちゃいけない。そして「自分の戦い方」を

早めにみつけなくっちゃ。人生は異種格闘技なんだから、自分の戦い方を知ってなくちゃいけない。


戦わない、ってのはない。どうしてもくるものなのだ。ただ、相手と同じ土俵にあがるまでに、

備えておけるものがある。そして、やってくる戦いは、いつもトーナメント。


たった1回の勝負が負けられない。だから、一生懸命なだけ、じゃ、足りないのだ。


● 人間は自分に折り合える程度にしか社会に折り合えない  [2003年02月23日(日)]

「ひきこもり」をテーマにNHKが特集を組んでたときにひとりのコメンテーターが発した言葉。

んー、どうなんだろう。ひとつのめやすにはなると思うけれど、なにか「そのとーり!」と

叫べない気持ちが残る言葉。


「ひきこもり」は「グレーゾーン」がない人がなりやすいんだって。「できること」は

100%やるけど、できなそうなことは「しない!」そうだ。クロ!かシロ!をいったりきたりで、

グレーにはならない。


たしかにそれは社会に生きにくいものだけれど、一概に「悪」とはどうしても思えないのだ。

「甘えてる」とも思わない。むしろ「ある発展系のひとつ」に思えて仕方ないのだ。


社会がやたらに「表」ばかりになって、ただただ明るいだけが当たり前みたいな場所になって

しまい、生きにくくなってることに目がいかない。器用な人ばかりが便利な社会に向かってる

ような気がする。それって、ちっとも、豊かじゃない。


● 誰もがテッカマンになれるにはまだまだ研究と開発が必要なんだ [2003年03月13日(木)]

テッカマン!!!博士が主人公ジョージにいった台詞。ある波長を受け入れた者のみが

テッカマンになれるのだ。つまり、人間のある進化の方向であるかのような印象じゃねぇか!

イカス!しびれる!脳みそに直撃セガサターン!
WAAAAAAAOOO!!



アンドロー梅田の声はルパンだったのかぁぁぁぁぁぁ!!「いやぁ!ケンカなんか嫌い!やめてったら!」

「ばかにあらたまって、なにかね?」「僕だってもう一人前の宇宙パイロットです!」

「死んでいったお父さんは許してくれないよ」「いっけねえ!晩飯食い損なったぜぇ」

「食いしん坊ね・」「ひろみちゅわん!?」


うわぁぁぁぁぁ!!くわぁぁぁぁ!!日本語の宝庫だぁぁぁ!!!

「♪だぁーけーどぉ~こぉ~こぉ~ろぉ~はぁ~、燃えているぅぅぅぅ~

♪太陽みたいにもえているぅぅぅ~~~♪」

くはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁ!!!!!!!!サイコーだぁ!!!!!


●「わたしたち、音やにおいでできてるんですよ・・・たとえばなしじゃなく」[2003年04月25日 (金)]

ココネはアルファさんにそう語りかけてた。芝生の上で心地よいアルファさんは知るともなしに、

当たり前に「・・・・知ってるよ」って言って寝てしまう(ヨコハマ買い出し紀行9巻より引用)


空気をとらえる作品というのが芝居にも音楽にも映画にもまんがにもあってさ、ふいにそこが恋しくなって、

ただただ恋しくなって、寄ると、おなかの底からポカポカとあたたかくなれるものを「いつも」

知っているのはいいことです。


ココネのアルファさんへの憧れ方も素敵だし、アルファさんの視線の高さも奥行きもたっぷりと

してて、ここちよい。なにより、この作者の描く脇役達の豊かさや、愛情が放っておけない

類いのものばかりなのだ。他人事で済ませやしない。うれしく「うわ!」って悲鳴をあげて、

毎日読んでる「ヨコハマ買い出し紀行」。


● ぼくはちぃ兄ちゃんだから [2003年05月28日(水)]

私が実家に戻った時に、家の話をしているときに、次男が口走った言葉。

私が18になってから、実家にいたりいなかったりして、次男は「長男」みたいになったり、

「次男」みたいになったりと私のいる、いないってことに対し、なかなかいろんなポジションに入る。


そんなとき、冗談めかしていった「ちぃ(小さい)兄ちゃん」というフレーズが次男の

ユーモアセンスだと思う。次男は他にも「運転下手夫くんだな」とか「オンステージだもんで」などの

名言を時々吐く。うかつにも面白い時があって、かなり悔しい(なんで?)


ちなみに末っ子の弟の名言に「俺は子供だ!」がある。子供にこれをいわれるとなんというか、

「そーだよな」ってうなづく他ない。


● 我々は自分に備わっているものをほとんど顧慮せずに、いつも欠けているものについて考える [2003年 06月19日(木)]

ショーペンハウエルの言葉らしい。 

ヘコみたがる自分を見つけることはないですか。私はすきあらば嫌んなっちゃうことがあるので、

そんな自分に「やめとけ」と言える考え方ってのがいるな、とは思ってました。


キョロちゃん、ってアニメあるの知ってます?そう、あのクェックエッのキョロちゃん。そのアニメ。

オープニングでね「♪いろいろあるけど、忘れろ♪」って歌詞あんのね。すごいよね。そーよね。

いろいろあるのよ。で、忘れろ、と。

子供アニメとは思えぬ含蓄よね。さねよしいさこの声でそんな歌うたわれたら「そーよね」って

思っちゃうってのよ。


持ってるものをどかんと使え。話はそれからよね。


● 俺の魅力には勝てんさ、坊主 
[2003年06月29日(日)]

「ストリート・キッズ」ドン・ウィンズロウより引用

タイトルだけ読むと、なんかどこかのストリートチルドレンの悲しい物語みたいに

感じるかもしんないけど、少年探偵の話だし、主人公の少年も素敵ながら、脇役達の威力の

すばらしい作品。


主人公が「大好きだよ、父さん」という言葉にオヤジさんが返す言葉が上の台詞。かっこいい。

気障ってのとは違い、思慮の上にあるユーモアとして使える言葉にジンと胸に刺さる。

こういうのが自然に使える生き方って豊かだと思う。


● ・・・「ずっと他人の都合の中で生きてきたわ・・・」[2003年07月02日(水)]

「牧師さん、自分で明日の征き先を決める生き方をすると世界はどんなふうに見えるの?」

「トライガンマキシマム」8巻「FREE BIRD」より抜粋。


あらかじめ決まってるものの中で生きることと、自由に選択できるものばかりの中で生きることは

大差ないことなのかもしれない。


自分がどこに立っているか知ってる人はなんにんいるだろう。そこからしか見えないものだけで、

生きるってことを判断しちゃってる自分に気づけてるひとは何人いるんだろう。


それでも「自分で決めた」って思えてさえいれば少なくとも自分が生きて、決めた結果にめぐりあえる。

その善し悪しではなく、自分で決めた結果にはめぐりあうのだ。


「それでもわたしは他人のスキ間をうめるだけの私にはなりたくなかったの」

そう言えたら、そこからは走ることだってできそうだ


●「事実について話すことと、その事実が好きかどうかというのでは

たいへんな違いなんだ」とムーミンパパはいう。[2003年07月15日(火)]

(ムーミンパパの思い出、より抜粋)


ほんとうのことがなにか?だなんて軽々にぼくらは生活の中で言ってないだろうか。


「真実はなに?」

「本当のことを教えて!!」


それを探究する人間は貴い。それを人にぶつけるのもたやすい。でもなんだかね、それだけじゃね。

本音ばかりじゃ、どうもね。


ほんとうのことがなにか、と分かってどうだというのだろう。喜んだり、がっかりすることは

確かに自分のしてた「期待」を満足させるんだけど、それで済んでいいのかな、って思うのです。


そうした時、ムーミンパパの言葉の含蓄はうれしい言い回しに思えたのです。ああ、いい言葉を

言ってるなって思えたのです。ムーミンの原作の本の言葉がつむぎ出す、一種「魔法」のような

言葉の鍛練に、読者はたくさんの「心当たり」に風を通すんですね。


豊かなものに触れなくちゃ。こちらから。探して。近付かなくちゃ。眼を開け。耳をすませ。

気持ちを大きく使おう。


● ソウル 
[2003年08月07日(木)]

「ソウルの本来の語意は新羅(しんら)語で王都、都城。漢字表記がなく、『都』という意味で

使われ、固有名詞ではなかった」(地球紀行・世界遺産の旅、より抜粋)


韓国の首都ってなんでカタカナ表記のままなんだろって思ってた矢先、世界遺産の写真集に

その解説があってほっとした。他の地名には漢字があたってるのに、ソウルにはそれがなかった。

ハングルの意味なのか、英語の「ソウルフル!」のあのソウルなのかと悶々としていたのでありますな。


で、この解説読んでみたところでなんかまだひっかかってる感じです。ほほほ


●「乗客はみな笑っているし、同僚もおもしろがってくれる。評判は上々だ」[2003年08月14日(木)]

猛暑に耐えかねて、スカートをはいてハンドルを握るスウェーデンの市バス運転手マッツ・ルンドグレンさん。


半ズボン着用が上司に禁止され、「男性がスカートをはいてはいけない」という項目が服装規定にないことに

目をつけたという。(朝日新聞・『ことば・ワールド』をBBCのHPから引用してるのを引用)


お・・・大人ってもっと、こういうのアリだと思うんだけどな。成文憲法の限界に挑む、っていうのかな。

ガチンガチンなものへはユーモアやウィットで挑むしかないもんね。


いい歳のオッサンがスカートはいて、市バス運転してて、笑われて「評判は上々!」っていうだなんて、

素敵なユーモアよね。


暑いんだもの、早めに半ズボンOKって言えなかったバス会社のセンスの悪さが発端だし、

ニュースになって世界に配信されてるし、こんな話、もっと聴きたいなぁとか思っちゃうね。


そうそう、西部警察ロケで事故がありましたね。渡哲也は土下座とかするのは間違ってるような気がする。

相手のためじゃなく、まず「自分のため」の謝罪にユーモアなんてみつけられないもの。ゆとりがなさすぎる。


● ・・・・私・・・少しは・・・変れたかなぁ・・・[2003年08月26日(火)]

NARUTO・9巻ひなたの台詞。ひなたは気が弱い。もじもじしてる。思いきったことがなかなか言えなくっ て、

傷薬すらナルトに渡すのに「どーしよ、どーしよ」って言ってて、泣きそうなまゆで真っ白い目をしてる。


さげすまされて、ののしられて、差別されてるナルトを見ているひなたの目線の良さと、もじもじしててる自分が

本当に憧れてるのがなにかを知ってるひなたってキャラがものすごくうらやましかった。


さんざん無理して頑張って「変れたかなぁ・・・・」って思えただけで胸にじんときますね。きましたよ。きた よ!


強い人が、強くて、強かった、のは別に偉くないけれど弱い人が、弱いのに、強くなろうとした、ってのは凄いと 思う。

自分のものじゃないものを、自分のものにしてみたくって、という努力はやっぱり光ってる。その結果よりも、

しゃにむになれるだけでもどっきどきする。するよ!したよ!!


●「こんどさぁ いつ こっちくんの?」[2003年09月13日(土)]

ヨコハマ買い出し紀行・110話より、旅立つタカヒロにマッキが言う台詞。


「ん?ん~~~~~・・・・わかんねえな」

「・・・・帰って・・・こない?」

「わかんねえな」

この会話以上になにか説明がいるだろうか。


聞く方も、聞かれる方も、今そのときに思ってる言葉が全部は言えず、全部も分からず、知りたくもない時に

言葉でできる会話は切ない。


いろんなこれまでの動機が今の決心につながり、明日決行したあとは、それが動機になって、明後日の方向を決め

明後日には、もう最初の決心につながった動機は「過去」になる。そこに立っている人と、そこから動いた人がい る。


● なんとかしろ![2003年09月13日(土)]

よつばと!(1巻)より引用。セミ取りにいこう!と決めたよつばが、ジャンボと会話する。


「セミとりだ!!」

「・・・セミとり?・・・・どこに捕りにいくんだ?」

「・・・・・わからん!」

「虫捕りアミやカゴは?」

「もってない!!」

「どーすんだ?」

「なんとかしろ!!」


ま、理づくめで喋る天才ってのが世の中にいたとしてもさ、結局のところ、人と遊んだり、

笑ったりするってことには意味とかなんかなくってさ、ただ面白かったり、ただ素敵だったり

するだけで嬉しくって、気が済むわけですよ。そーゆーものに対して理づくめってやつぁ、ホント無力でね。


でーもさ、それでいいと思うのよ。どうしよう?って悩むのもいいけど「なんとかしろ!!」って

言えちゃうのも面白くない?考え無しにね。それって大いにアリだと思うのよ。


で、なんとかなるじゃない。で、なにかにはなるじゃない。それもアリよね。


世の中の人の大勢がどんなにたくさんの「気持ち」だけでスイスイ日々生きていることでしょう。

それでいて、こんなに衝突が少なく済んでいるのが不思議なくらいです。


「なんとかしろ!!」

~~~~~~~!!言いてえ~~~!!日々使いたい言葉のひとつです。


● 孤独が情熱を復活させる [2003年09月20日(土)]

「ぜんぜん文明化されていない環境と、まったき孤独が、死の間際にいたり、私の内部で情熱のひらめきを

復活させるのです。そしてその情熱にこそ、私の想像力を 今一度燃やし、私の才能を最後の出口へと

導いてくれるものなのです。」

画家ポール・ゴーギャンがシャルル・モーリスにあてた手紙(朝日新聞 Be 土曜版より抜粋)


「(野性味を失った芸術家は)一人になると敗れるので恐怖を感じ、乱雑な群れを作ってしか動けなくなる。

全ての人間に孤独を勧めるわけにはいかないのは、このためだ。孤独に耐え、一人で行動するためには力がいるの だから」


実際、一人で生きて一人で描いて、貧窮のうちに、のたれ死んだ画家の言葉は信用に値する。

孤独、という言葉にはどこか「いけません」感じがしますが、ただ、ひとつの「状態」を表す言葉として

受け取るのなら、わたしはこの言葉がいい言葉だな、って思う方です。


やみくもに生きてる割には幸せがやってきすぎる時代にあるとき、孤独は邪魔な武器にされてしまう。

孤独でなくてはたどり着けないものに勘付いてしまう時には、自分の周りにたくさんのものをまとわせて

しまっていて、今度はそれを理由になにもしなくなる。「できなくなる」のではなく、やはり「しなくなる」の だ。


のたれ死ぬことのない社会にあって、ゴーギャンの死に様よりも「黙殺」されたような死に方がたくさん起こって いる。

尊厳のない、自尊心のない生き方こそが、悲惨の名に値する。


● 1%も活用できてない 
[2003年10月09日(木)]

「現在のパソコンの基本となる技術を生み出したアラン・ケイ氏は、今のパソコンの基本ソフトや

ブラウザを本来の力の『1%も活用できてない。悪い業界標準で過去20年の悲劇』」

(日経産業新聞2001年1月1日)(ユビキタス・コンピュータ革命 坂村健・より抜粋)


コンピュータの言語ってホントはもっと早くて、もっと論理的に優れてて、なのに結局それを使う人間に合わせて

くれるために、本来持つスピードや特性を犠牲にしてまで人間にあわせてるらしいのね。それはコンピュータ言 語って

ヤツもそうらしくって、「早い!すごい!」よりも「人に使いやすい・分かりやすい」ものが広く流布するんだっ て。


だからきっとアランさんの言うのは本当なんだろうなと思う。ブラウザとかOSなんてのよりも本来コンピュータ の

実力を発揮できる言語で使ってさえいれば、パソコンってのは本当はもっとすごいんだろうな。


本当はもっとすごいものを、「人にあわせる」ってことですごくしないで使う時に、ふむ、これはコンピュータに

失礼なのか、それとも人本来の方にあわせろよ!と憤るべきなのか、なんというか、もったいない話です。


とはいえ、セキュリティホール連発の某OSをノーノーと販売し、パッチだらけにさせておきながら「自己防衛」 とか

言ってるよーな商品で巨万の富を稼いでる某アメリカンはどっかで痛い目にあって欲しいものです。


●「3年で何が変わったぁ!?[2003年10月11日(土)]

俺は未だに平社員で貯金もない!デブリを拾う毎日でマイ宇宙船どころかこの宇宙服ひとつ買う金もねえ!!

お前もそのうち分かるよ・・・夢を叶えることだってなぁ・・・・・

できることと、できねえことが(でかい声で)あるんだよぉ!

『プラネテス』アニメ2話・ハチマキの台詞


本気の言葉には装飾がなくて他人を受け付けなくさせるなにかがある。それでいて他人事にさせない威力のような

魅力にあふれている。


本当は「言ってる自分が一番信じたくない言葉」を語る時に人は声を荒気てしまうのは、本当すぎ る気持ちが

あふれるからだ。普通でいられるのがおかしい。


ハチマキの友人がやっと副機長になれた旅客シャトルの軌道上に巨大なデブリが接近してしまった時に、

逃げてください!と叫ぶ部下に対してハチマキは叫ぶ


「うるせえ!だったらシャトルはどうなる?今回ばかりは逃げも負けも許されねえ!許されねえんだよぉ!!」


そう。結局、逃げられないところで戦う気持ちがある人間だったら少しは嘆いたり、愚痴ったりしたって、

きっと戻ってしまうところが分かっているのだ。

かっこいい。かっこいい。カッコイー!


● 人と同じような気でおっちゃぁあかんだぞん [2003年10月28日(火)]

父の言葉。昔からこう言われてきてた。三河弁ですね。「あの子はアレをもってた!」とか

「みんなはコレしてるのに」みたいなことを言うと、父は上のことを言った。


幼少ながら、わたしはこの言葉が心に残っていた。大人になるにつけ、この言葉は別の意味を私に

植え付けてきた。


なにかしでかすからには、他人と同じような心づもりなだけじゃダメだぞ、という励ましの

言葉になっていたのだ。


そうか、他人と同じようなつもりでいて、なにかしでかすなんてできねーよな、さすが父さん!


とか思ってたのに、ある時フイに父はそんなつもりでその台詞を言ってたのではないことが分かる。

あくまでも、他人様は他人様なのであって、ねだったり、ほしがったりしてちゃだめだぞ、という、

もっとストイックな言葉だったのだ。


でもわたしの行動原理には、私の解釈の、父の言葉がいつもある。

「人と同じような気でおっちゃぁあかんだぞん」

なにかするのなら、ね。


● 地球じゃ4等星までしかみえないんでしょう? 
[2003年11月15日(土)]

「プラネテス」の中の台詞。

月生まれの女の子がハチマキ(主人公)に語ったことですんごく簡単な言葉だけなんだけれど、これでこの作品の

世界観が分かる。

月面の砂漠を海に見立てて、わたしの海はすごいでしょう?って走る女の子。


目の前で人の亡くなる風景を見ていたハチマキは神様はきっと人間なんて嫌いなんだろうな、って言ってた。

向き合うのが月面でも宇宙でも現実でもいいんだけれど、そこに照らし合わせて見えてくるものは、こっちの心に

準備したものが大半を占めてしまう。


たっぷり持ってないと、たっぷり見えてこないものがある。「地球じゃ4等星までしかみえないんでしょう?」

この言葉に照らされている考え方はなんだかとてもまぶしいのだ。


●「光の当たる場所まで早く駆け上がって」
[2003年11月29日(土)]

「プラネテス」8話・フィーの台詞。 

かつて、いっしょにベンチャーを起こした仲間が吸収合併された企業の中で、希望を持ちながらも

苦しむ事業部長として自分の上司、である仲間にフィーはこう言ったのだ。


「変わったように見えるだけ。光を浴びればすぐにもとに戻るわ。

 私は今もあなたとチームを組んでるつもり。

 あなたがもとの姿を取り戻せる場所まで・・」


本人は「変わったさ」といってるのに、それを見やって静かに応援して、ねぎらって、そして自分の希望までも

仲間に賭けて、ついていっている人間の言葉なのだ。あなたはもとのままのものを秘めている、

なんて大きな応援だろう。


そして言う


「光の当たる場所まで早く駆け上がって・・・そうなれば私も安心して働ける・・・・ね?」


わたしたちは光を浴びて、もとに戻る自分をちょっとばかり見落としてはいないだろうか。

フィーの台詞は無駄がないぶん、パンチがあって、誠意に満ちてる。だから、こんなこと言われると、うれしくな る。


● 気休めのオアシスに乾きは癒せない [2003年12月10日(水)]

坂本真綾「ソラヲミロ」より 

まったく自分の人生に対するスタミナのなさにはほとほとあきれるよ。
すぐに座り込もうとするし、迷ったり焦ったりでとにかくしゃんとしてない。
ばたばたと慌てて、適当にとりつくろって・・・とそんなことばっかりが重なって
なんになるんだ!なんになるんだよ!なんになるんだよ!


本当のところは分ってるんだ、なにを直視してないか、なんて。分ってるから、黙ってて。
知ってるから、放っておいて。

お前になんか言われたくないんだから、あっち行ってて!・・・・なんて、言いたくないもんな。
言われたくもないよ。


気休めを安易に求め過ぎて、本当に要る休息については怠る生き方だ。
だから、休んでるのに、心ばかりが、た だ、乾く。

連発する幸せにまみれてると、見失う感情もたっぷりだ。


どうして今、安心してるのか、その理由もただ忘れて生きてるよ。しっかりしろよ


● 人生とは割り切れなくていいのよ、アン。
[2003年12月25日(木)]

「赤毛のアン」46話『マシューの愛』より

ミセス・アランのお宅でお茶を飲んでる時にアンはこの言葉を聞いた。うん、そうだよなって思った。

こういう簡単な言葉をどうしてみんなもっと言ってくれないんだろうって思ったことがある。


ところで私はマシューが大好きです。「そうさのう」って言葉も大好きです。


働き過ぎるマシューに気遣いからアンは言う「どうしてゆっくりできないの?」

マシューはこたえる「わしにはできないみたいだなぁ」


わたしが男の子だったらよかったのに、マシューを助けることができたのに、とアンが続けると、

向き直ってマシューは言うのだ

「わしゃあなぁ、アン、1ダースの男の子よりもお前ひとりいて欲しいよ


他の誰が言ったのでもない。よりによってマシューがこれを言ったのがたまらない。

喋るほどに失うものもあるってマシューをみてると感じる。マシューは素敵だ。


● 好きでガキやってんじゃねえんだ!
[2004年01月10日(土)]

プラネテス13話。ハチマキの弟の台詞


もっとこんな台詞をばんばん連発してたころを思い出しました。思い出しましたったって、いまだ

ろくろく立派ななにかであったことなんてねえんだけど、それでもこの言葉を言い放つ時の気持ちって
忘れてちゃいけないって思う。


もちろん、青くさいことを言うのは恥ずかしい心持ちもあるんだけど、それ以上に、そう言えないのは

もっとかっちょわりーな、って思うんだ。つーか、わたしはずっとそんなことを言う大人が見たかったし、

そういって走ってる大人ってのにも会いたかったのにほとんど会えないできてた。


ハチマキの弟はふてくされてもグレてももたれてもいない弟だから、周りをみやって、自分のふるまいも

わかってるし、やるべきこともやってるから文句なんて言われる筋じゃ無いのに、やっぱりみんな心配からいろん な

言葉をかけてる。そのどれもに配慮の心配りにアリガトウっておもいながらきっとロケットを作ってる人間に

見えたのだ。
それがうれしかった。

 

簡単ななにかにおさまる生き方ばかりを見なれていると、そこがオカシイって思ったり、飛び出すことに

どんどん躊躇することばかりを自分にたくさんみなすようになって、結局自分の決心ってものがなんだか

われながらガッカリなことばかりで埋まってくるから、どんどん、どんどん立ち上がれなくなってくるんだ。


そんな時、ハチマキの弟がつぶやく冒頭の言葉は、すごくシンプルに初心に戻れるマジックタームなのだ。

誰に聞かすでもなく、いつも自分ひとりでつぶやくこの言葉にはまっさきに自分に突っ込む気持ちが
たんまり込められてる。

そして、それにこたえるのに精一杯な自分ってのにも気付く。


精一杯はつらいけど、少なくとも、走ってるよ。


●「それでも吼え続けていたのはいつまでも夢の途中でいたかったからさ」[2004年01月21日(水)]

漫画「プラネテス」5話「イグニッション」より


「空間喪失性」に陥るハチマキが、自分の中の声と葛藤するときの会話。自分の中の本音の一部は続ける


「たたかいきれないお前はようやく今頃になって言い訳を探しはじめている

 この病はお前が望んだんだぜ


「地球に降りて、結婚して、歳くって シリウスの輝きを見上げながら『あの病がなければオレも今頃は・・・』

そう言い逃れる権利を欲したんだ」


「認めろ。受け入れて楽になって嘘をわびるんだ。宇宙はお前を愛してはくれないが許してはくれる


本当すぎる言葉には心当たりでいっぱいだからそんな言葉に心許すだけで、私達は思考を停止する。


よく考えれば、どんなことにだってあてはまるようなたった一部の正しさに、「今はそれが正しいから」って

決めたことでまったく後戻りできなくなることをゆだねてしまうのだ。


決意をした人間は、ある『片寄り』を決めた人間じゃないか。片寄ってる分だけ、当たり前に人がもってるものを

あきらめたんじゃないか。あきらめるに値するものに変わるくらいにスッゲーものを見つける決意を

したことを忘れちまっていいのか?そんなことを他人にとやかくいわせたり、聞き受けたりしてていいのかよ!


そんな場合なのか?そんなもんだったのか?そんなもんは決意じゃない。


ハチマキの内側の声は誰もが見知った、そして知らないとみなしてる言葉だ。そいつのせいで、ごっそり自分が

してやられてきてるのを、知ってるのに。「まけるもんか」なんてガッツだけじゃ負けちまう時がある


ガッツ以外にしがみつくに値するものを知っておくべきだ。


● いざ食事の段になると気の抜けない仕事に着手したかのように専念し、ものいわず素早く、
ひたすら食べ続ける。
食事は決して社交の時などではなく、食うことは生きるための厳粛な行為であることを想わせるものがある。
[2004年02月07日(土)]

(遊牧の文学・イブラヒム・アル・コーニーの世界 奴田原睦明・著より引用)

食う、ってたしかにそうだったな、と想うのだ。そして自分の「食う」が少なからず堕落であった、とも想うの だ。

下品であったとも想うのだ。もっと、一生懸命たべなくちゃ。


引用元の本はベドウィンの話である。家に住む人たちと自分達を隔てているのは「考え方」であって、

砂漠という常に「忍耐」を必須とする世界に生きてる人間の、心まで筋肉質でなくては維持できない

「生きる」姿は光を放っている。


他人をもてなすため、以外の理由では御馳走を出さないそうだ。自分の「食いたい」という願望は随分と

あっさり封じ込んでいる。
「供されれば食うが、なければひたすら耐えてゆく」基本的に、現代なので、私たちにはこれがまずできない。


「皆が同じものを着、食し、同じテントに住み、ひとりだけ 変わった突飛なことをするということがない。

彼等は自分達の生活の仕方は完結されたものとして、変えようとしない。便利さや進歩を頑として追求しない」


イコール、不自由などという安直なもんじゃなしに、洗練され、常に「生きる」ことを目の当たりに考え、

無駄なものが持ってるだけ重くなる生き方を排除。常に「素早い」動きを自らに課すことになり、

装飾のない生きざまに対面できる。むろん、そんな息のつまる生活環境では私のような人間はアッというまに

淘汰・排除される。それでも、憧れるのだ。


私が特に気に入ったところが次の一節でして「子供達は父親のアバーヤ(外套)に潜り込むと父親の小さな家に

ふたりきりになれたとして、無情の至福をたたえた表情を見せる」これ以上に「愛」の形容に足るものがあるだろ うか


● でもね、優しいばかりじゃだめなんだよ [2004年02月28日(土)]

「プラネテス」4巻、フィーが息子アルに言うセリフ。

言ってる本人があんまり進んで信じたくもないことを言う風景は実際の生活の中でも見受ける。
漫画版の中ではフィーが、アニメ版の中ではチェンシンが、「好き放題・自分勝手」をやってる仲間を
みつけて、いさめて、そのくせあとから「怒り出す」。


フィーは言う

「反抗はガキの専売特許じゃないんだぜ。気の済むようにやってみな!

 そのかわりわたしも気の済むようにやらせてもらうぜ、へへーんだ。」


なにか、誰かを経由しないと、こういうのが言えなくなってる人ってたくさんいるんだろうな。

自分が怒りだしてしまえた理由を、あとになってどんなに上手に言えたって、コトはもう済んでしまって

いることが多いから、結局「うまく理解」しても「上手に言えて」も、決してイコール幸せじゃないん だよな。

みんな薄々それに気付いてるんだよな。そこが悲しいんよな。よかないよな。

飲み込みのいい生き方ってのはつまるところ、つまんないのです。


● いろんな御縁で開花してくる自分を愉しむ [2004年03月19日(金)]

NHKの番組で玄侑宗久なるお坊さん作家の言葉。

このお坊さん、若いころにはもの書きになりたくて自己実現に四苦八苦したんだそうです。

お坊さんの家を継ぐのが嫌で家出もしてたんだそうです。


自分でこうだ!と決めた進み方が一番素晴らしいかのようにまわりはやいのやいのと言うけれど、

それにしたって「こう、と決めた自分の勝手」が思うままにならないからといってがっかりすることは

ないんじゃないか、と、そのお坊さんは言う。


自己実現は狭いものなのだ、と。いっそ周りから勧められることを進んでやってみて、その周りの

力添えから、あるときフイに自分がしたかったことができることもままあるものです、というのです。


「幸せになりたい、という言葉にはいつも『もっと』がつきます。願った分だけ、かなわなくなっていくのです。

 将来の夢を持たないようにしてごらん。周りであなたを必要としてくれてる人の言う通りにやってごらん。

 あなたにはあなたの周りに見えているあらゆる可能性が、もう与えられてると考えてみてはどうでしょうか」

と、おっしゃるのです。


一面当たってるなあと唸るのです。自己実現にしゃかりきになる人間はその表情も険しく、排他的な思考にあふ れ、

ゆったりとした心持ちを忘れがちなものです。ぼう、っとしてていい、って話とも違いますけどね、はい。


● 我を学ぶものは、死す [2004年03月19日(金)]

絵手紙作家・小池邦夫さんが師匠と仰ぐ方からもらった言葉。

小池さんはそのお師匠さんが大好きで、真似をたくさんしたんだそうです。喋り方や生きざまの真似を

試みたそうなんです。したらば、上の言葉をそのお師匠さんが小池さんに言ったそうです。


真似る、とは

=亜流である

=そのお師匠さんには決して喜ばれない

=もっとも大事なことを学ばず、外っつらばかり真似ている


真似ることをやめてから、小池さんはやっと自分の持ち味ってものに開眼したとテレビで言ってました。


私達は大好きな人の言葉やしぐさや生きざまにあこがれて、真似ることに抵抗があまりない生き方を

してしまう。でもそれはどこまでいってもおいつけず、追い越せず、自分の源泉にはならないものなのだ。

自分の心の源泉こそ一番頼りとするのが自然なのだ。


●「化け物だけではつらすぎるではないか」[2004年03月31日(水)]

「わたしは化け物なりに前をむこうとしたのではないか!!化け物なりに頑張ろうとしたのではないか!!」

自分の正体に気付いたガッシュは最初その悲しさをまっ先に隠した。ちっちゃな子ってそういう所がある。


お父さんにもお母さんにもいわないで心に秘める気持ちを持つことがある。それはふだん大人ばかりが

気づかってるかのような勘違いの中で、あっという間に見失われるところにひっそり、だけどたっぷり有る。

気づかって見つけた人だけがその気持ちの価値を知る。


ガッシュなりの前向きが、やっぱり言葉にして泣きながら言うしかないときに人の気遣いってものはなんていう か、

非力なのかもしれないって、ちょっぴり、悲しくなっちゃうのだ。


察してくれというのは難しい。

察しないというのはより悲しい。

だけどやっぱり全部はわからないものなのだ。


どうせわかってもらえないって思いこむ方にいく人もいると思う。それでもわかって欲しいって思いたい方に

いく人もいると思う。どっちもあんまりちゃんと正解じゃないのかもしんないけど、その人がそこから

自力でスィと歩き出せる結論に行き着くといいなとは思うのだ。


だからせめて、一生懸命言ってみることにしてくれた言葉にはきちんと答える気持ちでこたえたいものだ。

ブサイクなことになるけど、そこはそれ、ブサイクでいいのだ。


● 旅行についての曲なんだ、本当に。[2004年04月17日(土)]

ジェフ・リン。ELOのアルバム「フラッシュバック」にて「Twilight」への添え書き。

未だにこの曲を大切に思っている、とも解説にはのっている。そうでしょう。そうだと思う。

グルンッて人の進む気持ちを押しやって、美しいものをみせてしまった人は、その作品によって曲がる事を

決めた人間がうしろについてしまっていることもどこかで知っていると思う。


この曲があそこにあって、そこで出会って、その美しさにこちらからついていく気構えが生まれて、

それはもう、勝手にただ、酔っているんだろうけれど、その色褪せない美しさやインスピレーション

させる、想像世界のそれは、もうほかのなにとも交換も、忘れる事もできず、深く続く恋のような憧憬。


聞き返すたびに浮かぶ映像が美しさを増してしまい、どんどん引き返す道を、喜んで忘れる。

え!旅行の曲なんですか?!ジェフ!


● 背中は黙し、顔は語る 
[2004年05月06日(木)]

要はわたしは言葉に頼り過ぎなのであります。言える分だけ喋って、書いて、いい気なもんなのです。

顔で、頭で、思い付く事を次に次にと矢継ぎ早に繰り出す。


一方で、徹底的に語っていないところがあるのも明白。自分に不利となる側面に触れる気配もない。

それは私の背中にあらわれている。無防備で、見えない、背中に。


「ありのまま」、と日々勘違いして、自分を肯定してばかりいるから、言葉ばかり達者になって、充実をしないの です。

語る雄弁さにうっとりしてるなんて滑稽。語らぬ豊さの前に、ただ、ぶざまなことよ。


● ラーメンは食べる前においしくなくっちゃ [2004年05月21日(金)]

テレビでラーメン屋台村の話をやってた。そのときに新規出店を目論む5店鋪に企画者が「新しいメニュー」を

お題目に据えた。その「新ラーメン」を作り上げた大将に対し、「味はうまい」と誉めた上で盛り付けの点に

上の台詞をつけたのでした。


至言ですね。子供だったら容赦なく「食べる前においしいかわかるはずないじゃん!バッカだなー」である。

つまり、詩的表現なのであります。婉曲表現なのでありますよ。ほかの言葉でも言い換えていいよね。


「アニメは見る前に面白くなくちゃ」「まんがは買う前に素敵でなくちゃ」「音楽は聴く前にすごくなくちゃ」


そう。まだ観ぬ結果に驚けることへ突入していこうとしてるのか、ってのもすでに観られてるってことよね。

すごくてうまくて驚けてトーゼン!であるときに、作り手ってのはそのトーゼンの結果を裏切れるだけのたっぷり な

想像力を求められてるってことよね。


喰わずもがな、うまくて然り。もしかしたら「食べる前はやたらうまそう」な結果もあるだろうけれど、それで も、

想像力がいざなう「うまさ」「すごさ」にはなにかとても人間的な、みすみすはまってしまいたい巨大なトリック を

期待してしまうのだ。


●「運を右回りにする努力を怠ってはいけないよ」[2004年06月06日(日)]

「なに、難しいことじゃない。女らしさを磨くのと一緒さ」

<どうしたらいいんですか?>

「いるべき場所、いるべき時間に、そこにいるようにしな。着るべき服、言うべき言葉、整えるべき髪型、

 身につけるべき指輪と一緒に。

 女らしさは運と同じさ。運の使い方を知ってる女が一番女らしい女なんだ。
 そういう女に限って、運は右に回るのさ」


ベル・ウィングがルーン=バロットにルーレットを教える際に伝えた言葉。

(マルドゥック・スクランブル、燃焼、第4章より抜粋)


卓越した才覚同士が、年令や経歴に関係なく、ある高みにまでたどり着けた者同士でしかしない

会話ってものがある。端から聞いてみればなんだよ、そんなの当たり前だよって言葉が

深い含蓄の積み重ねの上では、がくぜんとする程シンプルかつ強烈な真実としてぶつけられることがある。

いまさら、いまさらなにかをごっそり変える岐路に立たされるのだ。前触れもなく、唐突に、

やたらに巨大に、ごっそりと、だ。


年配のベル・ウィングっていう人物の凛とした美しさの理由がこうした言葉から推察できるというものだ。

ほんの先には、自分の生活をごっそり奪い取るルーン=バロットという少女を前に、この老いた淑女は

人間の一番素敵な光をバロットに惜しまず示した。この孤高の凄みが、美しい。


● 全ての物事に訳があり、ゆえに争いは常に起こる  
[2004年06月19日(土)]

悟られよ BY 忍パッチ

ズキュン!ズキュン!(撃 ち抜かれた音)

「うおおっ・・・ぐぬう・・・忍びの者か・・・もろひいちまったぜ・・・すげえハジけだぜ・・・」

田楽マンの台詞


えー・・・・・・ボボボーボ・ボーボボより引用。


ナンセンス。これでよい!ばかばかしいとはこういうことだ!つか、わたしはこういったものが大好きだ!

きっといとこの太郎君も好きに違いない!


言ってるセリフがなんだか大袈裟で意味ありげな言葉ヅラなのにてんで意味なんかなくって

ただカッコづけなだけで、安普請で間抜けな様子がいい!そうとも、エラソーな言葉なんて大したもんじゃねーよ ねー


「悟られよ」とかいっちゃうとこもグーよ!悟られよ・・・ふっ、いいじゃん。悟られた方が扱う方も

扱われる方も気楽でいいじゃん。と、まーるで真理のようなナンセンスだ!まったくわかっちゃいねえ!っていう

ブザマさを大笑いできちゃうもんな。


浦沢さんの脚本エッセンスにアニメ世界が追いつけてきたってことよね!俺、子供んときにこんなアニメ

みてたら大笑いしてもんどりうって大喜びしてたと思う。つか、まだ、好き!!すきだー!


● お前も、楽しく、やれ! [2004年06月30日(水)]

「まかせてイルか!」より抜粋。空ちゃんがもやしっ子に言い放つこの一言。

人生は生きるにヒジョーにシビアでいっそがしくて思い通りじゃないけれど、それをつらいとか悲しいって

ところにとどめていることに決めてるのもその人本人なんだよな。すっげー簡単なことなんだけど、


悲しんでることも

つらがっていることも

いやなことも


全部自分で自分に許した分だけなんだよな。自分に、それらを許さない人ってのはそれを

味わえないんだよな。許せないんだよな。なかったことにできちゃうんだよな。

それが、人間の「みなす」力なんだな。


んでよ、日々の生活を一生懸命の主人公達はかなり悲しい境遇にあるのに、そんなのも微塵にも出さず、

陸(男の子)にあっけらかんと言い放つ。


「お前も、楽しく、やれ!」


ん。まずこの一言からじゃん。な。


●「自分がまだ自由でない、と [2004年08月04日(水)]

考えるならば、それでもかまわないという気持ちで、平気でやってゆくべきなんです。

「自由」ということにこだわると、ただちに自由でなくなってしまう。これは大変人間的な矛盾ですが」

岡本太郎「自分の中に毒をもて」より抜粋


この人の言葉はわかりやすい。ふだん自分が生きやすいからってもののつまらない判断を随分

あっさり一刀両断する。君の考え方があまいじゃん、まだまだって、言われても

「そーだよなー」って言葉で返すだけです。


今、自分が持ってる、と勘違いしてるものをとっくに、さっさと「ないだろ、なんもないだろ」ってすれば

うんと自由に立ち回れるという。そーなんだよなー。そんだけのことなんだよなー


●「聞いたかい、リブカ。なんて頭がよさそうに話す子だろう。 
[2004年09月06日(月)]

赤ん坊のポーラまで感心してたぞ!」

「巻き毛が気に入っただけだよ!」

『ヘブライ語の父・ベン・イェフダー』(ロバート・セントジョン著)

日本人ってこういう喋り方ってあんまりしないでしょう?私はこうした言い回しって大好きなんですよ。

外国文学のなにが好きって、こうした台詞にある、ユーモアともウィットともつかない人間味のある、

チャーミングな感じのものに触れるとたまらなくうれしくなるんです。


喋り方って、それは生きざまでもあるでしょ?ふだん思ってるだけの事がやっと言葉になるんだとしたら、

こういう台詞が言えるって人の生活ってのは、豊かなんだと思う。

「赤毛のアン」にしたって、その台詞回しの素敵さにやられますもん。大好き。特にマシュー。マシュー、いいよ なあ。


● 神様、子供達、血の洗礼・・・・・・[2004年10月11日(月)]

「撃たれたらなにを考えると思う?」と聞かれたパレスチナの子供が答えた言葉。

(テレビドキュメンタリーでやってた)(「ガザに死す」より)


子供なのである。子供なのに、撃たれたら「子供」のことを・・・思うはずがない。

つまり、「大人」の復唱なのだ。考えなんてないのだ。いぶかしむキャスターはこう聞く

「本当に考えた事がある?」しばらく間をおいて男の子は聞く

「僕は子供だよ。なんで撃たれるの?」


本当だ。なんでだろう

それでもパレスチナでは子供が殺されている。装甲のついたブルドーザは普通の人の家を壊すし

家族が6人も、7人も死んでいく。一家のうちそれは残された者の数の方が少ない、ということ だ。


国、とか宗教、とかを「理由」にしなくちゃもたない神経。死んだり、殺したり。

死んだパレスチナの子のポスターには「殉教者」とかかれてる。殉教?子供が?

死はその本人のものだ。まわりがその理由なんてつけるな。


● 人生は恐れを知らぬ冒険か無か [2005年01月09日(日)]

変化に顔(目)を向ける事、あるがままの運命の中で自由な精神をもって行動することが

うち負かされない力を生む

ヘレン・ケラー「Let us have faith」


視力聴力を失うことがどんなものかっていうのを結局のところ、健常者というのは理解しきれて

いないと私は思っている。想像力という武器を私達はずいぶんとあっさり遺棄しているのだ。


ヘレン・ケラーという人の威力はサリバン先生の助力にはじまっているけど、そのあとの足跡は

やっっぱり彼女という人間の努力のものだ。


上の言葉は我々が実は知っている感性。誰もが知ってて、誰もが目をそらす言葉でもある。

「恐れを知らない冒険」のなんと難しいことか。


●「子供が子供なのは
大人がなんでも分かってるって思ってるところだ」[2005年04月16日(土)]
(ハチミツとクローバー7巻より。先生と山田の会話)

うわー、そうだよー。そうなんだよー

「最初に言ったよなあ『不幸自慢禁止』って」脇役の棟梁と六太郎の会話。

「お前だけじゃねえみんな事情はある・・・・が、腹におさめてがんばってんだよ」


うわーなんてなんて思いやりのある言葉だーーー

棟梁は言う


「答えなんざどーでもいい。ハナからそんなものはねーんだ。『自分の気の済むまでやってみたか』

 どーかしかないんだよ」


そして森田先輩の至言!!「親が子供に教えなければならないのは『転ばない方法』ではなくむしろ

人は転んでも何度だって立ち上がれるということじゃないのか!?」

おおおお


「獅子は自らの手で我が子を千尋の谷へ突き落とすと言う・・・そうだ、真山っっ、

 今度山田にあったら思い切って山田を屋上から突き落とせ!!!」
おおおお、ええ?!?おおおおお!!えええええ!?!?!????

えええええ???!!!???!!!

うわー、よーわからんがかっこえー!森田先輩ー!ローマイヤ先輩に会いたい!!


●「自分は自分じゃないのか?」[2005年04月18日(月)]

「わからん・・・なんでわざわざ探す必要があるんだ?自分は自分じゃないのか?

 はっ、それとも竹本には自分が見えないのか?」

ハチミツとクローバー6巻より。森田先輩の言葉


一方竹本は浜辺で横たわってた「すげえ、腹なってるよ泣きそうなのに」

んー

んー

やっぱり森田先輩のいってることがよくわかる


迷わないよりは迷える方がいいけどね、迷えないのに迷いたがるのもいいけどね、森田先輩は続ける

「こーなったら俺も行くんだ!自分を捜しにっ」

ふふっいいですね。いいスタンスですね


●「安心はどこか退屈と似てた」 
[2005年05月21日(土)]

スーパーカー『FIRWAY』歌詞より

もう何回となく聞いてた曲だったのにだったのに

だったのに

だったのに!!!


私はなんで歌詞を気づかなかったんだろう!朝の4時にこの曲をヘッドフォンで聴いてて泣きそうになった。

「つまらない日なりに笑い合う隣に名曲が似合ったってだけ」

「結局は今を忘れるなら目の前のなれあいも ためらいも ありふれてると思っていたいだけ」

「安心で毎日は流れた」
「安心で塗って毎日は流れた『よかった』そんな気がしながら”安心がきっと毎日を似せてる”」


なんてこったもうとっくに、出そろっていた言葉がこんなに的確にこんなに的確に!だ!

メロディにもまれてたけど、違ったスーパーカーの威力はその歌詞にあったうかつだった。バカだった

ああ ひどく大事なものを リアルタイムに見逃していたんだ取り返せない


空が白んできた

でもよかった

今はこの曲を わたしは 知っている


●「噂には非常に大きな力があり、それが大きな役割を演じていない偉大な行為はほとんどないほどである

[2005年07月11日(月)]

ベーコン随想録より

実際に起こったことより、実際に起こることより、思い込みや勘違いでものごとはいつも大きく見積もられる。

物語を楽しんだり、想像するときにはそれはとても素敵に作用するけれど実際に生きるときに使う

それはおおむねよけいな心配を生む場合が多い。

「テロリスト」って実際どこかにいるんですか?想像の産物に近いんじゃないですか。もしかして。


● 大人が醜い理由は、戦おうとしないそのおびえた命にあることに、気づいているか? [2005年07月18日(月)]

「ナ・バ・テア」森博嗣・著の前書きより

がんじがらめになる感情にふりまわされたり困ったりするのは結局本人の希望なのかもしれない。

合点づくのことしかしないのが人間だし。


だから私は「仕方がない」という人をまったく信じない。選んだものの上でしか、人は進んでいない。

真っ先に自分に嘘をついて、それを知らないことにしてる人を私は厭う


●「普通の人間・・・という言葉」[2005年07月27日(水)]

「あれも気持ちの悪い表現だ。どうして、普通のものを決めるのだろう

 普通を決めるから、普通じゃないものができてしまう」

 森博嗣・著 「ナ・バ・テア」より引用


圧倒的多くの人が自分は「普通」であることに落ち着きを得てるし自分は普通じゃない、ってことを

アピールしたがる普通の人もいて、心底「普通じゃない」ことにやましさを覚えてひたすら隠す人もいる。


普通、がどんなであるかは誰にも決定できないのにそんなものが堂々と指針にされて、そんなものが

理由にされてぬけぬけとまかり通る。


「普通」を理由になにかをしようとする人のその根っこの小ずるさはまんまと黙認する。

「普通」なんてわかんないくせに


● 井戸を掘った人を忘れるな [2005年10月15日(土)]

中国の要人の言葉らしいです。

はじめに井戸を掘るのは大変なのに使う人たちは自然と潤う。

私たちの生活は忘れっぱなしの生活じゃないでしょうかそれに違和感もなく、感謝もないのは、なんというか

貧相、であると思うのです。


● 商品の真の力は 
[2005年10月31日(月)]

そこにいかなる夢を内包しているかだ。消費者の分かりやすいニーズを満たそうと思うとくだらないものになる。

イタリア工業デザイナー・エンツォ・マーリ(BRUTUS:CASAの記事より抜粋)

そうね。本当にそうですよ。言う通りになんかしてたらなんにも成り立ちやしない。くだらないものが作りたかっ た

訳じゃないんだもの。正気に戻らなくちゃ。


●「そこにあるものを強く見つめすぎると、そこにないものを忘れてしまう」[2005年12月17日(土)]

ジョー・グレアムによる福音書第一巻第一章第一節。

(ホントは「ウォーター・スライドをのぼれ」ドン・ウィンズロウより)

ひとつのことに執心して他を見ないと言う判断、というのはしてしまいやすいもの。小さいものをしっかり

見ようとして、大きな輪郭を見ることを省いてしまうのは、自分のちっぽけな心持ちのせいなのに。

思いのほか、人は「見たいようにしか見ない」という馬鹿さを捨てきれない。色眼鏡、と言い切れば

それはなん というか、別の短絡さがある。


自分で判断をしなくてはならないけれど、その判断者の自分が偏った判断材料しかない、と

自覚している人が何人いるでしょう。

この言葉の意味は、この言葉以外で言わないのが一番上手に人に入り込むと思います


● 自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない 
[2006年05月15日(月)]

「回転木馬のデッドヒート」村上春樹著・序文より 気負うでなく、誇るでなく、ただ淡々とそうである、とし

、世間に言う発散や解放や昇華などといった輝きを虚構であるかのようなすげなさで「そうなんだもん」と

ポツリと書いてる。


これはそうだな、と思えた。この「スルリ感」がよかった。嘘でなく、こっちが心のどこかで

こっそりそうである、というものを言う人は信じられる。作家がこれを書いてるのがまたいい。


● 不可能に思えることには、できるだけ無視の姿勢で臨むこと [2006年07月21日(金)]

スタンフォード大学でラリー・ペイジが学んだ言葉。(Google誕生より抜粋)

最初、言葉を読み違えました。不可能になりそうなことには向かわない、ってことかと思いました。

違うんですね。不可能ってことを忘れてどーんといけ、ってことですよね。んんん。


不可能なんてなことはどー深く考えてみたところで不可能って思ってる限り、変化なしなわけで、

いっそ「不可能」ということを忘れてやっちまえ、というのは素敵なアプローチです。はい。

いただきます、この考え方。オス。


● オイラおなか・・・・・・空いてない・・・[2006年09月08日(金)]

アニメ「ガンバの冒険」でボーボが最終回に言った言葉。仲間のねずみを守るために

自分たち7匹がおとりになって死んでしまうかもしれないことが分かっているときにこれを言いました。


1話めからボーボは「おなか空いたよー」ばっかりだったのにね。7匹の中でちゅーたと同じくらい

特技のないボーボがよりによってガンバルことを宣言するときに言った台詞こそが

「オイラ・・・おなか・・・空いてない」だもん。そこには決意がある。


「俺っ、おとこだもんなっ!」「男の旅に終わりはないのです!」毎回観てきたエンディングが

ノロイがいなくなった今、そう、最終回に観ると意味合いが深く濃くなるのです。


●「生きる意味が何にかかってるか・・・・・・・だと思う」[2006年10月10日(火)]

ハチミツとクローバー10巻より。

はぐちゃんは修チャン先生を選んだ。山田さんは言う

「私・・・はぐちゃんは森田さんのこと好きなんだとばっかり」

真山は答える

「好きなんだと思うよ」

「じ、じゃあなんで?」

「生きる意味が何にかかってるか・・・だと思う」

真山はよどみなく続けて言う。


「それが『恋愛』の人間もいれば好むと好まざるとにかかわらず、なにか

『やり遂げねばならないモノ』を持って生まれてしまった人間もいる」

「どっちが正しいとかはなくて、みんな、その瞬間はもう本能にジャッジをゆだねるしかないんだろうな」


正しいことや立派なことだけで世の中が進んでいるんじゃないしいい人とか悪い人なんて定規が

ほとんど役に立たないものなんかで世の中は突っ走っているんだけど、起こることすべては、

ただ、そうなんだから、それは全部、『本当』なんだから、もう、いいとか悪いじゃないのかもしれないけれど

決めて 走った 人にはもう 引き返せない 一本道が ずっと 続くのだ。


そういうのを背負って 人は 人の数だけ走ってる


「修ちゃんの人生をわたしにください」はぐちゃんの言葉はすんなりと正直だった。

この気負いのなさの、その本当さはただ 美しかったので 私は うれしかった。

がんばろ。俺。


● 私の雨だ
[2006年10月10日(火)]

「そうだ 修ちゃんは きっと 私の雨だ

 一緒にいると 深く 息ができて 

 草や木みたいに ぐんぐん のびて ゆけそうな気がする

 いつも困ったような 顔で やさしく 笑う

 私の だいじな

 だいじな ひと」

 ハチミツとクローバー 10巻より抜粋


うん。すてきな言葉です。すとんとお腹に入る言葉です。どうにかしたい ではなくて

そうでしかない という ほんとう。


その 正直さ、その 偽りのなさ は誰にも どうにも 手出しが ならないものと わかる。

この漫画を知ってよかった。ホントに。ホントに。


●「いま一番怖いことはおばあちゃんがいなくなってしまうことです」

[2006年12月27日(水)]

NHK BSドキュメンタリー「アジアに生きる子供たち・僕とおばあちゃんのために」より

フィリピンの11歳の子供、ジェフリー君がおばあちゃんの介護をしながら言った言葉。


続けてこうも言いました。
「でももし一人ぼっちになってしまっても弁護士になって生きていきたいです」


テレビクルーが画面の外から聞く「自信はありますか?」


たじろぎもせず、まばたきもせず、凛と彼は言った「自信ではなくやりとげると心に誓ってるんです」


おばあちゃんは体の不調からか孫のジェフリー君のいちいちに文句をつけてしまっていた。

「わたしが病気だってことを忘れてしまったのかい?」とか「もうお腹ぺこぺこだよ」


ジェフリー君は悲しそうな顔をしておばあちゃんのいうことを聞いてた。テレビを見ていた

私はおばあちゃんの文句のつけかたに腹が立っていた。


なんだよ、ジェフリー君、がんばってるのに。

なんだよ、ジェフリー君の兄。おばあちゃんの世話もしないで「僕が仕事を探してた方がいいんだ」

だなんて。ジェフリー君ばっかり大変じゃん。


おばあちゃんの世話のためにジェフリー君は実入りのいい夜の仕事を辞め近所の食堂で働くこともしてた。

夜に帰宅したジェフリー君が床についてるおばあちゃんに言う「寝てて、寝てて」。
収入の減った分、
タッパーに入った残り物で夕食を済ましているシーンは私には悲しそうに見えたのだ。

でも次のカットで、ジェフリー君はおばあちゃんの横に添い寝するのだ。

少し、嬉しそうにおばあちゃんを見上げながら彼が言う

「僕が見ててあげるから早く休んで」

「おばあちゃん眠っていいよ」

笑ってる。笑ってそう言ってたのだ。


てんで自分がしてた思い込みが間違ってたことが自分で分かった。ジェフリー君がなにをされてるか、

で生きてるのではなく彼がなにをしてあげたいのか、で生きていたのだ。

周りの仕打ちや言葉や環境がどうである、に彼はてんで負けていなかったのだ。


二言目には「自信がなくなりました」「もう限界です」「私にはもうできません」そんな言葉ばっかり

ほぼ毎月誰か彼かが泣きながらつぶやくのを目の当たりにしてる私は、心のどこかで「弱音を聞き慣れた」

ところがあったのかもしれません。


「自信ではなくやりとげると心に誓ってるんです」子供がそれを言って、自分を疑ってもいない様子の

奇麗さに、驚いたんです。それは、いいな、と思ったんです。


● 矢は弓弦から飛び去るやいなや、もはや射手のものではない [2007年02月07日(水)]

ドイツの詩人、ハイネが言葉を放たれた矢に例えた話。(朝日新聞/天声人語より引用)


私自身は喋る方の人間ですけど、責任とかどうとか立派な覚悟なんて到底ないからどかどか喋る訳です。

そのことばひとつひとつがどう転用され、解釈され、誤飲されるかを怖がれば、きっと喋ることが

嫌になるし、黙ることが苦痛でもなくなってゆくと思う。


言葉は量によってよりも、その質、使い方の方を慎重に選ぶ方が本来効果的なんだとは思う。

でもしかし、どんなに頑張ってもどんなに上手になっても言葉くらいでできることっていうのも

限られてる。それで人との仲を維持できるだなんておごりだ。


言葉を大量に放ち、叫んだり笑ったり泣いたりさせながら、そのまま言葉を繰り出すのは、

そうした多すぎる言葉の波の中から「言葉そのものでは直にいってはいないこと」が生きてくる

瞬間があるからだ。


喋ってる相手が必死になって単語単語を繰り返し投入し、伝えたいことそのものがどうしても

語彙・ボキャブラリーになってないものを伝えたくてああだこうだと挑戦してると、

「つたえたいことそのもの」のまわりにその人が放った言葉がどんどんかたちになって積もってくる。


相変わらずどこまでも伝えたいことそのものは単語にならないんだけど、積もり積もった言葉たちが

ある量に達すると、伝えたいことの外の輪郭がくっきり出てきて、とうとう最後までハッキリ

できなかったものの形が、その外枠にためた言葉たちから見えたりするようになることもある。


サンテクジュペリの言うように大切なものは目に見えない、そうなので、こういう一見無駄な

工夫のようなものによって、せめてその輪郭をくっきりさせるくらいの肉迫はあってもいいでしょう?


矢のたとえの話のように、言葉は自分から飛び出しているものなんだけど、この格言の横道に

それそうな解釈を敢えて書きますが「無責任もまたよし」ではないかと。積極的に喋り溜めてでないと

生まれ来ないニュアンスを外堀から埋めてゆく作業もまた、言葉の威力です。


● その1本で世界を変えるくらいの気持ちでやらなくちゃ駄目なんだよ [2007年04月01日(日)]

宮崎駿先生がNHKの番組で息子さん監督の映画を見た後でブツブツ言ってた台詞。

うん、そうだよ、そうだよね。「変えられないんだけどね」って続けてたけど、それ、本音じゃないですね?

少なくとも私はたった1本の作品でグングン元気がつきましたよ。グングングングンとね。


たった1本でドカンと壁が吹き飛ぶ作品ってあるよ。できるよ!できちゃうんだよ!少なくとも、私は、

そういうのを、知ってる!知ってるんだ!


● お前を信じる俺を信じろ![2007年04月01日(日)]

グレンラガン1話。グレンがシモンに言う「自分を信じるな!俺を信じろ!お前を信じてる俺を信じろ!」

ああああ!これを言ってくれたら何人の人が思い切れたことでしょう!いい言葉だ!

自分ばっかしんじなくたってかまやしないよ!走り出せるための、最初のはずみ車がひとつ、欲しいんだ。

だから自分を信じなくたっていい、とにかく!走り出せりゃいいんだってば。


信じにくい自分であるなら信じれるものを信じて突っ走ってみればいい。だからこの言葉はサイコーに輝いてる よ。

ヨーコは横で「なにソレ?」って言ったけどね!


● うまいのは当たり前。そのあとに如何に感動を与えられるか、だ
[2007年05月22日(火)]

テレビでやってた寿司屋さんの番組で職人が言ってた。プロなんだから、職人なんだから、うまいのは当たり前。

これは分かってるはずなのに、なかなか言えない。言えないし、「うまい」にこだわりすぎて、

目指し過ぎて、そのあとにきた「感動」を忘れちゃう人のなんと多いことか。

作品を作ったりしてると目的・目標を間違うことがある。とにかく上手に、うまく、完成させる

ことばかりに執心してしまい、自分がなんで作るってことを志したかをかなりさっぱり失念する。


本末転倒とはこのことだ。作る、ってことそのものが大事なんじゃない。その作品を介して、

相手にどんな気持ちをねじこみたいか、だったり相手にするりと受け取ってもらうか、の方こそ大事なのに。

作り手は、作るってことを大事にしてる間は、いい作り手じゃないんだろうね。


うまいのは「あたりまえ」。そのあとに身構えてて欲しい「感動」の色合い、彩り、深みにこそ凝る。

そういう人が、人に求められる、人。


● だけど、嬉しいことで悲しいことって、消せないんだよね 
[2007年06月05日(火)]

「フリッタ・リンツ・ライフ」森博嗣・著

フーコがクリタに海で伝えた言葉。フーコは続けて言う「なんでかな」


相殺できたり、補え合えたりできる感情ってものはない。混ざったり、忘れたり、にぎやかしたりはできるけれど

それはなんだか半分自分で自分をだますような手管。「なんでかな」


フーコが本気で「悲しいこと』を「嬉しいこと」で消したいなんて思ってやしないだろうけど、

できればいいのに、なんでできない仕組みなんて話がまかり通るんだろう、という静かで深刻な

希望がたゆたっている。


本気すぎることは、いつも言葉が、間に合わなくなる。

嬉しいことで、悲しいことが消えたらなんだか、人の根っこの部分では、もっと、うんと、悲しくなってしまいそ う

私たちは、悲しい、ってことを、そのまま、大事にしたいのかもしれない。


● 別れることは、ちょっぴり死ぬことに等し [2007年08月16日(木)]

フランス格言。別れることを、ただそれだけで、そうなんだって思えたことなんかなくって、

悲しいって言葉ではうまく言い当ててないな、って思うときにこの格言の表現の方が近いと感じた。

ちょっぴり、死ぬ。だから、取り戻せない。


●人は希望だけでは生きられぬ 
[2007年08月16日(木)]

フランス格言。きっと原典の語るところの意味は希望ってだけじゃ食べて行けないし、

いろんな現実も受け入れなさいってことなんでしょうけれど、私はこの言葉の後ろに感じた続きは

「希望っていう明るいものばっかりが人に大事な訳でもない」という、まぁ手前勝手な解釈。


後ろ暗い気持ちやねたみ、そねみ、絶望とかあきらめとか、暗部のようなものもたっぷり

重ね持っていればこそ、生きるってことが上手になるんじゃないか、ってこの言葉を続けた。


上手に、奇麗に、希望を持つってことはその反面に備え持つ気持ちも整然と知っている人で

あることでもある、ではないかと思います。


「できれば知っておく」なんて遠慮がちなそれではなく「希望だけでは生きられぬ」ほどに、

渇望される、要るもの、だと言いたいのです。


● うまいスープは古い鍋で作る [2007年08月16日(木)]

フランス格言。

いいでしょ?この語感。気持ちのありようもいい。世間で傍若無人に振る舞う若いってだけで自分が元気な

やんちゃな男の子ってヤツも、若さとピチピチさってだけでちやほやされすぎてる女の子も、

金とか社会的に落ち着きを見いだしてるってだけの中身のねえ大人ってやつも、「全部嫌いなんですけど」って

ずーっと思ってきてたからこの格言が言い放ってるだけのことに、自分が出会うと俄然嬉しくなって、

とびつくように大好きになれる。


自分をだまさないでも、素の部分から、心底自分が惚れ込むことを見つけてゆくのは楽しいこと。そうしたものは

昨日今日の短い思いつきや、勘違いとか若さとかに左右されない力の源泉を持ってる。それが

「古い鍋」の部分なんだと思う。


本当の古さじゃないよ。どこまでも色あせないだけの、うまいスープってのは飽きない理由が、

秘密として、そこにちゃんとある。私はそういう秘密が大好きだ。


●「これがタイムマシンだったらどうするぅ?」[2007年08月26日(日)]

私が働いていたときに親子連れがガチャポンの前にいた。子(8歳くらい)「ねえねえ、おとうさん。

もしこれ(がちゃぽん)がタイムマシンだったらどうするぅ?」と聞いていた。ええええーーーーー?!

なんスか?どうなんの?答えはなんなん?うわー!ごっつ気にかかりますけど、答えは?その子の答えが

気になったんですけど、仕事に戻りました。



お父さんにがちゃぽんの100円をせがむ口実に過ぎないだろうけど、ものすごく想像力を

かき立てられました。こんなこという大人っていないもんねえ。


● それは卑怯者のすることだ [2007年09月08日(土)]

ボーズの創立者・ボーズ博士が他者の悪口を言ってたボーズ社長に言った言葉。

「よその製品の悪口を言うのはやめたまえ。それは卑怯者のすることだ」

そうだ・・・その通りだ。そんなのが当たり前になってた生活なんてのは、卑怯者の団体さんに

参加してるようなものだ。


上のことを言われた佐倉住嘉社長って人もかっこいい。「新しい発想は豊かな環境の中では生まれません。

逆境で死にものぐるいになった時に苦し紛れに生まれるのです」なるほど。

この現代にあって「卑怯者」をちゃんと見分け、さげすみ、自分の立ち位置のあり方を語れる人はいいな。

朝日新聞2007/9/8 BEより引用


● 困難とは作業衣を着た好機会にすぎない [2007年10月14日(日)]

ヘンリー・J・カイザー。

なにぶん今年は近年にない量加減で人に裏切られ、逃げられ、お別れが続く。

こっちになにか非でもあればいっそガックリしたりもできるけど、そうではない。

そのことごとくの尻拭いをしてるような気持ちになり、誰彼なしに怒りが出そうになることもあった。


でもまあ困難なんてのは生きてれば多かれ少なかれずっとあるもんだし、ああ、じゃあなにか

こっちの考え方でよかないものんがあるかもな、って思い直してみると実は結構この困難に

見えるものをこなすことで、自分にとって得るものがあることを予感しています。


他人の理由じゃなく、自分の中だけの理由でね。ああでも困難よ、できるなら早めに作業着を脱いでおくれ


●「本来の自己は傷つきも汚れもしない」
[2008年01月16日(水)]

「しかし作り物の自己は作り物であるが故に傷つき汚れやすい。
迷いもこの作り物の自己に特徴的な現象なのだと思う。」
玄侑宗久:著 「禅的生活」より抜粋


根っこの部分では人って自分を否定しきれるもんでもないから自殺でもない限りは、生きてる限り
「自分」と向き 合い、つきあい、許すモンである。上の言葉に言う「作り物の自己」ってやつの、
なんてぶざまなことよ、って言う のは自分でみんな、よーく分かってることなんだと思う。


実はみんな大して自分のこと嫌いじゃない、から、そのままでいるんだもんな。好き、の反対語は

「嫌い」とい うより、「無関心」なわけです。自分に無関心はできないので、「好きでもないけど
嫌いでもない」とかいう正体の ない曖昧さで、ふーって座りかけてるんだけど、そーじゃないんだよね。


自分、ってもんの根っこは他者から触れないところにあるから触れない。作り物の自分を前に

押しといて、傷ついたり汚れたりさせておいて、保険をかけている・・・なんてのは無粋な解釈

なんだろうけ ど、「迷い」が特徴だなんていわれちゃったらンもう、恐れ入ってしまうのでした。

ホントはどーでもいーんだよな。下手な芝居なのかもしんない。


● 人類が終わっても植物はいますよ [2008年03月27日(木)]

「人間は全く強くない」「人間は知識の使い方も駄目なのです。実際には人間は地球上の適応競争で

負けつつあります」

『仏弟子の世話話』玄侑宗久・アルボムッレ・スマナサーラ著より抜粋


マグマが流れ出したら動物は逃げおせても、人間は息切れして死に、そのあとに最もはやく復帰を

果たすのは植 物である、とも話してます。


つくづく、脳の妄想だけで、人ってのは身勝手に生きてるんだなあと感じ受ける本です。

マッチポンプ、自作自演、そのまた芝居の質が低く見てらんないつまんなさってのがシャクってもんだよね。


プリミティヴに、ただ生命の勢いに任せて生きてるだけ、ってのもとても強いことなんだろう。

考えて、なんとかなってるって思うのはもう小芝居の次元なんだな。

マグマの後に芽生える植物のような生き方が、人にはあるだろうか。


● 「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」[2008年04月21日(月)]

誰が言ったかって?プーチンです。
うまい、うまい言葉です。柔道家で6段授与を丁重に
お断りするロシアの赤いほっぺたの鷹。
まさにしかり。


ロシアというアジアでもヨーロッパでもない国の持つ独自すぎる独自さの中で、かの人は
アメリカにもイギリスにも中国にもまけずおとらずがんばってるようにわたしには見える。
ソ連という外目には大仰な試みも、内部からは美しいものもあったのでしょう。
とはいえそれは内側にいた人にしか共感しにくい心証があったんだろうな。
それがこの言葉には詩か俳句のようにきれいにこもっている。


● ばらまかれている者同士
 [2008年07月13日(日)]

生命は自分自身だけでは完結できないように作られているらしい・・・・しかし互いに

欠如を満たすなどとは知りもせず知らされもせずばらまかれている者同士

2008年7月12日朝日新聞天声人語 吉野弘さんの詩よりの引用


一緒にいても一緒にいる実感が持てず離れていてもその距離が問題にならないこともあるように

人との距離は自分の中のこころが作り出したフィクションに思えてくる。


喜べても苦しくても、自作自演、マッチポンプに近い。気持ちを生むのは自分の中から。

そこ以外に出てくる口はない。地球生命体の因果関係を詠んでる詩なんだけど、

この最後の「ばらまかれている者同士」っていう表現は的確に私たちのあり方を言い当てすぎてて、

素直にそうだってなかなか言わせにくい事実。


「いや、もっと、人は深く、大きくつながっている・・・」

そう言うのも、思うのも素敵なことかもしれないが素敵なことと同じくらいの量加減で、

自分に毒をはらむことを知っている人であってほしい。


ばらまかれている、からこそ。

からこそ、なんよ。


● 挫折しない・・・人に運命をゆだねない・・・・[2008年08月06日(水)]

NHKプロフェッショナル・仕事の流儀 宮崎駿のすべて「ポニョ」までの軌跡より

「おじさんたち(映画会社お偉いさん)がこちらの出した企画を通さなかったからと言って

 それを恨みの思っていると、つまんないことになりますから、人生は。」

 

宮崎監督はイメージボードを描きながら、全体のストーリーを完成させないまま、

生ものを扱うように作品を「育てて」いた。

これは映画のマキノ雅弘監督が現場で群衆シーンなどを生き生きと描くときに

必ずしもシナリオ偏重をせず、アドリブであったり、現場の空気であったりするものを

取り入れ、生ものとして、旬さや鮮度を持った人間を表現することと同じだ。

 

押井監督という人も「今」の空気を文章や歌でなく「映画」ゆえに伝えられるように

ある種計画性を持ちながら も行き着く目的に「人間臭さ」をつかもうとすることと

同じだと思う。

(そしてかの監督は人生はつらいものだ、と言った。

 それは上座仏教ですでに知られ続けてきたフレーズのひとつでもある。

 発明品ではなく、すでにあるものへの再認識のような気がする)

 

手塚先生にせよ宮崎監督にせよ押井監督にせよ、感じるのは「あまり他人をほめたくない」という空気。

作り手のギリギリのところに「居させる」ためなのか、他人を上手にほめてるシーンにほとんど

メディアを通して感じ受けられない。自分が生み出すものへの精一杯、であればそれもいい。

 

宮崎監督が言う表題の「挫折しない・・・人に運命をゆだねない・・・・」というのは

信念なのだと思う。


周りの放ってくる「理由」っぽいもので、自分を合点させたり、がっかりさせたりなんか

してないんでいいんだからね、っていうものと、
他人を理由にさせて、こっちの態度を
決めるだなんていう「自分への堕落」を許す口実なんて持たない方がいいよってことと、
「外からの理由でがっかりしたくない」という気持ちが幾重にも重なった複雑な言葉なんだと思う。

 

かつてコント55号の欽ちゃんちゃんが、コメディアンとして成功したことをお母さんに

喜んでもらおうと伝えたら「夜にキチンと帰ってくる仕事をなさい」っぽいことを

言われてしまい、心底悲しかったってテレビで言ってたけど、
宮崎監督もナウシカで
成功する前に、一番認めてほしかったお母さんを亡くされていたようで、昔っからずっと
持ってた才能が花開くときに、それを一番認めて
欲しかった人に認めてもらえなかったり、
他界されていたりする、その不完全で着陸に失敗したかのような、こころの切れっ端のようなものが、

「他人を喜ばせたい」の原動力のひとつであることを、私たちは静かに知っていたい。

 

自分が元気で、他人も喜ばせてあげたいって気持ちだけではきっとなにか足りないのだ。

「挫折しない・・・人に運命をゆだねない・・・・」


その通りだ。

前向きでも後ろ向きでも、どっちでもいいから、この言葉のまま腑に落とそう。

 

● 生きていくにはカントよりトンカツのほうが大事です [2008年08月28日(木)]

「いつも300円のトンカツが150円だったから2枚買った。20枚限定で大変だった」という

 奥さんの方が正しいのです。

 こういう知識は生きることに直結しています。カントより150円のトンカツのほうがよほど重要なのです。

「カント?なにそれ」と言われても仕方ないでしょう?

サンガ出版「無情の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著「それは『無常』ではありません」より抜粋

 

カントを知ってる旦那さんには、奥さんのスーパーでの買い物情報のやり取りが馬鹿話にしか

聞こえてないんじゃないかという例えの文章です。

 

この師の文章はいつも飲み込みやすく、俗っぽい平易なたとえがとっても上手で楽しくなる。

カントとトンカツ、並んで比べるものなんかじゃないんだろうけれど、「知識」でなんかしようとしてる

現代人を笑い飛ばすような姿勢がある。

 

生きることが肝要であって、知識なんてのは2の次でいい。これっぱかしのことをきちんと言う

大人はどこへいったんだ。生きることに上手であるっていうのは、まずもってきちんと食べるってことに

執着できることだよ。

 

師は「知識」が「大量殺戮兵器」なんてのを生んでいるのにそんな文明のまんまでいいわけないじゃん、

と一刀両断です。ははは、そうだよ、そうじゃん。ろくでもない文明に乗っかったままで

安心したがってるなんてね、どうもね。

 

目の前のものすらきちんと観なくなった自分たちの逃げ腰な毎日を、いま、ここから生
き直す
ことから始めよう。試練。

 

●そんな・・・・・・嘘でしょう?・・・父さん [2008年09月21日(日)]

映画「ストレイトストーリー」より

 

腰を痛めて倒れたのに時速4キロのトラクターで隣の州まで弟に会いにいくと決めたアルヴィンに、

娘が言った言葉。

 

丈夫で元気な人が車でビューンと行ける距離が、ちょっとやそっとの工夫ではどうにもならない

目も悪い老人が、弟に会いに行くためにはトラクターしかなくって、その状況下でいいも悪いもなく、

それしかないので、文句も言わずに野宿しながら、ハム喰いながらいろんな人に会いながら、進んでいく。

 

娘はどもりのある子だけど優しさが画面から伝わってくる。大仰なリアクションをみせたりしないで、

上の台詞を平坦な、抑揚のない感じで言う。

 

でもそこにはたくさんの気持ちがいろいろないまぜになって、いろいろ束ねて、頑張ってよいしょっと

ねじりだした言葉なんだけど、やっぱり、優しいんだよね。(ちゃんと『弱ったー』って感じに頭を抱えてる)

 

人生ってちゃんといろいろそろった万全で生きられるものじゃなんだけれど、その節々が欠けた

まんまで歩いている人を放っておくほど他人行儀でもいられないもんなのかもとこの映画を見てると思う。

 

まずはひとりの人であること。小さくてもなけなしの自分からのプレゼントを相手に渡すこと。

嵐が来たら雨宿りすること。雨をやりすごしたら、進むこと。自分の理由で、自分のペースで。

 

● 心は本来ただしいものではない [2008年11月01日(土)]

心というのは、基本的には「無知」という感情で機能しているのです。「知らない」ということで

動いているのです。

(中略)

知らないままだと、アホなことをするだけです。無知の上にさらに欲と怒りが加わるのです。

(中略)

心は弱者でありながら、同時に強者気取りで自分を管理しています。ですから人生はろくな

結果にならないのです。

(中略)

弱者たる心で自分を管理しているから、人生は納得いかないのです。

(中略)

「ありのままの自分」アルボムッレ・スマナサーラ師/著

 

自分の心から願っていることなんだ、といっていろいろ頑張ってみたけれど、どーも思ったようなことに

なってないやって思う時ってあると思う。師の言葉は気負うでなしに「あ、そうかも」って思うことが多い。

心、のおもむくままに動いたら、人生破滅するだろうな。なんせころころ変わる。

 

人とどんなに深く、真摯に話していっても、どこかいつも突き詰められないやって感じるのは、

相手が悪いでもなく、自分が駄目なのでもなく、「心」ってやつの正体に気を取られすぎていたのだ。

無知と、怒りと、欲、を相手に、座りのつく話なんてできませんもの。

こころ、に惑わされないこと。

 

●「結局そのほうがラクだからなんだよね」
[2008年12月06日(土)]

主人公キクチくんが大学を中退し、万年喰えないサックスプレーヤーをやりながら、いつかプロの

ジャズメンになろうともがいてる最中に、フイにアイドルのバックバンドというプロの地位を手に入れる。

 

「音楽で喰えた者が勝ちだ」と言い放つ仲間もいる中で、やりたい音楽の志向とは違うにしても、

「プロ」と称される地位にまでやっとたどり着いたキクチ。

 

ある夜、飲みに行ったバーでキクチ君に声をかけるサラリーマンがいた。

「キクチくんその芸能プロダクションの、社員になってしまったわけ?」

「ええ、まぁ・・いちおう月給ですし・・・」

「・・・・これはよけいなお世話かもしらんけど、そこにはあまりながくいない方がいいような

気がしますなぁ・・・・」

 

語りだす風采のあがらない中年のおじさんの言葉は続く。

 

「そりゃあぼくらとは全然仕事の内容はちがうでしょう。でも一種のサラリーマンですよね」

 

「創造的な仕事をしようと思う人でもどこかの組織に属したり安定した生活を保障されたりしたら

いつのまにかちがうものになってしまうんじゃないのかな」

「だからといって菊池君の場合にどうかっていっても・・・

しょせん一サラリーマンの個人的体験に基づく見解ではあるけれども・・・


ほとんどのサラリーマンが自由がないとか自分を生かせる部署につけないとかかえずグチをこぼしてる。

けれど本当に会社を辞める人間が少ないのは・・・・・・

 

結局その方がラクだからなんだよね」

 

と、言った。

細野不二彦・著「BLOW UP!2巻より抜粋

 

いつもこの冴えないおじさんの言葉が心のあっちこっちでいったりきたりしてる。主人公のかっこいい

言葉や決め台詞でなく、このイチゲンさんなサラリーマンのおじさんがいった台詞が刺さってる。

 

もう20年前のまんがになるんだけど、学生時分にこの言葉は妙に重さをもって私の中にずんずん

たたずんでいた。私はラクをしていないだろうか。気安く夢を語っていないだろうか。

この回の最後に芸能プロダクションのマネージャー(もとトランペッタ-)は言う

 

「もしかすると実際に夢を生きてるヤツほど・・・夢を語らないものなのかも・・・な・・・・」

現実に生きるつもりなら、「夢」なんて泡みたいな表現はしないもんな。

刺さるよ。刺さるんだよ。

 

●「潔い」のと「なげやり」なのは、似ているけれど違うんだ!!
[2009年01月06日(火)]

「3月のライオン」2巻チャプター14より抜粋

主人公れいくんを励ます自称ライバル二海堂くんがテレビを通じて発する応援の言葉。

 

主人公と戦えばまけてばっかりの二海堂くんが少しばかりスカした感じに見える主人公に熱く、熱く

(本人的には普通に)むさ苦しいほどの熱さでアドヴァイスをピアノの連弾のように立て続けに発する。

 

「攻めるだけじゃなくて、ちゃんと守れ!」

「最近のお前、ちょっと変だぞ!?」

 

言われたい言葉

言ってみたい言葉

でもそれが言えない人の方が、普通なんだ

 

だからこれを言えてこう思える人の熱さは言葉以上に、相手の存在がしみ込んでくる

 

「自分を大切にしろっそれができないのが”伸び悩み”の原因だっ!!」

主人公は怒る

「くっそ、知るか!!なんだよその上から目線!!」

 

ふふふ。

ふふふふ。

それができないのが”伸び悩み”の原因だ かー・・・・

いい言葉だよねー

 

● 大事なことが、手に入らない [2009年01月07日(水)]

インターネットしてると特に思う。読んでも読んでも探しても探してもどんなにリンクをたどっていっても

大事なことが、手に入らない

 

生きてても同じ感覚を味わう。探しても叫んでも泣いても怒っても笑っても覚めても聞いても教えてもらっても

大事なことが、手に入らない

 

そう言う気持ちが重なって、続いてそんなものばっかりで埋まってくると、ああ、もう、いいやって心持ちに

なったりもするけれど、それって大事なことが、ない、ってんじゃなくって

 

へた

 

なんだよね

 

上手にやれてない、って場合が、ままある。

 

焦ってると、弱ってると、困ってると必死すぎて見えなくって、息が上がってて、訳わかんなくて

無様で、どうでもよくなりそうで、くたくたで、しわくちゃでガタガタのぼろんぼろんの、そんなものが

自分だと認めるのも嫌んなってるのに、嫌んなってるのにさー

 

目は

頭は

なにかを追ってるんだ

じーっと、凝視して、耳を澄まして、分かるのを、気づくのを、待つ。

 


大事なことが、手に入らなくてくたびれたようなつもりになって、うんと期待する。
まだ予感する「大事なこ と」を待てるものなんだ。

 

●「そうだ、ずんずん祈らねばならんぞ。なむなむ!」「なむなむ!」
[2009年03月02日(月)]

「私はあわてて手を合わせ、「なむなむ!」とお祈りいたしました。これは私が独自に開発した万能の

お祈りで、絵本を読んでいた幼い頃から愛用しているのです。」

森見登美彦・著「夜は短し 歩けよ乙女」より、

第2章 「深海魚たち」より抜粋

なんて可愛く、なんて軽妙で、素敵な会話なのでしょう。この本にはこんなに愉快でうふふな表現が

たんまりこもっておるのです。

 

この「ずんずん」というあたりが実にいい。

「なむなむ!」

いいねえ。

「なむなむ!」

 

● みなさん、なやみはなやみのためにあるのではなく [2009年03月16日(月)]

かいけつするためにあるのです

(白血病の女の子、享年8歳の石川福美ちゃんの言葉)

 

テレビでこのこのことが放映されていました。闘病で苦しくって「死にたい」って言ってた子が、あるとき

苦しさから気を失ってしまい、目覚めたときに


「ああ、よかった」

 

って言った、というのです。

それは「ああ、生きててよかった」って言葉。「死にたい」っていう表現で苦しさの度合いを示すことは

できるのかもしれないけれど、本当に死にたい意味ではない。

 

その子が書いた文章が、冒頭の言葉。

周りの大人を気遣い、仲間を気遣い、自分の命の長さの中で自分にできることに目を向けた女の子の放った、

綺麗な言葉。

 

頑張れよ、元気出せよ、っていう励ましではなく、目の前のものを、きちんとつかんで、向かい合うことを

して、自分がしゃんとするやり方を、子供のうちに知っていた。そう、生きた子の言葉。とても、すごい。とて も。

 

● そのうちの1日がなくたって今日はなかったんだからね 
[2009年04月24日(金)]

秦 万里子「半径5メートル物語」という不思議なCDを出してる庶民派な歌い手さんがテレビで言ってた台詞。

 

いいことも、わるいことも、素敵なことも、嫌なこともまんべんなく、大波小波でやってくるのが人生。

がっかりしたり、ニンマーリ笑ったりできてくるときにいいことも、わるいことも、せんぶひっくるめて

「いらなかった一日なんて、ない」って言い切る考え方のすんなりしたホントっぽさが、この言葉に

ギュッって詰まってる。

 

忘れちゃいたくなることだって、それがなかったら、今の自分にはならなかったし、忘れちゃったことだって、

それを忘れなかったら自分にならなかった。

忘れようと、忘れまいと自分が、今の自分、ってのを、一時も休まず、選び続けてきたからこそ、他ならぬ、

まさに他ならぬ、自分でしかない。

 

いいとか、悪い、でもない。伊坂幸太郎先生が小説でも書いてたよ

 

「人生については誰もがアマチュアなんだよ。そうだろ?」

「誰だって初参加なんだ。人生にプロフェッショナルがいるはずがない。」

「全員がアマチュアで、新人だ」(ラッシュライフより引用。泥棒黒澤さんのたまう)


自分のちっちゃな解釈で逐一がっかりしたり笑ったり味わい尽くしたふりなんかしないで、

死に際に「あー。こうなってましたか」って時まで、精一杯生きればいいのだよ。

 

そのどの一日も、かけがえがない、って言ってくれた秦さんのシンプル発言に1票。

 

●「地上からわずか何センチか浮いているような物語が書ければいいんです」[2009年05月28日(木)]

「このミステリーがすごい!2004年版」所蔵のインタビュー、と書いてあった「アヒルと鴨の

コインロッカー」あとがき、「地上からわずか数センチの飛翔」松浦正人さんの文章より抜粋。(ながいよ)

 

伊坂幸太郎作品を評するのになんてぴったりな言葉でしょう。

伊坂作品を語るだけではなく、現代ってものの「輪郭」を言い当てるにはこうしたゆらいだ言葉の

表現が実にぴったりくる。

 

言葉回し、エピソードのつながり、キャラクターたちの水際立った自然なかかわり合いは、

伊坂作品を好きな人たちが好んで戻る世界。

 

それは大仰に高飛びしたどこか遠くの世界ではなく、たった一瞬のジャンプ、のような高さと時間軸でしかない。

「一片」のありえなさそうなドラマを、すんなり「うん、あり、かも」って飲み込めるのは、

そのヒョイと飛んだくらいの高さが心地よいし、自分にも一瞬は可能になる高さだからだろう。

だから表題にある言葉のセンスの良さが、ひときわ素敵なのだ。

 

特異な超常現象や万能や美貌で逃げ出さないドラマを書き続けてるのに読者が逃げないでいられるのは、

「地上何センチ」に「いいじゃん」と言えた、目線の良さがある。これは、ほとんど誰にも発見されなかった

飛翔行為だったんだね。うまいです、伊坂幸太郎先生。

 

●食は細く、息は長く [2009年06月30日(火)]

長寿のおじいさんがテレビで言ってたお言葉。私自身が田舎の出身もあるせいだろうけれど、

お腹いっぱいなら喧嘩は起こらない、という話を信じる節がありまして、食べ物は「お腹いっぱい」

食べる傾向が強い。


健康のためには腹7~8分目がいいと、あちこちで話がでているのに、聞いているようで聞いていない

ものです。食べれば「お腹いっぱい」を目指してて7、8分なんてものはその加減すら自分の腹なのに

わかっていないことを最近知った。

 

要は食べ過ぎ、なのです。そしてメタボるのです。最近「お腹が減って、ぎゅるると鳴った」記憶のない方は

多いんじゃないでしょうか。

 

長寿の方が上のようにおっしゃるのです。細くてもいいみたいですよ。

 

●敵なら自分で守れるが
友の裏切りは神に防いでもらうしかない 
[2009年07月13日(月)]
(イタリアの言葉らしい)

 

けなしにかかってくる相手には身構えてもほめてくる相手にはなかなか構えきれない。

案外あっさり相手の思うつぼになる。

 

年齢を重ねてきて、ほめてくる人の真意を確かめたくなる自分が時々いやんなる。

 

「自分で心許したと決めた相手」に自分の心の裏側から傷つけられるような感触を

一度でも味わってしまうと、臆病になる。それ以後は「心許していいのか」からがスタートラインに

なるという苦痛が伴う。

 

● 孤独は山になく、街にある
 [2009年07月13日(月)]

一人一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。

(昭和初期の哲学者 三木清の『人生論ノート』の一説、と天声人語に書いてあった)

 

人、と人間。

人、はきっと一人、なんだろう。

 

人間、はきっと、複数の関係性をあらわすものなんだろう。

 

人、は他人があってこそ、孤独、が分かるってことなのかな。

 

たしかに田舎に過ごしてぼんやりしていても、あんまり孤独ってものにはならない感じがする。

一方で都会でマンションなんかで過ごしてると、無性に自分がひとりぼっちと感じることがあった。

 

人がただたくさんいる、というだけでは、関係性ははかなく、薄く頼りない。まわりにあふれる

一斉の人々は、ただ自分とは関係ないんだと分かったとたんに、「ただ、あふれているだけ」の

最中にある自分を知り、「その、あふれているらしい最中に、いる、だけの自分」である

非力さ、というか、魅力のなさ、というか、求められてはいないようだという漠然とした本当が

迫ってくる怖さは、相当なものではないだろうか。

 

あふれた周りに溶け込めば幸せか?

あふれた周りが知り合いであれば、分かり合えれば幸せか?

ともだち100人できれば幸せか?

 

なんか、こう、的がどんどん外れていくだけの生き方にはならないだろうか。

スタートラインがすでに貧相なものであるような気がしてならない

 

●「ひとりじゃどうにもならなくなったら誰かに頼れ
 [2009年08月13日(木)]

でないと 実は 誰も お前にも 頼れないんだ」

3月のライオン(3)林田先生の言葉より引用。

 

昨日も一人追い込んだ。不正をしてる輩がいるから、はっきりさせろと凄んで、なぐって、恥をかかせて、

こっちは正しいんだからとひるまずに、ちからづくで進んでいたら相手は、もう、ぼろんぼろんだった

 

口元から血のようなものが筋を引いてたし、口の中で歯のぐらつく音をさせて、その子は涙目で、

か細い声で言った。

 

「そんなことするはずないじゃないですか・・・・」

 

しないよな。お前はそんなことしないよな。

 

ごめんなさい。でも放っておいていいことなんだねーんだ。誰かが放っておかれたことで、お前たち

以上に傷ついてるのを放置してることに手を貸しっぱなしをそのまんまになんかできない。

 

正義感なんかじゃなくて、あっちこっちに散らばってる、なけなしの虫みたいにちっぽけな存在の自分が、

細い息をし続けてこられたように他の人にもそうした居場所を、ちっぽけでも作れるようにするために

うろたえ続けてきたんだから、フィニッシュまで泥まみれでブサイクでいいから、なんとかしてやろうよ

 

なんとかなればいいんだそんなもんで十分だよ。うまくなくても、きれいでなくてもいい。

なんとかなってるだけでいいよ

 

「3月のライオン」読んでて林田先生の言葉は、フツーなんだけど、刺さりました。ひとりじゃどうにも

ならなくなる。放置も許してもらえない。

 

助けてよ

助けるからさ

 

それでチャラにしてよ

チャラにするからさ

 

●「触らないで でも 離れないで」[2009年08月26日(水)]

「ねぇ ホントに出て行くの?」

「逃げるんだ    私から」

3月のライオン3巻チャプタ-30「月光」より引用。

 

世間でエヴァンゲリオンがフィーバーしたとき、その根底に「人類補完計画」という

ものが引用されていましたが、「さみしさ」を正面から扱うロボットものに、アニメファンじゃない人も

大量に流れ込めた。

 

さみしさから人は随分いろんなことをしてしまえる。

さみしさって、実はものすごエネルギーを秘めていて、それを隠し持っていようものなら

遠からず、人はなにかしでかしてしまう。静かにしまっておくのが本当に難しい

感情って意味では「怒り」や「喜び」以上に威力のあるもののような気がする。

 

主人公、零くんの義理の姉香子は居場所を失ってうつろう。美しくても、賢くても

自分がそのままで認めてもらえない寂しさの前では、猛烈な欠損感にさいなまれるし

うまれちまったさみしさに、あてがうものがわからないまま、「無謀」のようにあれこれ「試す」のも、

また、人なのだ。

 

いろいろ試すのはいいが、いろいろ失いもする。取り返しのつかない喪失を何度も何度も多彩に、深く、味わう。

失うものなんて忘れちまえばいいのにね

できたり、できなかったりすんだよ、人って。


せめて「さみしさ」から、なにか「はじめる」っていうスタートラインを私は持たないことに、随分前に決めまし た。

 

毒から始まる動機で行ったことは、たとえ運良く、うまくいっても、毒をはらむ。見るのも嫌だし、

味わうのも嫌だ。近づくのもごめんだ。吐き気すら覚える。だから知覚できないくらい、私は、遠のく。

2度とは、味あわない。


 

●  ベストの11人ではなく、11人でベストになる選手をつかう[2009年09月07日(月)]

アメリカンフットボールの伝説的指導者ニュート・ロックニーの言葉

(朝日新聞:天声人語2009年9月7日朝刊より引用)

 

「要は個人ではなくチーム一丸で動くこと。私は監督として

 ベストの11人ではなく、11人でベストになる選手をつかう」

 

このごろ個人の弱さというものを痛烈に見せつけられることが多く、いい大人が恥ずかしげもなく、

子供じみた顔で不正や不手際をする様に何度も出会う。

 

そのたびに、どうしたらこの人は心を強く持てるだろうかと思案するところで、その人本人にとっては

「ベスト」でやってきているものを、「それ以外」にさせようと、他人が思ったところで、同じ轍を

踏む生き方しかできないから、今の性格に至っていることを、やはり思い知る。

 

こうなるともう、「ベストの個人」なんてものを期待するのにはうんざりしてくるから「全体でベストに。

他の何とも交換ができないほどに」を目標にした。

 

人は弱い。強い人は、一人で強いだけで、特段意味はない。みんなで、ひとまとまりのベスト、という

考え方は受け入れやすい。

 

● 人は現実によって悩まされるのではなく、[2009年10月21日(水)]

現実をどのように見るかで悩まされるのだ。エピクテトス(ギリシャの哲学者)の言葉

 

今更当たり前なんですが、この考えが維持できないから人って不思議に堂々巡りになっちゃう。

 

どんな現実も「自分に許さない」のであれば悩むこともできないしそもそも「悩むことにしない」に

ジャンルされて、認識すらしなくなる。

 

自分が気にかけるから、注目し、集中し、執着することに心がとらわれて、巻かれて、がんじがらめに

なることを「許す」から、どこまでもを、延々と、そうしているだけなのだ。

 

現実そのものには「意味」はそもそも内包しない。起こったことに「意味」を与えることから、

自分たちで「悲しい」ことにしたり「苦しい」ことにしてしまう。それがあるからこそ「嬉しい」も

「楽しい」もあるのだが、「妄想」でもある。

つまりは感情全般の起伏ってものすら、「自分で許した量」を味わっているのだ。

 

現実そのものには意味なんてない。その「解釈」の力量が、その人にとっての「人生」。

 

● 当たり前のことやってたら、当たり前の結果しか出てこないから 
[2009年12月09日(水)]

「疾走、モンブラン」NHKハイビジョンの番組内で鏑木毅さんがトレーニングをしながら、低酸素トレーニング で

苦しいさなかに笑いながら言ってた言葉。

 

富士山でのトレーニング、でこぼこ道を疾走するトレーニング。

すべてはモンブラン山を寝ずに一周するレースに参加し、走りきるための準備。それは誰彼を相手に見据えた

訓練じゃなく、基本的に自分が自分に打ち勝つための「準備」。

 

「普通の人がえーって驚くことを普通にやらないと。競技自体が普通じゃないから。」

 

レースの最中に駄目になってくるのは足、筋肉だけではなく、「内臓」もくたびれきって、食物を

受け入れられなくなるという過酷な形での「疲労」。どんなにがんばっても鍛えられないのが内蔵だという話を

聞いたことがあるが、その疲労の蓄積と戦うこともレースの一部として受け入れたアスリートの人が

放つ言葉の重みときたら。

 

当たり前のことには当たり前の結果。文句なんか誰にも言えない。

 

●「解脱に達した」という人が後で堕落したならば、はじめからその人は解脱に達していなかったのです。
[2010年02月25日(木)]

(知恵は人生の羅針盤・アルボムッレ・スマナサーラ師:著)より抜粋

 

覚ったのに、再び煩悩が現れる、っていうことはないそうです。

覚り、とは2度と煩悩が生まれない人のものと定義されている以上「煩悩でちゃった」ってものではない、

というお話。

 

解釈をどんどん自由自在に拡大しちゃうのが人ってものの弱さだし、定義を変えてまでも「覚りである」と

言い張りたい執着が覚りでないわけで、いいじゃん、そこまで「覚り」でなくたって、

と思いたくなる。

 

いままでそうであったもの、から変化することが人ってのはつくづく下手なものです。

 

● 嫌、という気持ち [2010年04月05日(月)]

自分では「嫌」「嫌だなあ」くらいに思ってることが、他人にはそれがどうだっていうの?

程度のことがある。自分には深刻に嫌であったり、軽いタッチで嫌、であったりするにしても

なぜ「嫌」かは正味の話、分かってない。

 

この正体不明の、存在のいい加減な「嫌」っていう気持ちで自分が思ってもいない具合に生き方を

左右されている。

好き、嫌って言う程度で近寄ったり遠ざかったりストレスを抱え込めたりするのが人だ。

 

なぜ、嫌か、は考えもしない。「嫌なもんは嫌」以上に考えたくないのだ。

こんなに浅い感情的なものに、人はスイスイと生きる方向を左右されている。

 

「嫌」はあなたの生み出したものなのに。理由なんてどうでもいいけど、「嫌」で決まってしまう方向も

かなり無謀だと思う。あやしい行き先じゃないか。ずいぶんと。

 

「嫌」に気をつけろ。

「嫌」を放っておくな。よく見た方がいい。自分をだましやすいあめ玉を放り投げてくるぜ。

 

● 100円、200円を馬鹿にしたらいけんよ 
[2010年04月30日(金)]

NHKで門司の商店街の話がやっていた。「おひとりさま」になった人たちが集まって,お店を

切り盛りしてる。

お給金があるでなし、おばあさんは「お加勢してるの」と言ってる。お手伝いさせてもらってるの、

とも言い添えてる。お米屋さんなんだけど、お惣菜や漬け物を50円、100円と売ってる。

 

シャッター商店街のさなかで、楽しそうにおばあさんたちが店主でもないのに、留守番したり電話対応したり、

うれしそう。

 

豊かな生き方はお店の売り上げの加減じゃなくて、人の息がはつらつと行き交っているかなんだと思った。

 

ご老人はゆっくり歩く。横断歩道でも横切るだけが大冒険。ひとり暮らしのご年配の集まりは、笑顔で、

ゆっくりして、なにより「他の人」のスピードに合わせて話す優しさが根っこにある。

自分優先じゃなく、相手のスピードを受け入れて、添う。

 

お米屋さんのおばあさんが表題の言葉を言ってるのを聞いてはっとした。そうだよ。100円でも

200円でもお金だもん。大事なんだよ。たった100円でもなけりゃ、わずか200円でもないよ。

馬鹿にしていいはずがないと、自然に思えました。

 

● ほんときんなってみんと、わっかーへんでね
 [2010年06月14日(月)]

私が父に相談事をしてみたときに、人はやってることが自分にとっていい事だったのか、悪い事だったのかだなん て

死に際になってみないとわからないもんだよといって私のやる事に賛同してくれた。

三河弁で「そのときになってみないと、分からないからね」の意味。

 

父には得体の知れない話なのかもしれないときにも「わっかーへんけどねえ」と前置きしてでも、返事をくれる。

何は分かってて,何を心配してるかを言った上で「やってみりん」(やってごらん)と言ってくれる。

それに甘える自分もいるんだけど、せめて喜んでくれる結果を出して渡すのが、せめてものマナーだと思う。


● 何かで一番でなるのではなく,すべてで一番になる 
[2010年07月04日(日)]

 マクドナルドの商売の考え方なんだって。コンビニに負けまいと24時間営業にしたりする努力。
うん、なる ほどー

 

強い会社は訳があります。生き残れる会社も訳があります。ひとつ勝つだけでも難しいところでも、複数の勝利と

それも「抜群」の「勝ち方」を志向できるのはすごい。

 

● パエリアにしろ [2010年07月12日(月)]

ワールドカップ南アフリカ大会で準決勝にてドイツがスペインに敗れた怒りを、百発百中の予言をし続ける

オーバーハウゼン水族館のタコ「パウル」君にぶつけた発言。朝日新聞2010年7月9日の記事より

 

「フライパンで揚げてしまえ」「今晩は家でたこサラダだ」などとネット上で掲載されてる

といいます。

「パウルは試合結果に影響を与えた訳ではないのに」と水族館側は悲しいそうだ。

 

「最初はパウルの予言に歓喜し、ドイツが負けたとたんに彼に怒りをぶつけるとはやり過ぎだ。なんだかんだ

いっても、パウルはただのタコなんだから。」(水族館報道担当マイク・ラップさん談)

 

怒っていればなにを言ってもいい、とか悲しいのでどうとでもなれ、とか人は自分の身勝手な感情を

まかり通せる理由を難癖付けて押し通そうとする時がある。


「あのときはどうかしてた」とか「冷静になってみれば、悪かった」とか後悔の念をあとからなにを

思っても、カッとしたり魔のさしたことを許す自分ってものがなければ、事態はそうは進まなかった、とは

思う事にしない弱さが人にはある。

 

水族館の人の言うように、パウル君はたこなのだ。タコなのよ。私はワールドカップは見なかったけど、

パウルくんの予言は好きだったし、当たるとうれしい気持ちがした。ドイツの人の発言の気持ちは分かるけれど、

ひどいよ。こういう悪い言葉を使って他の生き物を愚弄するのは気分が悪いことです。

 

サッカーはサッカーでしょ?強けりゃ勝つでしょう。そんだけじゃん。パウル君はパウル君。水族館の人の

発言がすい、と心に入ります。

 

●「だから、いかなる場合でも、悲観したらいかんと思うな [2010年08月01日(日)] 

結局悲観したら,知恵がなくなってしまう。なすことがわからんようになる。」

(「人生と仕事について知っておいてほしいこと」松下幸之助(述)PHP総合研究所より抜粋)

 

そやねんなー

止まってしまうんよ、流れが。思考が。

自分の事やのに、どーともならん状態になって、放るしかなくなるような自暴自棄寸前のことに、

人は自分を追いやる事ができる。

 

その発端が「悲観」だと思う。

悲しくって、嫌んなって、考えがつかんようになる。どうしてそこまで、自分が機能しなくなるまで

追いやってしまう仕組みがあるのかは分からないけれど,人は自分を自分で止めてしまうことがある。

 

やっかいなのは、そうした悲観は自分で自分を止めてしまってると自覚症状を奪う事だ。自分が考えを

まとめられなくなってることすら自覚できなくなってる。いつのまにか、まんまと、駄目になってるという

感じになっちゃうのだ。これが実にいけない。

 

自分にも他人にも迷惑がかかってしまう。できれば、避けられるのであれば、悲観はすべきじゃない。

人として,自分が、自分の行動をとれなくしてしまう。自分に責の追えない行動をとったとしても、

自分がやったのならたとえ無自覚であろうとも、自分が悪い。せめてコントロール下に自分を

置いておくつもりがあるのならば、悲観することに身をゆだねてはいけない。そこのコントロールから

自覚すべきなのだ。

 

たとえ「悲しい」であっても、感情を感受するのは,気持ちのいいことなのだ。そこに負ける事を決めれるのも、

また自分だけなのだ。勝つだけがいいことじゃないけれど、負けない勝ち方、っていうのも、大事だと思う。

悲観しない生き方こそ、難しいもんです。

 

●「カマボコ食べて、ニャンマミダ仏」[2010年08月22日(日)]

「仙がい百話」より抜粋(”がい”は”涯”からさんずいへんをとったもの)

 

仙がい和尚という人の絵があんまりほんのりしてて非常に強く惹かれたわけですが、この人にまつわる本を読んで みたら

もっと魅力的で笑ってしまった。

 

上の台詞は絵を描いた後に発した言葉ってことになってるけれどこれまた素敵な感じがしてついつい。

もっとこんな人いていいんじゃないの

 

● 働け・もっと働け・あくまで働け
 [2010年08月 22日(日)]

プロイセンの鉄血宰相ビスマルクがのたまった言葉。「青年諸君に忠告したい事は、3語に尽きる」と

前置きした上で上の言葉を放つ。

 

はじめて読んだときは笑った。一言で済むじゃん。済ませないんだ、すげー、って。3語になるんだ、って。

押すなあ。押しますなあ、ビスマルク。ストレートだなあ。ドイツ魂。

 

● 少しでもはっとさせたいじゃないか [2010年10月13日(水)]

「世の中にはあんまりいいことがなくて、それが普通でだからあんまり人生に期待してはいけない、って人を

 少しでもはっとさえたいじゃないか。そう思わないか?」

 

「残念ながら」

繭美はむすっとしていた

「まったく思わねえ」

 

伊坂幸太郎「バイバイ、ブラックバード」より抜粋。

 

伊坂作品のフツーの人が、その実それほどフツーでもない暴挙に出たときには、フツーの人なのでそれほど

大仰な冒険譚にはならないんだけど、その小さな弾み車が、大きな大車輪をぐるぐる言わせるものに至る。

 

最初は「はっとさせたいじゃないか」くらいの、正直なスケールが、人を今と違うところに立たせる。

 

● 力一杯ブンまわしても壊れないおもちゃだと思ってるからな
 [2010年11月28日(日)]

「思いっきり技をかけても怪我しない。全力で殴っても同じくらいの力で殴り返してきてくれる。(中略)

お互いがお互いの事を、力いっぱいブンまわしても壊れないおもちゃだと思ってるからな」

3月のライオン 5巻 「新学期」より抜粋

 

宗谷、隅倉両名の将棋の試合を見ながら会長たちが話してる言葉。今NHKで「坂の上の雲」やってるけど、

秋山真之も確か似たような事を言ってた。「本気で喧嘩する相手がおらんのじゃ」と。

 

あらゆる事で勝ち続けるなんて事は人生にはないわけで、せめての一勝にあっぷあっぷな善良な一市民としては、

大きな事をなすだなんて大それた事を思うのも億劫なわけです。

せめて負け越す悔しさにさらされないようにと、勝負そのものに至らない逃げ道や抜け穴をうろたえながら、

震えながらヘロヘロの態でしがみつくように生きる。

 

全力で挑んで、戦うだけの胆力を備えもってもこない人たちに、それを見せるだなんてもうそれこそが挑戦状。

 

それでも、心のどこかで自分を発火させる突端になる導火線をもって、うろうろ種火を探す自分だっている。

なけなしの勇気の破片を両手でかき集めて自分まるごとぶっつけてみてもいい、失敗したってかまやしないだけの

絶対的な挑戦を、望んでることはわすれやしない。

 

忘れてないだけに、日々の無力・無気力の連続に、心は萎えてしまうんじゃないかと自問しちゃえば、
するりと弱くなっていくのも心。

 

挑む人、戦う人が強いのは心丈夫だからなんかじゃない。そこは賭けるに足る勝負と踏んで臨んでるんだ。

それを目の当たりにして、高揚を覚えない人なんて、いない。

それだけに、自分に見合う戦いをやってる人には、強い弱いに関係なく覇気に満ちる。そこがまたいい。

 

● 弱点があるから自信がないのではない。自信がないから弱点が問題になるのである [2010年12月16日(木)]

「弱点を問題にしない人は、自分の弱点を隠したりしない。自信がないから弱点を隠すのである」

「辛さに耐える心理学 加藤諦三・著」より抜粋

 

偏見があり、弱点を隠し、悪いのは他人だと責める事で自分への防衛とする。病的に執拗なところがあり、

他人を蔑む傾向があるのに、自信がないことを隠す。自分の辛さ痛さばかりを他人にまで訴えて、理解されないと

怒りだす。その上他者の痛みや苦しみに理解がない。

まさに私自身(やっと最近そう思った)。

 

引用元はそういった小生のような人物にはまさにぴったりの本だったのですがことさら207ページ目の

この言葉に目からウロコが落ちました。

 

そーですよ、弱点のせいで、って考えちゃうあたりがちっこいのです。弱点というのは、他人にとっては

本人が思い込むほどたいそうなことじゃない。本人ばかりが自作自演にうろたえ、隠し、挙動が不審になり、動機 になる。

 

弱点を隠さない人間は強い(同情をひくためのパフォーマンスじゃないですよ)。まして、その弱点を突いていく

人間は下衆というもの。相手にしないでいい。

 

● 歯磨き粉のチューブからひねり出すようなもの
[2011年02月13日(日)]

「鉛筆とかを巻いて、ぎゅうぎゅう絞り出していくと,最後にちゅ、っと出てくる感じ」みたいなことを、

ラジオ深夜便でいずみたく先生が言っていた。作曲の仕方について、です。

 

作り出すのに対し、優雅に洗練されて作ってるんじゃなく、「鉛筆の鉛と消しゴムかすにまみれて、パンツ一丁で

夜中じゅう頑張って」作ってるときに、上に挙げたような印象で作曲ができるとおっしゃっていました。
 

ラジオで聞いたので軽妙な語り口からすれば、簡単にできるよ、と言って退けることもできたでしょうが、

そこは正直にスラッと悶えておりますと称するあたりが実に魅力的。

 

音楽で食っていけない時代に役者さんをやってたそうですが、地方公演でアコーデオン演奏しながら「みんなで歌 う」

ときに、日本の曲で「みんなで歌える歌」がなかった時代があったそうです。先生はそこでみんなで歌える歌が

作りたいと思ったそうです。素敵な心持ちです。

 

三木鶏郎先生に師事して給金が月に8,000円に激減したときにも、師に「君ね、芸術家がお金の事を

とやかくいっちゃいけないよ」と言われ,それもそうかな、と化粧品会社の社長のキャデラックドライバーを

辞めちゃうくだりも聞いてて喝采しました。(当時の4~5万の給与ごと。大卒初任給12,000円くらいの時 代)

 

つかむ人は,なにかを先に放す。そして生み出す、ということは、放して、掴んだあとに、フイに気まぐれにやっ てくる。

 

野坂昭如さんと「三木鶏郎先生のような曲を、三木鶏郎先生以上に、三木鶏郎先生の1/10の価格で作りま す!」という

ふれこみで請け負うくだりも好きです。

 

ものを作る、っていうことの方たっぷりとした豊かさを感じ受けます。その根っこが「みんなが一緒に
日本の歌を 歌える」ことを見てる気持ちが、音楽に現れてるのことが、先生と、その音楽まで
素敵に思えてしまうんです。今の音楽に欠けてる感性はこれなんじゃないかしら。

 

● 裏切る ということ [2011年02月28日(月)]

「親の期待を裏切った,友としての信頼を裏切った、固い約束を裏切っ た・・・と、裏切られた側が思います。

裏切りはひどい、いけないことだ、それを自覚して欲しい、と思います。で、裏切った当人は、
裏切りどころか、 縁切りまでしたいと思っている、そのつもりでいる、という構造です。
で、どちらかというと、自立型です。」

五味太郎「そういうことなんだ。」より抜粋

 

先生の言葉は簡明で助かります。堂々巡りでらちのない飾りが取れてて、すっとします。責任感のなさも輝きま す。

 

● 賭ける ということ 
[2011年02月28日(月)]

「途中のプロセスは向こうに任せて、結果だけ得る、というのが賭博の真価ですから、
『わたし、あなたに賭けたのよ』

などという台詞を、ただ浮き浮きと、オレに惚れているんだななどと解釈してはいけません。

あなたは馬だと言われてるわけです。結果を出さねばいけないわけです。」

 

五味太郎先生著「そういうことなんだ」より抜粋

 

うま・・・馬でしたか。そうでしたか。

怒るってくる人より、褒めてくる人の方を警戒しろってなニュアンスの言葉もありますが、
実際褒められてるような錯覚が嬉しい時ってのはおおむね自分が弱ってる時だし、
そのタイミングでものを言ってくれる
人ってのもそこそこ怖かったりもします。

 

期待を口にするっていうのには、それなりにわけがあるのでしょう。

 

● 嘘をつく ということ[2011年02月28日(月)]

「人間、真実を述べる事が普通だ、と思っている頭の悪さは問題です。君は世界一美しい、わけねーだろう。

君を一生愛し続ける、保証はねーだろう。妻と別れて君と暮らす、かどーかわかるわけねーだろう。

ちょっと考える頭があれば、すぐにでもわかることです。で、そんなもんだと気楽にやっていると、
たまにとんでもない真実というのに襲われてビックリし、うろたえることがあるわけです。」

 

五味太郎先生著「そういうことなんだ。」より抜粋。

 

「ねーだろう」が輝くねえ。

ホントっぽいから大丈夫ってなもんじゃないのが世の中よね。信じたからいいことがあって欲しいっていうのは、

ある意味傲慢よね。正しいから、で推されると引くのも人よね。

 

話してる相手に,自分の方からなにが入っていってるか、っていうのは、見ていてわかります。
正しい事って、あんまりすんなり入っていってないもんねえ。相手が飲めるものしか、入らないんだよねえ。

 

● 愛する ということ [2011年02月28日(月)]

「その人が身近にいなくても、何の不足感も焦燥感もなくただ充足感に満ちているということが愛するということ だと

思います。君が好きだ,貴方が必要だ、そばにいてくれ、私を抱いて、などというやつは、こころと体の取引です から、

愛とは別のジャンルの話です。


この世界は愛に満ちていますが、この人間という生き物だけが愛には不向きなんじゃないかと、ぼくは思います」

五味太郎先生著「そういうことなんだ。」より抜粋

 

五味先生の本を引用してて思った。言葉遣いがテーラワーダのスマナサーラさんに似た言い切り、なんですね。

いや、私にはそう感じたって話ですよ。似てないよーとおっしゃられても、そうですねーとしか
返せないんですけれどもね。似てますねー。

 

最初の3行で全部ですね。

嫉妬は「立場の危機の問題」と同著で先生はおっしゃられてますように、愛したはずではじまったものは、

おおむね別の感情を生んでるように感じちゃうのが人というものですが、まぁつまりは「愛」以外の
なにかが蹂躙してきてあっというまに飲み込まれちゃってるのに、自分だけは「愛、ゆえに」と
やってるから始末が悪いというオハナシ かしら、と。

 

うん、最初の3行が、愛、です。うん。

 

●「韜光養晦(とうこうようかい)」[2011年02月28日(月)]

目立たないようにしてじっくり力を蓄えよ、という意味だそうです。最近ではト小平さんが用いて知った言葉で す。

エバって凄んでみたくなっちゃうのが人だものね。やったとたんに嫌われちゃうもんです。
それだけで済めばいいけれど
おおむね潰しにかかられちゃったりして、かえって無駄骨が増える。
上手に蓄えるのは、なかなか骨が折れます。


● 思いついちゃった [2011年02月28日(月)]

3歳になるかならないかくらいの姪が、毎晩の「お風呂上がりのアイスクリーム」を食べる前に

必ず言う台詞。毎晩、ちゃんと「思いついて」アイスを食べる事にする。

 

うむ、正しいですね。色は青色と決まってて、その場にいる親族分もちゃんと配り分けて「かんぱーい」と

言って食べる。親族は姪が一口「ぺろり」とされるまで、食べるのを待つのを忘れてはなりません。

 

食べ終わったあとには、棒の部分を回収してくれます。感謝の気持ちが生まれます。

 

● どんだけこわいか分からない 
[2011年04月05日(火)]

 

「においもない」、見えない・・・」放射能の話をテレビでおばさんが避難でくたびれ果てたところで、

上の台詞の後で続けて言ってた言葉。

 

どれだけこわがったらいいのか分からないものを怖がるしかない。それこそが怖いのに,誰もここを

安心させられない。

 

「すぐに健康に影響しない云々・・・」あとから出てくる情報はすべて悪い方ばかり。

 

どういうことになってるのか、を正確に伝えない「不正直さ」「不誠実さ」はあんまりにもひどい。

パニックにさせないための配慮かもしれないけれど、やってることは随分ひどい。情報を遮断してる。大雑把にし て

曖昧にして不安をあおってるのは誰なんですか。

 

「どんだけこわいかわからない」この危機を予想して、黙ってきてたのは誰の意思なんだ。

 おばさんを安心させることのできる人はいないのかなあ。

 

●「一匙のご飯にケチをつけたならその人のご飯を受け取らない」[2011年04月14日(木)]

スマナサーラ師のHP読んでいての引用。

 

素敵な言葉ではありませんか?些末な事に難癖付けて、自分の言い分を押し通すという事をする人って時々いるけ ど

あさましいと思います。不手際な生き方だと思います。ちょっと、一言、言わせて欲しい」のなら

ちっちゃく言い張らない方がよほどいい。どかん、と大きく構えて言うがいい。

 

●「混ぜて混ざってオカマはカフェオレ!」[2011年05月05日(木)]

映画「パコと魔法の絵本」より。

 

「オカマを馬鹿にするな!」「男がコーヒー女がミルク!」のあとに続く言葉。面白い!

 

パコの前でオオヌキが苦しい胸を押さえながら言う。「もう少しで終わるんだ。最後までちゃんと読みたいんだ」

後藤脚本秀逸。アベさんチョー素敵。

 

● 人間は一旦何かを信じると、<信じる自分は裏切れない>のですね [2011年05月15日(日)]

「だから教祖が「間違いだ」と指弾されてもけっして認めない。もしそれを認めてしまうと、信じた自分を

 裏切る事になりますから。」<問い>の問答  南直哉、玄侑宗久:対談より抜粋。

 

久々に熱中して読める本。ハラハラしながら読めます。

なにかに安穏と座り込みたがる自分の弱さ、っていうと響きがカッコイーけれど、「不安定でケッコー」的発言連 発の本で

自分が楽したがってたんだなあと思う事しきり。

 

「自分」がそう思ったんだから、そう思えたんだから「正しい」って人は思いたいもんだ。「自分」がそう思えた だけ、

でしかよりどころがない生き方をしてると、「自分のわかってない」ことにも「自分が拒否してる事」にも

ホンローされちゃっても、なす術がない。そこまでの無様さを容認してるような大器の者であるのなら、
いいんだけどねえ。そんな人は若かろうと頑固爺ぃなんだ。

 

「思い込む」ことも「言い切り」も、どこか気持ちのいいものだけれど、「そこを基点にあれこれ進める」と、

方向も、大きさも、そこに左右される。

 

「言い切らない」または「言い切れない」うーん、そうですなあ「考えきらない」「考えきれない」と

言い換えてもいいけれど、本当は自分でも得心のいってないことを、あえて「あいまい」にさせることでしか

「りんかく」ででしか捉えきれないものを、とらえようとする人は、スタミナのある人だ。

 

言葉で言い切れても、思考で収まりきれても、「自分には分かる」手合いのものでしかなく、そんなんじゃ、

「新しいもの」にはならない。

 

● 自己とは「課せられたもの」であり、われわれが望んだものじゃありません 
[2011年05月15日(日)]

「自己というのはどこからか課せられ、我々が否応なしに押し付けられたものです。そうするとなにが

押し付けられたのか・・・それは決して分からない。この矛盾を抱え込んでいる以上、

<異界>的存在が内部にあるのは当たり前です」


「それを失ってしまうと、もはや自己ではあり得ない」


「自己が自己であるという事は、「自己ではない」ということを

抱え込んでいるから触発されるのであって、その触発がなくなってしまったら

自己は自己である事をやめてしまうのでしょうね。ですから自己を支えているのは

自己ではないのです。」

 

<問い>の問答 南直哉、玄侑宗久:対談集より抜粋

 

およそヨーロッパ的な発想からはたどりつかないひとつの結論。「自分、ったって、自分じゃないものも有り」と

いう部分の話じゃなくパーソナリティーとか個性とかいう「言葉」に執着した発想でキュウキュウと

過ごしなさんな、的おおらかさで、上の言葉はとらえたらいいんでしょう。

 

「自分、自分」自意識過剰で言葉過剰でやったって、病気にしかならない。そーゆーんじゃないよ、ってところに

気持ちをフラリと押しやり、「分かんない?それもアリ!」と堂々とする方が、ケンコーですな。

 

いやいや実際お坊様方の言葉は、もっと含蓄深いものなんでしょうが、なんかこう、おもーいもんが背中から

ストーンと抜けましたよ。

 

自分の中のものなのに、自分自身で割り切れないものがあることを「当たり前じゃん」と言い切る禅宗の

素っ気なさと不親切な感じが実にここちよいのでした。「それがどうしたの?」って。

<異界>的なるものを、気にしなくたって、にじんで生きるのさ、人は。

 


●「ほとんどの人は『損したくない』って思って生きてますよね? [2011年05月29日(日)]

だけど、そういう生き方をしてると、自分でも気づかないうちにずるくなったり、意地悪になったりしやすいと思 うの」

「駄目なときほど運はたまる」萩本欽一:著 より抜粋

 

私がしびれたのは「気づかないうちにずるくなったり・・」って言葉のあたりなんです。ずるくなる、というの は、

ずるくなるつもりでずるくなってることって、ほとんどないんですよね。ずるくなってる人って、頭を使ってた ら、

ずるくなってた、って方が言い当ててる感じじゃないかしら、と。

 

んで、ずるさっていうのは、ずるいまま隠せればいいんだけれど、これが必ず顔に出てくる。隠したつもりでも

出てないはずでも、ずるくなってる。

 

欽ちゃんが書いてる事の中では「ずるいと結局損しちゃうよ」ってところまで分かればいいと思うんです。

欽ちゃんの事だから、「ずるいのは良くないよね」ではなく、

「ずるいっていうのもあると思うの。ずるい人もいると思うの。でも結局、損しちゃうんだよねえ」という次元の

ような気がしてならないんです。

 

ずるさの否定、じゃなくって、ずるくてもいいけど、損よ、ってこと。そして欽ちゃんは、なんとなく、

損なことならしないほうがいいんじゃない?って言ってくれるような気がします。

それでもゴリ押せば、欽ちゃんはきっと止めないで、「ずるさ」をさせてくれると思う。

んで、その人は、損をしちゃうのでしょう。きっとね。

 

●「まだうしろに40人いるわね」
[2011年05月29日(日)]

高校時代の後半に、欽ちゃんが成績で250人中、210番に位置した時に、お母さんが欽ちゃんに言ってくれた 言葉。

「駄目なときほど運はたまる」萩本欽一:著 より抜粋

 

欽ちゃんのこういう話はしみる。欽ちゃんが苦労してた時期に「こう言ってくれればいいのに」とか

「こうフォローしてくれたらがんばっちゃうのに」っていろいろ想像しながら頑張ってる話が出てくるのね。

心塞いでしまうほどの現実を前に、すねたり、ひがんだりしてないの。真正面からつらいまま、つらいままなの。

そして周りの人のうちで、そういう欽ちゃんを見ていてくれる人がいるの。

まるで思いつきのように、欽ちゃんに助けの手を差し伸べてるの。欽ちゃんはそれに深く感謝してるの。

 

人の中で生きてるんだよね、人。生きてるからつらいの。剛胆な人や、屈強な人、ルックスに冴えのある人に対し て

「うらやましい」だなんて思わなくてもいいの、と欽ちゃんの本は書いてくれてる気がします。


欽ちゃんのお母さんが「まだうしろに40人いるわね」って言える視野の広さって、みんな好きになっちゃうと思 わない?

子供って、みんな、そう言って欲しいって思わない?

 

●「他人の間違いに目を向けるな [2011年06月11日(土)]

他人がしたこと、しなかった事に目を向けるなただ、自分がやった事、やらなかった事だけを見つめよ」

ダンマパダ(法句経)の言葉より抜粋 別冊「一個人」日本の仏教、より引用

 

人のやる事は目につくのに、自分のやる事には目をつむる。見なかった事にしたって、なくなるわけじゃ

ないのにね。誰かが見てても、見てなくても、自分には分かってる。

 

この言葉の中で、やった事、だけじゃなくってやらなかった事、も見つめよ、ってあるのが特に肝心。

 

やった事と同じくらい、やらなかった事も「意思」の力だ。知らんぷりを決め込めば、知らんぷりをした、

という回数を自分に増やすだけなのだ。それでつく自身なんてあるわけないもんね。

 

他人の間違い、は他人様その人に、ちゃんと戻るから、シノゴノいわんでもヨロシイ。放ってオキナハレ。

その暇は、自分にあてがえ、ってね。

 

●「なんでガリバートンネルなんだよ、もっといいのがあるじゃないか!」
[2011年06月21日(火)]

伊坂幸太郎「3652」より「リョコウバトのこと。」より抜粋

 

伊坂先生の作品もご当人にも感じる事なんですけど(会った訳でもないのになんて馴れ馴れしい文章でしょう)

怒りだしたり、ツッコミをいれるときに、不意打ちが多くて「ええ?そのタイミングでそこにツッコムの?」

「えええ、そんなところをツッコムの?!」とミョーなズレを感じ受けて笑っちゃいます。

 

ドラえもんのテレビ放映開始時に、その1話目で扱った道具がガリバートンネルであった時に、
師が憤りを覚えた、という文章に象徴的なものを感じたのです。

 

いいじゃんいいじゃん、ガリバートンネル。駄目ですかガリバートンネル。

さすがのドラえもんでは第一話にはもっとさっそうとしたアイテムがお似合いという事ですか?伊坂先生!

もっとやれる、ドラえもんという作品はもっと高く、大きく第一歩を、とゆーことですか?先生!先生!!
・・などと一見些末な突っ込みどころのテンションが楽しくなってきて、ついつい歩調を合わせたく
なってしまうのですなあ。

 

合わせてどうの、ってこともないんですけれど。愉快じゃないですか。着眼点が。
「そんなー」って言うしかないツッコミどころこそが満載だなんて。

 

「そんなー」

 

● 私も決して多くのものを持って生まれてきたわけじゃないの 
[2011年06月26日(日)]

今の自分にいたるまでに多くの努力もしてきたし、とにかく闘ってこなければならなかったわ。今日の

パフォーマンスを見た人たちが、日本の夢、若者の夢、未来へ向けた夢というものを持つことを決して

あきらめないでくれたらと願うわ

 

米人気歌手のレディー・ガガさんが25日、幕張メッセ(千葉市美浜区)で開かれた
東日本大震災の被災地支援イベント「MTV VIDEO MUSIC AID JAPAN(VMAJ)」で、おっしゃった言葉。


この言葉でレディー・ガガが好きになりました。励ましの言葉もいいけれど、その底に流れるものは

私もたいへんでしたよ、という仲間意識の優しさがある。一緒ですよ、一緒なんですよっていう立ち位置の

「同じさ」がある。それが嬉しいし、それが威力を、魅力を放つ。人として、信じられる思いやりがむくむくと

におい立ってる。

 

「みんなで結束を持って前を向けば、どんな苦境も乗り越えられるだろうという思いでパフォーマンスしたわ」

素敵なアーティストがいらっしゃるんですね、アメリカ。ありがとうレディー・ガガ。素敵ですよ、

とっても、とっても、とっても。

 

● 訊かれてもオレが答えないなら [2011年07月28日(木)]

なにか理由があるからだよな?・・・・・・そんくらい解れ

3月のライオン6巻 Chapter61「冒険者たち」より島田さんの言葉 


例えあらゆる全部のことを、上手に話せる人がいたとしても聞ききった側の人の心に、釈然としなかったり、

飲み込めないものが生まれるのだとしたら、語る側の人は、この際全部は話さない、方がニュアンスを

丁寧に相手に伝えられる事がある。

 

いっそ、全然話さない方が、「わきまえる」心持ちから「察しておく」でスイと横に、心をいったん

置いておく事ができるかもしれない。

 

本当すぎる事が、誰かを激しく傷つけると分かってる時に全部を話すのは、勇気のいることなんだ。

黙っていてあげることも、相当に覚悟がいることだと、この言葉で解る。

 

●この言葉は死者を語っていない [2011年08月26日(金)]

「ブッダが『無記』というものを持ち出したのは、そこに対する強烈な意思があったからだろうと思います。

 我々が使う言葉で『不在である死者のリアリティが語れる』ということになってしまうと、それは大きな

 ごまかしであるし(後略)」
<問い>の問答 南直哉・玄侑宗久:著より、南さんの言葉を引用

 

とにかくハラハラする本でして、着眼点が自分の悶々といてたところにピタリと当ててこられるのです。

 

テレビやラジオがお亡くなりになった人を語っても、懐かしんでも死者当人のなにがしかは
含んだものではない。 
どこまでも「周りの見解」でしかない。でも、放送事故を起こす訳にはいかないため、
喋り続ける。

コメントをつけ続ける。それっぽいけど、全部装飾。装飾過多。それは五月蝿い(うるさい)ということ。

 

何かを埋めるために、ただ盛り込む風景に、今の時代は慣れつつある。ただ、だんまりで済ませるのが、

最適で、力強くなることもある。

 

●「無記」という言葉がある 
[2011年09月05日(月)]

これは否定も肯定もしないで放置するという意味で史上の人物としてお釈迦様、ゴータマ・ブッダは、

ある種の質問には「無記」で通したという。
(中略)

なぜ生まれてきたのか、なぜ死ぬのか。どこから来て死んだらどこに行くのか。そのすべてに答えが出ない。

つまり我々の存在にさしたる根拠も意味も見いだせない。この堪え難い状況を、堪え難い故に、「絶対神」や

「霊魂」や「理念」で埋め合わせるよりも、この状況をあくまで直視して、なおかつ充実した生を求めていくのが

仏教だと、ぼくは思う。この姿勢はある意味で最もシビアだろう。

「問い」から始まる仏教 南直哉:著 第一章「自己への問い」より抜粋。

 

言葉でそこそこ伝えられると思いたいのが人だ。伝えられるはずだと思って言葉をつむぐ。

そこであらゆることを「語る」ことで把握しようとする。

 

自分が「リアル」に感じられるものが、自分にとっていいもの、であったとしても、他者にその共感が

得られないときは、みんなにとっての「リアル」には至らない。

 

信じることでしか、存在を認められないものは、作り話以上の力に至らない。それは「ある」とも

「ない」ともならない。表題に言う「無記」というのは、姿勢としては正しい。

 

信じた人には「あり」、信じない人には「ない」のであれば、なにを「リアル」に感じられるかという、

それぞれの人の「お好きにどうぞ」以上に踏み込む必要がない。

 

南さんのおっしゃる「堪(た)え難(がた)い」ものに、私たちはかなりあっさり負ける。

自分が堪え難いもの、我慢のできないものには、誰も見てないところで、自分は、あっさり負ける。

 

それを「埋め合わせないで」生きる事に、私たちは慣れていない。なにがしかの「埋め合わせ」に走る。

走ってしまう。

自分の意志でやってるつもりが、そのいくつかは「埋め合わせ」であることのなんと多い事か。

それを自分の意志であると思ってる事がなんと多い事か。

 

自分でやったんだから、自分の意志だと思ってる。それより先に、「自分がそれに堪え難かったのだ」と

認める事ができなかったことに、「気づきたくもなかった」人も、多い。

 

埋め合わせないで、「直視」して過ごすことは、かなり自覚的な工夫や精神力が要る。

要るからこそ、「埋め合わせた」ことにしたくない人が多数だ。

 

なにが自分にとって「リアル」か。それに引き回されてることは、平気なの?

 

● まさかその中にはダイヤモンドも何も入ってやしないやね 
[2011年09月12日(月)]

「なんでもいいからバラバラに分解しちゃってね。一つひとつ眺めてみると、まさかその中には

ダイヤモンドも何も入ってやしないやね。真鍮とアルミと鉄とペルシャゴムなんかでもって

合成されてるもの。一つにまとまると、ものすごい高い金で売れるんですよ。それで、そいつがしゃくでね」

後年、吉田はライカを分解し、国産高級35mmカメラを作ろうとした動機をこう述べている。

歴史館 キヤノンカメラ史より引用。

 

キヤノンで吉田五郎さんがカメラ作りに走った理由のいかすところは「しゃくでね」ってところだ。

値段からすれば、宝石でも入っていて良さそうな価格をふっかけられていた時代があったのだ。

「しゃく」に触った人がいて、よかった。

 

● ”ハウス”はあるのだけれど、ホームがないのです 
[2011年09月20日(火)]

「ハウスがあって、父親がいて、母親もいるけれど、ホームがない」

『出家の覚悟』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉:共著より抜粋。

 

「親も子供に対して真剣ですよ。ハウスがあるのに、ホームがないのですから」スマナサーラ師の台詞。

 

自分が安心して心をすとんと座らせられる場所が、生きてる人間には大事。疑いなく、人と居られるってことが

根幹にない人は、その欠損感を埋めるためだけに、あらかじめそれを持ってる人に比べ、散々な工夫と

投資と努力を重ねるところに、スタートラインを定める事になる。

 

そして、「ホーム」というのは、「当たり前」のものではないのだ。誰か、他の人が生み出し、他の人と

生み出し、維持してくれてこそ、「ある」ことができる。

 

欲するだけでは失い、知らんぷりを通せるほど無視もできない。自分と、自分以外の人との「間」に
たゆたうもの。

 

この貴重な、偶然のような「ホーム」が「あるべき」と考えて執着しすぎるのも、難しい結果に

つながったりもする。

 

漠然と、圧倒的に多くの人が「それが普通の家族だもの」と思っているものは、必ずしも
「当たり前」ではない だ。

 

● これを本気で言うなら「共死」も覚悟しなければならない [2011年10月24日(月)]

「『共生』という言葉がはやりだが、」に続く言葉。
語る禅僧・南直哉著 第二章七項「なすべき」の自由、よ 抜粋

 

「土壇場の仏教は、共に死ぬか、さもなくば他を助けて自分が死ぬ教えである」と南師はおっしゃる。

 

このごろの社会は言葉の明るい面を上手に切り取って使う。影の部分を切り落としたり、削いだりしてるので、

言葉の力としては薄っぺらく、威力を持たないことがままある。

 

「一緒に死んであげられる」、そういう生き方が覚悟無しにできようはずもなく、いいこと、いいことばっかりを

重ね乗せていく不完全さをもっと早く「うまくいくはずありません」と断じてあげるべきだ。そのほうが優しい。

 

お菓子の盛り付けみたいな言葉の装飾、軽さは、不用意に発した失言よりも、暴露されにくい分、重罪だ。

 

● 困難さは許す手前にあるのです
 [2011年12月06日(火)]

「相手を許しがたいのは、自分が可哀想だからです。自分に申し訳ないからです。」

「誰かを許す前に、許す自分を受け入れないといけない。だからこそ許すというのは難しいし、ものすごく手間が

 かかります。」

南直哉:著「なぜこんなに生きにくいのか」第6章「人間関係はなぜ悩ましいのか」

 

他人に厳しく当たれる人は、往々にして強く、賢い。意思の力のように本人は思っているけれど、他者、

それも弱者からすると、傲慢にしか見えないし、正しい事をただ正しいからと力づくを行使してることを

恥じない。「だって正しいんだから」と。

 

弱者は、じゃあ、ただ打たれておれ、ってことを、行動で見せているようなものだから、おっつけ人徳は生まれな い。

 

これはまるまる「その人はそれを自分に許せない」というものさしも見せてくる。それを許しちゃうと、

その人が自分で必死になって守ってたものが、瓦解しちゃうと予感して、それはもう必死なのだ。

 

だから本気で挑んでくるし、本気で擁護するし・・・・つまり、人間としては、余裕がなさ過ぎる人になる。

 

「無理を通せば、道理が引っ込む」。道理は引っ込んでもくれるが、無理を通した人は幸せにはならない。

 

表題の言葉がしみるのは、おおむね「自分は許さない」と息巻いて、本人は凛としてるつもりでいて、

その実自分が正視できていないものに、「気づけてない」という滑稽が「普通」であるからだ。

 

わかんないんだよね、分かってないんだよね。弱い、ってことが、どんなに切なく、本人にとっても

脱しきれないものでものであるのかを。その実、自分自身がその弱さにとっくに負けている事を。

 

●「軍事力で領地を広げることは簡単だ 
[2012年01月27日(金)]

しかし文明は・・・文明はそうはいかぬ・・・・」
アニメ 「テルマエ・ロマエ」より。主人公ルシウスが
日本の浴槽に感動を覚えて放つ言葉。

SFです!お風呂を巡るSFです!です!くらえ日本のガラパゴス、です。ニッチです。いいんです。

「快楽追求の熟練度は・・・ローマ人の比ではない」さもありなん!なん!なーん!

 

● 先を見通して、点を繋ぐことは出来ない [2012年01月30日(月)]

振り返って繋ぐことしか出来ない。だから将来、何らかの形で点が繋がると信じなければならない。

信じなければならない。(2度言ってる)

直感、運命、人生、カルマ、何でもいいんだ。その点がどこかに繋がっていると信じること。

この手法が私を裏切ったことは一度もなく、私の人生に大きな違いをもたらした。

以上、スティーブ・ジョブズが50歳の時にスタンフォード大学卒業式でのスピーチ、より。

 

多くの輝きのある人が、言葉を変えこそすれ、人生には無駄なんかない、なんだって、誰だって必ず

意味があるって励ましのように言うことがある。

 

きれいごと、なのだとしたら、なんたる一斉の偶然。きっときれいごとじゃないんだと思う。

 

日々の生活の中で、報われず、恵まれず、ひたすら自分一人が惨めな気分にさいなまれちゃうことがある。

あがいても、がんばっても、空振りのように手応えがなくて無視されて、言葉をかける相手も、
かけてくれる相手 もいないようなやりきれなさに、心がプチンとつぶされちゃうような時が人にはある。

 

そんなときでも、人の言葉が聞き取れればまだいい方だ。たいてい、慰めの言葉はよして欲しいと、
こころはすねて、いじけて、耳からなにも入ってこなくなる。

 

だからこそ、ジョブズのこの言葉を、あらかじめ知っているかいないかで、違いがでてくる。

この言葉は成功者の自慢話ではない。これからの人生を生き始める世代のみんなが、同じように

暗い森で、ランプもなしに放置されるかのような心持ちになることを予見して、ギフトされている。

 

今、目の前のことは、必ず自分の将来にリンクしてくる。いいことだって、嫌なことだって、
ちゃんと役に立つからと予見している。励ましてるんじゃない。そんなふうに傲慢になってちゃ、
せっかくの言葉が駄目になっちゃう。
すねるな、しょげるな。

 

今、という「点」が絶対に役立ち、そうした点の連続の彼方に、それはきっと「死ぬ前」までに、
私たち自身に 巡ってくる。いいものとして。断固として、いいものとして。

 

今が苦しくても、嫌でも、つらくても、今の「点」をみくびらずに、目を伏せずに、肚に落としておくんだ。

そればかりは「信じる」ってことでしか、そのときをしのげないとジョブズが言ってる。

「一度も裏切らなかった」ってジョブズは言ってるよ。

 

もう彼は亡くなってしまったけれど、それって「死ぬまで裏切らないでくれたこと」なんじゃないの?

それって、やってみて、いいんじゃないのかな。

 

●「大丈夫?」しか、言ってくれない [2012年02月24日(金)]

懐妊された女の子と話してて、旦那さんのことを話した時に、この台詞があった。

 

実際男ってのはこれ以上に言葉が出しようがない。ここで言葉の出せる人は、一度でも子供を育てた

ことをしてる人だけだろう。

 

ましてや一人めの子を宿した女性には、いろんな不安が一斉によぎる。核家族であったときにはいっそう


言葉が大事になるが、話せる相手に年配者がいて欲しくなる。「くぐり抜けて来た」人こそのもつ、ドッシリ感が

頼もしく感じられてくるのだ。

 

「もう自分一人だけのことだけにかまけてて生きてるだけじゃ済まない」という事実が自分以外の命も背負って、

どうしよう、どうしようと後戻りだの、リセットだのと、ゲーム機みたいなリターンマッチなしの「凄み」

ひとつで突き抜けていくことになる。

 

安心させる言葉、の決定打なんてものはないんだけれど、男は「大丈夫?」以外の言葉も、かけてあげられる懐は

あったほうが、いいみたい。

 

● 俺たちは、勝ち組だ!!!
[2012年02月24日(金)]

バレンタインデーに働いてたら、アルバイトの子が「今日、シフト見たら、(シフトインしてるのが)私だけ

なんですよぉぉ」と悲しげに言ったんです。

 

最初、意味がわかんなかったんだけど、どうやら他のアルバイトの子はバレンタインデーでモテモテイチャイチャ で

忙しくて、働いてなんかいられるかーーってくらい、忙しいんですよね、ってその子は思いたがってたみたいだけ ど、

 

そんなわけがあるはずもなく、

 

一緒にいた男の子が上の台詞を言ったのです。「俺たちは負け犬なんかじゃない!

こんな日に楽しめるなんて連中は大したことはない。ここで胸はって働いていられる自分たちこそ勝者だよ」

 

笑っちゃいました。

 

そして下手な慰めの言葉なんかよりも愉快な気分になれるんだなって思いました。こういう突破はいいなぁ。

 

「幸せでいなくちゃいけない日」みたいなとらえかたはしない方が健康でいられます。

 

あとで聞いたんですけど、その男の子はクリスマスにも同じ台詞を叫んでいたそうです。

「俺たちは勝ち組だ!!!!」うん。うん。

 

● 一升枡に二升ははいらない [2012年03月18日(日)]

「くじけてなるものか」工藤久美子著より抜粋。笹川良一さんの言葉だそうです。

身の程を知らずに欲張ってみたり、振る舞いを派手にしてもおさまりが悪くなり、無駄を生むばかりの結果につな がると。

 

自分自身で使い切れるかどうかの見極めもつかないことに手を出していると、立ち位置も分からず、やってること の

意味も分からずじまい。資源も時間もおじゃんだ。

 

「持ってるだけ」というのも無駄。使って動かして意味をなすことに集中すべき。

 

「1升の枡(ます)には、2升入る訳ないじゃん」冷静になっていれば分かる。馬鹿なときには2升でも入る

心持ちになるくらい、馬鹿になるのだ。

 

●「世界は結果だけで回ってるんじゃないんだよ」
[2012年04月06日(金)]

3月のライオン(7巻)より抜粋。

 

主人公桐山君は、自分がみせた思いやりを、相手が理解してくれていることを分かってなかった。

担任の先生が、桐山君のしてあげたことがなんだったかを少し砕いて説明してくれてる。

 

「結果は大事だけどな・・・・桐山。人に伝わるのは結果だけじゃない」この台詞のあとに、表題の言葉が続く。

 

本当にそうだ。結果は分かりやすく、誰もが参与しやすいものだから、ついつい望んでしまうんだけど、

「結果の出るまで」を一緒に進んでいたり、原因を作ってくれたものに対する感謝の念、とか、表立ってこなかっ た

「いきさつ」ですら結果ってものには、言外の「含み」がうんとたくさんある。

 

結果以外のものを、人は知ってるものだから、そこを見てるから「結果以外」を理由にして、なにかして

あげたくなっちゃうのもまた、人ってもんなんだ。その豊かさが、この言葉には含まれてるから、嬉しくなる。

 

●「春の夜や いやです だめです いけません 2012年05月23日(水)]

・・・よくわかんないよ、よくわかんないけど艶っぽい俳句だねえ」『気楽に生きる知恵」永六輔:著 より引用

 

うん、そうですね。笑っちゃいましたよこれ読んで。季語も無理矢理っぽいけど入ってるし、俳句だよねえ。

 

● 明日に追いついていなければならない [2012年07月14日(土)]

シモン・ペレスさんがおっしゃっていたことらしい。

「ベングリオン(イスラエル初代首相)は、未来は科学にあると考えていました。いつも軍隊では

今日という日に乗り遅れないだけでは十分ではない、明日に追いついていなければならない、と

いうのが口癖でした」("START-UP NATION"ダン・セノール/シャウル・シンゲル著より)

 

この本から、イスラエルという国、ユダヤというの趣向がとてもよく出ていました。幸せで、安定した

ところからは生まれない発想の泉が上の言葉からも予感できるのです。

 

「明日に追いついていこう」という生ぬるいシュプレヒコールではなく、「いなければならない」という

言い回しに、ベングリオンという人の言葉遣いのセンスの深さと、全くひるまずに凛として立つ姿勢が

現れている。

 

「追いついていなければ」、国ごと抹殺にかかってくる軍団に囲まれていた世代の人たちだ。本当に殺しに、

滅ぼしにかかってくる人たちのさなかに生きるしかない決意をした人たちだ。

選択の余地がないさなかで、ひるまないで、かつ勝ち続けるほかに、「生きていけない」場所に建国を

した人たちの図太くも、繊細な邁進。

 

「今日」という日を乗り遅れても生きていける人たちには備わらない「覚悟」が生む言葉。言葉以上に

「実際、そう生きる」実践を伴う馬力に惚れ直す。矛盾も2枚舌も辞さぬ、清濁あわせもって

悪びれない生き様がすごい。

 

●「なぜエコノミストの誰1人、信用危機を予測できなかったのですか?」[2012年10月15日(月)]

経済危機に陥ったことを、回避できず、責任もとれず、それでもエリートも 専門家もいる。

いざ、というときには役立って欲しい存在たちに、エリザベス女王がおっしゃった一言。

 

このお返事が「全体を見ているものがいなかった」なるものなんだそうだけれど、
「そうですか」とはいいにくい。

 

なぜなんでしょうね。わかんないですよね。

 

「言ってた人はいた」という見解もあるんですけど、結果をみると、やっぱり役に立ちきれていない。

 

「その場の雰囲気」が大きな大きなミステイクにつながったとき、誰もごめんなさいはナシに、ただ大きく

「失敗」なだけを甘受するしないんだろうか。「その他大勢」の生き方しかないのかしら。

 

● うまいものは、そっと食え、じゃ 
[2012年10月26日(金)]

禅のお坊さんの言葉。

あれこれ言っちゃうからやれ有言実行だの不言実行だのややこしくなる。黙ってせい、と。

うまくいっても妬まれ、嫉まれ、うまくいかなくてもののしられ、疎ましがられ、どうあってもやいのやいのと

外野はうるさいものだから、かかわり合って手間取ってないで黙々と、やるべきことに専心なさい、の意ですね。

 

それにちょっとしたユーモア感覚での表現が「うまいものは、そっと食え、じゃ」だものね。

実際、これが一番具合よく進むんですよね、人生では。

 

● 禍福は糾える縄の如し 
[2013年01月18日(金)]

かふくはあざなえるなわのごとし。
いい事と悪い事が互い違いにやってくる、表裏一体なもので
あるという格言、なのかな。

 

年を重ねると、悲観しきることをしなくなる。悲しすぎちゃって嫌過ぎちゃっても、「それはそういうもの」と

どこか達観する。40歳越えたあたりから顕著にそうなる。

 

身に降り掛かってる事は、若いときとそう大差なくても、心の方がそれに応じる「知恵」の光をもつ。

上にいうように、若い頃と同じくらいはつらいことが起こってるのに、どこか「つばぜりあい」ではなく、

「しのぐ」ことでヒョイと横にそらし上手になる。

 

そんなとき、表題の言葉を思う。いいことも、悪い事も、起こるんだよね。起こる事。

起こってる事は、起こってる事でしかなく、それが「いいこと」にする人と、「悪い事」に
分類する人がいるだけで、起こっていることそのものは、「起こってる」だけで、意味合いを自らはもたない。

 
価値のために起こってるんじゃなく、起こった事に価値を「あってほしがる」人の方の都合や心理が

「こんなことがあったからさぁ・・・」などとしたがるだけ。

 

年を重ねると「レッテルを貼りたがって生き凌いできた自分」の自作自演の劇場にテレも
出てくるものだから、
 それを放棄しだす。とたんに生きやすくなるのは、余力が生まれるからなのだ。

 

縄は縄。よっていようが、複数本束なっていようが、「いい糸」「悪い糸」じゃないものね。

それに一喜一憂してられるうちは生き凌ぐのも苦労する。味わうしかない、のが生きることなのな。

 

● 今日できることは明日もできますよ [2013年02月10日(日)]

「リラックマ生活」コンドウアキ著より引用

今日済ませば、明日は次の事ができる。頭でそう考えると、目先の事もどこかせっかちに
済まそうとしてしまいますね。

 

で、今日済ましてしまったばかりに、明日は別の事に執心するのでした。
今日せっかちに済ましたように、明日もせっかちに済ますでしょう。

 

済ました事自体は、じゃんじゃんこなせていいことかもしれません。でも「せっかち」である毎日にしてる、

ってことが、犠牲になっているって、勘定してないってところってないのかなあ。

 

お金をたーんまり稼ぐ人、経営者に、稼がないでどうする!みたいに意気込み、他者にもそれをぎゅうぎゅう

してくる人がいますけどね。見合わないなにかも売っちゃいませんかーってことです。

 

今日できることを、明日もできますんで、と切り出せばほうら、ほっとする人がまわりにいませんか。

なんか素敵なふるまいじゃないですか、それって。

 

「がんばらなくてもごほうびがほしいですよね」ってのもこの本に書いてありました。
ああっ、そうなんですよ。

私もそう思います。さすがリラックマ様。

 

●「だから美しいと思ったものしか・・・そばにおきたくないんだ」[2013年02月13日(水)]

ギャラリーフェイク10巻 ART.6ロンドン編最終話「プレシャスレディー」より。フジタの台詞。

 

表題の台詞をサラにいう前にフジタは

「オレを・・・ひとりにするな・・・・頼む・・・・」ここまではいつものキザなフジタでいるが、

このあとにサラが難癖つけて、照れ隠し半分にはぐらかそうという台詞に、2度、フジタがちがう、と首を振る。

 

そのときの不細工で、照れてて、ちょっと恥ずかしげで、眉間にシワを寄せてるフジタの顔が大好きだ!

 

告白の瞬間そのものじゃなく、そこににじむ人間味のじんわり感が大好きだ。

見栄えのいいとこを人は見てる風でいて、その実決定打のようなものは「人柄」になるじゃない。

装飾も、持ち物も、関係性も、全部チャラにできる瞬間に出くわせた人は、いいものに出会ったってことだよね?

 

それって素敵だよね。それって、素敵だよねえ!!

 

細野先生の漫画は時々そんな「瞬間」に出くわせさせてくれるから、も、大好き。

 

表題の台詞もかっこいいけどね、そこにたどり着くまでの2度の首を振る顔が、

も、なんか、ね、もう、なんか、とっても。

 

人の魅力は不細工さのなかできらんと光る瞬間。そこに目を向けててくれたセンスの綺麗さに。
も・なんか・ね!


● スクーターで70km/hで走ろうとするな 
[2013年02月17日(日)]

「コサキンでラ”ジオ”」にて、小堺さん、関根さんが萩本欽ちゃんからいただいた金言をふりかえりながら

言われた言葉より引用。

 

他にも「たとえ今100万円持っていても、5万円分だけで発揮する」とか「常に全力」をいさめる「例え」話を

萩本欽一師匠から言われ、お二方は「はぁ?」「ポカーン」と思ったそうです。

 

手抜け、ではないにせよ、パッと言われても、その勘所、要点が何処にあるか、なんなのかが言われた当人たちに は

わからなかった、と。

 

後年、「一生懸命やってる」新人さんを舞台等で見て、その一生懸命ぶりばかりが浮き立ち、
作品世界に没頭でき なくさせた上、見終わってから「疲れた」って感じた、という話が補足される。

 

関根さんは「ゴルフのスイング」で例えてましたが、力まず振りきるスイングをしたときには、球筋がいい角度 で、

長距離の数値を出すんだそうです。

そこで本腰になって、力一杯で打ち放ったところ、角度も悪く、距離も出ない結果になったそうです。ご自身では

「力一杯」の方がいい結果でてるだろうと値踏んだだけに、結局は自分で力を込めて、精一杯では、結果は良くは

なかったって話でした。

 

なんか意味深じゃありませんか。「自分が精一杯」に酔う手合いでは、他人に役立つことは成し遂げられず、

足りなかったり、不要なバイアスがかかってる分だけ、それるっていうことですよね。

 

力みなく、洋々としたおおらかさで、余力のようにみえそうなもので披露するということが大事です、
ってことでしょう。

 

スクーターには、スクーターにそぐうスピードで見合う事に使えばいいのであって、チューンとか、
暴走というのは
「身にそぐわない」という、長続きせず、その場限りのやり逃げにしか足りませんよね、
ってことなのでしょうか。

 

「自分なりに」よりも、幅のある視線が、ふっくらあった方が素敵ですもんね。

 

●ノーペイン・ノーゲイン [2013年07月15日(月)]

「犠牲なくして成果なし」

うまい儲け話を期待したり、夢見たりしてもいいけれどその人の周りには人が生きて過ごしているから、
そうそう素敵な話があっては、ねたみやそねみが生まれがちだし、その人に相応なものが戻ってくる
ことを人々は期待しているの ですからうまくいく人っていうのはやっぱり「相応」と周りの人が
認めるものを持つのが一番だと思うのです。

 

ですから犠牲であるうちは、自分が痛みも味わうし、成果の前には延々と続くのではないだろうかを
イブカしんでしまうような自分側の「持ち出し」ばかりが続く期間があります。
不安になって来ちゃうんですよね、出してばか りだと。

でもそれを惜しむようなら、そんだけのものが返ります。

 

惜しむな、とかいってるんじゃなくて、「結果」に期待してる時点で「結果以下」に自らさらしてるということに

注意をおくべきでしょう。

 

必ず成果があるものではないけれど、犠牲を払わないで頂く成果なんてのはやっぱり身に付かないんですよ。
愉しみも薄いしね!

 

● 私心を去って自分をむなしくしておかなければ人は集まらない 
[2014年01月05日(日)]

人が集まる事によって知恵と力が持ち寄られてくる。
司馬遼太郎:著 歴史の中の邂逅2「龍馬の死」より抜粋

 

他人に迎合しきってしまうのとは違うし、自力のみを頼みとしても成せる事はとても限定的になります。

 

それでも人が自分に投げかけてくれるものは、その人に相応なものであるだろうし、成そうと
成さざるとも、その人の度量が素直に出る。

 

主張の上手さなんかに自分自身が酔うようでは口先だけの人で終わるものです。人の投げかけて
くれたものを上手 に咀嚼できるのは「自分の拡張」を怠りなく続ける人だけのものです。

 

自分を清潔に保ち、余白を大きく残し、一気呵成に打ち込むまでの「準備」は、地味であるし、
静かに進行するものです。誰彼の価値観にのっかからずに、しかもあくまで「自分」として
生きるってことは、「器用さ」ではなく、器の話 だと思うのです。

 

「自分をむなしく」しておく辛抱は、自然には備わらないのです。

● 体は鈍感、ということでもないですが
すぐには分からず、食べ終わってから感じる心地よさのような感覚、身体がきれいに
なったような気がする・・・というあれです。ひとつひとつの細胞が喜んでいるのです。
それを、身体の心地よさで伝えてくれているのです。一方で、その穏やかな優しさに、
脳は気づかないことが多い。

土井善晴「一汁一菜でよいという提案」の中から「自分の身体を信じる」より引用。

先生は「脳が騙してくる」と続けていますが、先生一流のお戯れで、仰っておりますけれど、
なかなかの含蓄と拝察いたします。目先の「うまい」は脳が誘導する「旨いはずだ」に強引されて
いるかもしれない。それを「食べ飽きる・飽きにくい」というモノサシで計って見やると
勘づきやすいのでは?なるエッセイで、朴訥とした智慧から巡ってくる洗練が凄く心地良いのでした。
言い換えれば「旨いものがそんなに取っ付くように旨くあろうとするもんかよ」って啓示のような
趣を覚えたのでした。

● 誰かが一番弱い存在になるんだ
夜廻り猫199「いじめられた子」より引用

いじめに遭っている高校生男子。いじめてくるヤツはクラスでは受けのいい人気者。
先生も他の生徒も知らん顔をしてる。男の子はいう。

「僕がやられるのは弱いからだ。
 でも僕は
 だからって強くなろうとは思わない」

そして冒頭の台詞に続くのです。

彼でなくば、他の誰かがいじめの対象にされ、自分がした体験と思いをただ繰り返すだけの日常。
その中で自らの弱さを悟り、さりとて「強くなる」ことで抜け出してしまいにはさせない、
別の視野が彼には育っていた。大人でも、そうした「強さ」にはなかなか至れないのに。

● 頑張りとは
与えられたスタートから一歩でも歩けたかどうかだ。おまいさんはだれよりも頑張ってきた。

夜廻り猫195「おまいさんは頑張っておる」より引用

入退院ばっかりの男の子は、クラスの子がどんどん先に進んでいることを分かっていて、
「僕はなにもできない」と夜廻り猫に嘆いた。
「なにも頑張れない」と。

周りを見渡せば秀でた人や恵まれた人を見つけてしまい、つい自分がこのまま負けてばっかりの
人生になるんじゃないだろうか?などと、随分人生を悲観してしまうがちなのが、普通の感覚。

でも、誰もが「自分より上」に傷ついているのには、見落としているものがあります。
見つめるべきは、上ではないのではないんでしょうか。

● 大変・・・だけど、大変と不幸は違うんだよ
あんた達がいてうれしいんだからね。たべなたべな

夜廻り猫192「家をなくした猫」より引用。しづさんの台詞より

しづさんはお仕事で介護してるのに、自分のお母さんの世話、野良猫達の世話、
どんどん忙しくなっていってるのに、一点の曇りもなく、来る要望達へ
ことごとく挑んでいく。見かねた夜廻り猫が労った言葉に対して、彼女の応えた言葉。

不思議なもので、忙しい人のもとへは、次から次へと誰か彼かのお願いが舞い込む。
そしてそういう人は、きちんとひとつ・ひとつをこなせる人なので、雪だるま式にお願いが
ふくらんでいってしまう。

それを彼女は「大変と不幸は違う」とさらりと言った。こういう人柄の人は、そういう
深い智慧が分かっていらっしゃいます。

● 「こんなに悔しい表彰式ってあるんだな」
日本、史上初の銀メダル 北京オリンピックの藤沢五月の言葉。

2回のオリンピック出場で前回の出場で勝ち取った「銅メダル」以上を得た上でのコメント。

「メダルセレモニーを終え、藤沢は「こんなに悔しい表彰式ってあるんだなというのを初めて感じて。
4年前は(3位決定戦で)勝って終わって表彰台に上って。あのときはうれしい気持ちもあったんですけど。
4年前とは1つメダルの色も変わったんですけど、正直、悔しさの方がある」と目を真っ赤にはらした。」
サンスポ2022年2月20日の記事より引用

見えて来たものが違っている。見送ってくれた人たちの気持ちが増えている。日本だけじゃなく、世界までもが
「味方」になってくれそうな空気まで含んでいる。だから前回までの「上をひたすら見ていた」以外の見え方を
たくさん知ってしまった。位は上がったのに、心はなにか、足りないと叫んだんだね。よかった。

● 「お店とはお客の無理難題に応えることが正解ではないのです
良い料理とは客とサービス、調理場、経営者の真ん中に浮かぶスープのようなものです。
まっすぐこぼれないことこそが健全であり、均衡を失ってどちらかに傾いてスープが
あふれるようではいけないのです。本来お店とお客は対等な関係です。普段の人間同士の
関係と同じです。」

土井善晴「一汁一菜でよいという提案」より

こうも続きます。
「食べ物は食べ物として差し出されている以上、安全で安心で合うことは当たり前です。
家庭では、そもそも子供たちが食べ物に疑いを持つことはなく、無条件で信頼しています。」

「何も言わなくても、親のすることはみんなお見通しだと思います。なぜなら、それまでに
お父さんやお母さんが頑張ってきたおかげで子供たちは多くのことを身につけてきた。

だから気づくようになってきたのです。そして何も言わない方がよいことも、今もお父さん、お母さんが
一生懸命してくれていることも、子供たちはちゃんと分かっているのです。」

常に美味しいものを食べる、のではなく、「飽きないで食べ続けられること」を大事にしようねと言い、
食べるということが生きる時の秩序の最初であると説くこの本は、もはや哲学の書でした。

● 「私が必要としているは弾薬だ。脱出の為の足ではない」
元々は喜劇俳優で、政治経験ゼロだったゼレンスキー大統領は、アメリカから国外脱出を打診された時、
「私が必要としているは弾薬だ。脱出の為の足ではない」と拒否。

人の強さ。普通、という、通しにくいのに、通す、強さ。
プーチンの理由ではロシア人は戦え抜けないと言う証左だろう。
ゼレンスキーを生んだのは悲劇を母とするが、英雄をはじめてウクライナは手にした。

● 中立は、抑圧者を助けることになる
「どちらにつくか、選ばねばならない。
中立は、抑圧者を助けることになる。
中立が、被害者を助けることはない。」
at Jewish Community Center, Manhattan

日本人的な悠長を世界が許さないことがしばしばある。80年代にアメリカ経済界などから
「知らない、では済まされない」などと吹っかけられたように、「知りませんでした」が
許されないのと同様、分かってないことまでも責任は負わされるのだということを肝に
命じなくてはならない。

国際政治においては日本人的な「中庸であれば誰にも迷惑はかけてない」などと
「思い込みたがる」のは危険でもある。世界は「そうは見なさない」からだ。そっちの方が
常識なのです。教養と言ってもいい。供用でもあり強用でもある。世界の趨勢が正しいばかり
でもないけれど、そうした気配は知っておくに損はない。

世界のよその国でも今回のウクライナ侵攻に「中立」を建前にする国家がいくつかあった。
しかし総じてそういう国は「次にくる局面」を見越した「積極的戦略込みの一時な離脱」が
本音であり、某国のような「ただの決断不足」国家とでは実質に含み持つ意図の絶対量が違うのです。

● 欠点のいっぱいある旦那と結婚した方がいいわよ
「レミさんが、和田さんが亡くなられてから・・・あのぅー・・あのね、
とにかくね、欠点のいっぱいある旦那と結婚した方がいいわよって、みんなにいうのね。

え、なんでですかって聞いたら、そしたら、和田さんはホントに欠点がなかったから、
だから、もう、もう、少しでも悪いところがあったら、やなことも思い出せるんだけれども
いい事しか思い出せないのって・・・・仰って、ホントに未だにもう・・・(亡くなってから)
2年経つのに・・・悲しみにくれていらっしゃる・・・あ、あ、あんな明るい顔して悲しみに
暮れていらっしゃる・・・」

NHK「ザ・プロファイラー」で和田誠さんの特集の際に、奥様である平野レミさんが
かつて阿川佐和子さんに言ってきてたことを、スタジオで思い出しながら、涙ながらに
仰ってた話。

インタビューに応える平野レミさん。顔つきはいつも通りなのに、声の感じは涙声混じりで言うの。

「いい和田さんだったね、優しかったね、死んじゃったんだねぇ・・・(小声になって)
死んじゃったんだよねえ・・・はぁーぁ(深くため息)・・やんなっちゃうねえ。」

「和田さんがぁ、この世の中からいなくなっちゃってからぁ、和田さんの事務所からサ、譜面がでてきたのね。
そンでずっとねぇ、音符みてたら、え!これ、アタシのこと、アタシのこと、歌ってんじゃんって思ったのぉ。
それはねえ、それはねえ、ちょっとどぉゆうのかっていうとねえ・・・」といいつづけざまに、
平野さんは歌い出した。可愛い童謡のような曲。

声には終始少し涙声が混じってて、なのに、明るくあろうとなっちゃってるのが分かる。
そのあと、冒頭の佐川さんの話に続くのでした。

明るい顔して、悲しみに暮れてるの。ああ、そうか、その顔でしか、ないんだ。強がりでもなんでもないんだ。

● なにかにならないといけないという思いに縛られて、どんな人間に成りたいかをすっぽり抜けていたように思い ます
「銀の匙」アニメ4話。中学時代の担任が主人公八軒を訪ねて蝦夷農なる高校でいった台詞。

「中学生の時の八軒はなにかにならないといけないという思いに縛られて、どんな人間に成りたいかを
すっぽり抜けていたように思います。こちらなら、なにかつかめるのではないかと思って
放り込んでみたのですが、正解でしたかな?」

若いうちは誰もがこうした悩みに足をすくわれ、迷わされ、目標を持たねば、なにかにならねばという
報われようのない思案の拘泥されて、随分とぬかるみの道をゆくものです。

迷って歩んでる間に閃いたり、仲間が助けてくれたりと、「やってみるまでは、出会いもなかった」
ことににまみれて、振り回されて、居場所をいつのまにか見つけている。見つけられない時もある。

人生は結果じゃないんだよ。いつだって、なんだって、やってる途中とか、過程そのものなんだ。
「解釈」はどうとでもできるけれど、本当は「過程のど真ん中でうろたえている」こそが、生きてた
瞬間なんだよね。迷ってるのも、困ってるのも、ほんとは、味わってるんだよ。

● あなたのメイドになりますから、助けてください」
トルコ南部とシリア北西部で2月6日、マグニチュード7.8の地震が発生。
ガレキに挟れたジナンさん(5才の姉)は、弟(生後11ヶ月)の頭を腕でかばいながらの言葉。

とっさに生き続けるための言葉は、自分以外の命を救いたい一念で発せられた。
 瓦礫の下敷きのうちに、お姉ちゃんが「生き残る」ためにこの態勢のうちに言い添えた言葉。

自身が孤児になるさなか、守れた血縁の弟をかばいながら、生きる方向を放つような言葉。

 職業としてのメイドなんて言葉じゃない。自分の身を、人生を捧げるから弟を、私を助けて下さい、
無為に頼んでません、メイドになりますから、というバーターまで申し出ている。

この子たちの未来に明るい光が射しますように。

●「ウクライナ警察とミリタリー・ポリスの方たちが、ちゃんと警護してくださっています。
私は戦争も経ていますし、クーデターも経験していますし、革命も経験していますし、暴動の経験もしています。
怖いものはないです。」 デヴィ夫人

ウクライナに自身でおもむき、これを言う事の価値。 怖いか怖くないか、などという次元を勘ぐる必要はない。
ただ、ウクライナの人人と「ロシアに攻撃され続けてる刹那」に同じ地面の上に立ってる事実の雄弁さ。

デヴィ夫人ですが、インドネシアのスカルノ元大統領の夫人でもあります。
1965年に軍事クーデターが起こり、スカルノ大統領が失脚したため、身を守るために日本へ帰国した
経験もありました。 終戦から77年が経過し、戦争を体験していない世代が大半になった日本。

そんな中、デヴィ夫人はさまざまな場で命の危機にひんしてきたのです。

デヴィ夫人 捨て身のウクライナ支援に賞賛続々!浮き彫りになる“ロシア擁護”森喜朗氏との差
「今のロシアの問題もそうです。せっかく積み立ててここまで来ているのに、こんなにウクライナに
力入れちゃっていいのかなと」 いろんな意見があるのはいい。

思っててもいい。
個人でね。

でも今は黙っててくれ。

1月25日、東京都内の会合で日本政府によるウクライナ支援に対して、こう異論を述べたのは森喜朗元首相 (85)。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まって間もなく1年。現在も民間施設へのミサイル攻撃によって多数の死 者が
出るなど、収束の兆しは見えない。

 報道によると、ウクライナ情勢について、「ロシアが負けるということは、まず考えられない。
そういう事態になればもっと大変なことになる。その時に日本が大事な役割をしなきゃならない」と
主張したという森氏。

 昨年11月にも日本維新の会の鈴木宗男参院議員(74)のパーティーで、「ゼレンスキー大統領は、
大統領として多くのウクライナの人たちを苦しめている」などと痛烈に批判し物議を醸した。

あー、駄目だわ俺、この人。

● 君は私にとって霊感の泉であり究極の理想だ。
Masa
You are the fountain of my inspiration and the climax of my ideais.
(正子さんへ贈った写真に記載された文言)
「白洲次郎 100の言葉」より

気障なあの人がこれをいえるから決まるのです。

 ● だいじなものはほんの少しです。 
重いものじゃなくて、大事なものをもちましょう。
コンドウアキ:著「ここにいます」より

あれこれ囲ってやいないか総点検ください。そんなに持たずにいいようです。

● 金払いはよくしろ。 明るくふるまえ。
特定の女とばかりしゃべるな。 そして言い寄られたらノーと言え。
「白洲次郎 100の言葉」より

威勢がいいだけではない。大盤振る舞いでいろ、とも違う。
品格の伴う振る舞いこそが、人を新しいフェーズに運ぶから心がけを説いてる。

● 風向きは変わります。
コンドウアキ:著「ここにいます」より
それそこまでは正解だったものが、まったく真逆なことが正解なのだとパラダイムシフトを
起こすことがあります。昨今で言えば津波や地震、ウクライナ侵攻もコロナ禍も、今まで変わらないと
思ってた生活は一変し、考え方も従来どおりを良しとしなくなったじゃないですか。

ずいぶん長く、信じれてた時間の方こそ、もろいものだったのだと振り返ってみればそう思えますね。

● あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になりますよ。
(GHQ民政局長のホイットニー准将に英語を褒められて返した言葉)
「白洲次郎 100の言葉」より

非常に高慢ちきだが、これを放ってあいてがそれをいうに能うかどうかを値踏ませた挙げ句、
上等ではないかと迎い入れにかからせるのは、人格そのものの作用と言えましょう。

● ケンカがあるから なかなおりがある
コンドウアキ:著「いつもいます」より

片方だけをみ過ぎちゃってると、もう片方を見失ってる事自体を忘れちゃえる。

坂道で例えてみようか。 坂道は上りの数と下りの数が同じだけある。
坂は立つ位置で見方が変わるだけで、呼び名を変えてはみせても、その片方が頑強に言い放ってきても
坂は一つの状態でしかなく、のぼりでもあるし、下りでもあるし、どっちでもあるし、どっちでもない。

言い張るくらいには言ってもいいけど、ソコジャナイ感はもっておいてほしい。

● 他人様が起こした火事だろうが、自分の家で始まった火事であろうが、燃えてしまえば只の灰になるだけで
(中略)なすり合いをやってみたところで、灰になってしまえば手のつけようがあるはずもない。
「白洲次郎 100の言葉」より

経緯にグジグジしてるとここぞというときに思い切りが悪くなる。日頃使いの感情が有事には発露するから、
結果を先回りするつもりで日々の養生と思って己を少し高めに鍛錬しておくのがいいかも知れません。
これは大雑把とは趣が違います。

● 通じあうって 言葉じゃなくて 心を使うのね
コンドウアキ:著「うさぎのモフィ もりのまいにち」より

考えることが賢いのだと、知ってることが頭がいいのだと、日常使いの感覚ではだまされないくらいには
頭使えなくちゃと励ますのだけれど、かんじんかなめなときには、おーむね心を使うことのほうが
有意義で適切なことが多いものです。

そう思うと、すべき準備は知識教養よりも、感じることの訓練じゃないのかしら?

● プリンシプル(原理原則)のない妥協は妥協ではなくて、一時しのぎのごまかしに過ぎないのだ。
「白洲次郎 100の言葉」より

妥協とごまかしは混濁してませんか?妥協は以後の事態への積極を育む種となれますが、
ごまかしはバレたりしつらえが粗末だったりと、事態が悪化に向かうこと間違いないのです。

天地ほどの差ですよ。

● わぁ なんてたのしそうなゆめ! これは人気が出るぞ!!
コンドウアキ:著「ゆめぎんこう」より

この言い回し。ゆめのはなしなんだけど、人気に火をつけちゃえそうだと日和とも狡猾とも
いえそうなのに、不思議に可愛いし、すてきなのよね。

欲深さすら、ときには正直の気配が勝るときもあるし、底に嫌なものが透けてこなければ、
むしろその素直さのほうが印象されるんだなって、ときめきました。

●皆がいい人だと褒めすぎて悪口を言われないような人々は、おしなべて馬鹿に限るようだ。
お釈迦様やキリストのような人物がおるのなら例外を認めるが。
「白洲次郎 100の言葉」より

● 「いいなと思いついたことはやってみるといい。
思いつくってことは、そのことじたいがプレゼントみたいなものなんだから」
コンドウアキ:著「ゆめぎんこう ちいさなおきゃくさま」より

思いついてから、躊躇(ちゅうちょ)が生まれたり、思い切りに影が差したりします。
思いつけたまでの愉快をどこかにおいちゃうみたいです。
思いつけたまでの凄さを採るべきなのですってことです。

● 日本の若い人に一番足らんのは勇気だ。
そう言ったら損をするという事ばかり考えている。 自分の思うことを率直に言う勇気が欠けている。
「白洲次郎 100の言葉」より

● 好きな場所は?「ふとん」
コンドウアキさん、「MOE (モエ) 2023年8月号 [雑誌] (「リラックマ」から「ゆめぎんこう」まで」の
中のインタビューにて。 多分きっとそうだし、嘘じゃなさそうだと確信できる。

リラックマたちのような世界を構築する人にはふとんが必須なのよ、きっと。

 ● 地位が上がるほど、役得ではなく、"役損"が増えることを覚えておけ
「白洲次郎 100の言葉」より

● 人に好かれようと思って仕事をするな。
むしろ半分の人間に積極的に嫌われるように努力しないと、ちゃんとした仕事はできねえぞ。
「白洲次郎 100の言葉」より

● だからこそなんだ 暴力は受けた側からしかその本質は語れない。
苦痛に打たれた者にしか争いを止める心の言葉は吐けない
トライガンマキシマム8巻「侵攻」よりバッシュの言葉

● ウィシュマ・サンダマリさんのご遺族、妹さんたちがよくこう語る。
「私たちは声をあげるけれど、変える責任があるのは日本の皆さんなんです」と。

● 「誰かに会うたび、顔を見るのは最期かと思う。僕自身死ぬのが怖い」
戦場で俳句を詠むウクライナ軍大尉セルヒィ・ベリンスキさん 中日新聞2023.4.12より引用

● 僕が作品を生んでいるのではない。
作品も感情も予め世界に内包されていて、僕はそれを拾い集めて手のひらですくい、「ほら」と見せてるに過ぎな い。
「歩くような速さで」是枝裕和監督:著より引用

● 「詩はメッセージではない。 メッセージは意識されたものに過ぎないが、詩は無意識から生まれるものだ」
是枝裕和監督がシンポジウムで聞いた詩人・谷川俊太郎さんの言葉。 「歩くような速さで」より引用。

● 「あなたは映画の登場人物を誰一人裁こうとしていない。
善と悪で分けていないところが成瀬(巳喜男)の映画に通じるように思う。」
フランスで是枝裕和監督が批評家に評された言葉。 「歩くような速さで」より引用

● あなたは生と死の作家だと紹介されることが多いが、僕は違うと思っている。
あなたはいつも”後の残された人”を描いている。そのことにあなた自身は気づいているのか?」
是枝裕和監督がフランスの映画祭でかけられた言葉。
「歩くような速さで」より引用

●「自分らしく」などという考え方はそのときいかにも「狭い了見」に思え、
欠壊する堤防のようなものだと思ったものだ。
なりゆきを生きる 玄侑宗久:著より引用

東日本大震災の後、福島の三春町でお坊様でもある玄侑さんは、いろんなご縁で頼み込みにこられる
復興に関わる会議や支援の話に、責任感や抵抗を感じていらっしゃったところ、なりゆきに任せようと
考えの方を改めて拒まぬありようにシフトされたそうだ。

余計な力が抜け、テキパキこなせるようにもなったとも書かれているが、どなたにもそうであれとは
仰ってはいない。

「自分らしく」のくくりは、他ならぬ自分自身でしか強要を許さない。返せば自身があきらめれば済み、
去るようなものです。

「狭い了見」と続く語彙をお選びになれるのは、巡り来るものが「求められる」に端を発して、
自分に願いたいと要望される縁のほうに軸足が感じられます。 自分発信ではなく、要望のうちに求められる存在。

できると値踏まれるものに、身を任す。

なりゆきの方にも正体は知れないものの、その人に叶えられる分量なり采配(さいはい)なりが作用して
最適量の叶えをもたらすようにも見えてきます。 自分と言う欠壊を無用に畏れ、為せたであろう事柄までも
不見識に無碍(むげ)にするのは機会の損失か、怠慢をとったことになるのかしら?

「自分らしく」はそんなにいい言葉でもないのかもしれない。

「想定することが当然で賢明だという考え方のせいではないか」と、現代人の困り方、焦り方の根っこを
テシテシと軽く小突いて下さる師の聡明にあやかりたいものです。

● 結局好きなものってかぎりがあるから。嫌いなもの、興味のないものからしか、次の好きなものは
生まれないと思っているんですよ。
佐藤友哉 「ご本出しときますね」若林正恭:著より

その奥様、同じく小説家の島本理生曰く 「小説でもなんでも『自分には全然わかってないものってあるんです。
これは凄く評価されているけど、自分にはピンとこないとか。正直好きじゃないとか。

でも自分には判らないものに対して、安易に批評するのはやめようと思っていて。
自分には判らないもので、明日救われる誰かがいるかもしれないというふうに思うんですね。」

平易な言葉で書かれてますが、含蓄としては深めで遠いですね。

自分が預かり知らなさとしているものまでも、自分の知見の外まで目や耳を巡らせられる広範があります。

どうしたって、自分の目と耳とが届く範疇を自分のテリトリーとし、なにがしかの思いを
言っときたさにまみれる自分を顧(かえり)みますと、気恥ずかしくなりました。

「アンタが知ってるからって、どうなんだ!」と知らないことにだって恫喝ぶった「ごまかし」を
しかねないのが人ってものです。

佐藤さんの短いセンテンスにも、島本さんの「見え方」にも、「自分の外」がふんだんにあることを
よしとしてる姿勢があります。思えば「知らないことの方が圧倒的に多い」のが人生な訳ですから、
こっちの姿勢の方が本来なんですよね、反省反省。

● 「安易に弱者の味方をしない」
「ご本、出しときますね」若林正恭:著より

朝井リョウさん「これだけはする、これだけはしないと自分に課しているルール」なるテーマで放った言葉。

 ロイヤルホストはマーケティングをしない、なる観念にもリスペクト感を放ってくる作家先生の目線が いいですね。

 ● 今は次に進む時。失う事で得られるものもあるって。
リコリスリコイル3話:千束の言葉より
たきなを必要としている人が町にはたくさんいるよ
ここじゃなくたって

たきな
今は次に進む時。

失う事で得られるものもあるって。

たきながあのときああしなかったら私たちは出会えなかったよ。

誰かの期待にこたえる為に悲しくなるなんてつまんないって

居場所はある。

お店のみんなとの時間を試してみない?
それでもここが良かったら戻ってきたらいい。

遅くない。

まだ途中だよ。

チャンスは必ず来る。

そのときしたい事を試したらいい。

これね、これ言ってる時の千束の声の抑揚、思いやり、間合いの良さが秀でてるんです。
とても心根のある言葉なのがわかるし、今の切迫に溺れそうな人への優しさで満ちてる。

● 「不安定」を使いこなす 海に波がなくならないように、人生においても波風はなくならないものです。
「不安定」を使いこなす事が「安定」なのです。
問題は解決するなKAN:著 第1章 問題は「問題」ではない より

言葉がいいことを紡いでくれても、それが心に経由して、たどり着きにきてくれないと効果に能わないことがありま す。

また、例えいい言葉がそこにあってくれても、耳や目がそれを捉えられないと、過ぎ去ります。

 捕まえた後で、自分の体感則のうちから、そこ言葉に相応するものを引っ張り上げてきて
こねくりまわせるかも肝心な点です。

波はある、という是とできるか? その是は荒くれであるが、乗りこなす気が起こっているか?
そこが際です。

● 「怖がられている者よりも愛してる者の方を、容赦なく傷つけるという性質」 人間というものは、
恩義の絆で結ばれている愛情などは、利害が絡むとなれば平然と断ち切ってしまうものである。
一方、恐怖でつながれている場合は、復讐が恐ろしく、容易には断ち切れない。
マキアヴェッリ

● 四耐四不(したいしふ)

冷に耐え、
苦に耐え、
煩に耐え、
閑に耐え、
激せず、
躁(さわ)がず、
競わず、
随(したが)わず、
もって大事をなすべし。

中国清朝の英雄、曽国藩の教え

● 僕が作品を生んでいるのではない。
作品も感情も予め世界に内包されていて、僕はそれを拾い集めて手のひらですくい、「ほら」と
見せてるに過ぎない。
「歩くような速さで」是枝裕和監督:著より引用

この表題以前の文面にこうもある 感情はその外部との出会いや衝突によって生まれる。
ある風景に出会い、美しいと思う。しかし、では美しさというのは僕の側にあったのか?
それとも風景の側にあったのか? 私という存在を中心に世界を考えるか、 世界を中心に考え私を
その一部と捉えるのかによってそれは180度異なる。

前者を西洋的、後者を東洋的とするならば、僕は間違いなく後者に属する。 これは相棒とよく
話すモチーフでもあるんですけれど、相棒はたぶん自分の内側にあまり「作り続ける理性的な理由」を
持ってないっぽいんです。彼女曰く「手が作りはじめちゃう」のは見栄でもなければ増長でもなくって、
物語やテーマがなくたって作れちゃえる事実に即した自分に、言葉を当てはめた正直でしかない。

 本当に自分自身の内側にその「その世界がどこからやってきたのか」を思い至らせることができないの は、
是枝監督のいうところの「世界の一部」に属してるからこその去来。
もう既にその内部であって、常駐してるものであって、むしろそれに日々「勘づかない人」らへの
「再認識」でしかないのかもしれません。 ゆえに誰もに心当たりがあるし、他人事にもさせない。
そういうことのような気がします。

● 「世界はどこまでも自分自身の延長」 問題は解決するな 
KAN:著 第3章「メイドイン地球」の自分で生きる より引用。

循環において大切なのは、相手を知ろうとすることではありません。
「相手と出会ったときの自分の変化」を知ることです。 相手との出会いで変わるものがあるとすれば、
それは自分自身だけだからです。

(中略)

世界は、あくまでも「自分自身の認識」であり、「自分自身の延長」です。

(中略)

だから「なんとかしよう」とするのではなく、自分の認識を受け入れればいい。

(中略)

 相手や世界を受け入れて、「あきらめる」。そういう言い方もできるでしょう。
最後の一文を素直にそうだなと思えるかどうかがひとつの瀬戸際かもしれません。
「あきらめる」という語感ごときで抵抗を覚えるとしたら、その向こうに鎮座する宝珠を見失う事が
釣り合わないのです。

あきらめる、という言葉を経由して「状態」の話をしたいだけであって、方便であると本文も意図的に
「そういう言い方も」と註釈されてるのを見過ごしてはもったいないのです。

要は「あきらめろ」ではなく、「あきらめてみたら乗り越えられてた先」を見やれるのと同じ事に
たどり着きなさい、が真意です。

 相手、がいるのではなく一筋の光も脳には届かないのと同じで、自分の身体感覚器官が感知し、
神経なり脳内に渡された時点で、自らの「解釈」として手心が加えられる行程が練り込まれてます。

ここなんです。

 解釈に色味がつき、偏向してるんです。
ゆえに、引用元は「そこで本当に起こってる変化自体」だけにフォーカスしなさいよと仰ってる。

「自分は自分だ」などという幼稚な見地に済ませず、ぞの「自分」すら感情や知識にスピンさせられて
偏向を混ぜ込ませてる事実に目を向けなさい、と。

「観たいように観とく」をするのが人間であり、そこに正確な観察をする目と見識の方に足を置きなさい、
が本意の方といえます。

実際ね、本当にそれをするとね、感慨なんか湧かないんですよ。
状態、を観てるだけになって、「解釈」は入り込む余地がない、プレーンなありようでしかないんです。
砂、をみてなにか思ったりしませんよね?それと一緒です。

それはそれ、という見え方以上に成らんのが本来なんです。 そーゆーことをいっておるのです、ここは。

●「うっかりなのかな?」 「ご本、出しときますね?」
若林正恭:著より村田沙耶香さんへのインタビュー抜粋

若林「例えばイライラしてる客さんが『早くしろよ』って怒鳴ったり。
   そんな客がいたら、腹が立ちませんか?」
村田沙耶香さん(小説家)「それを愛するのがコンビニ店員だから」

村田沙耶香さん語録を続けます。 「男の子同士の喧嘩を止めようとして、気づかない振りをして
真ん中を突っ切ろうとしたことはあります。」

若林「抱きつかれた瞬間はどう思います?」
村田沙耶香さん「気がつかないふりをしてしまいます。気がついて反応しちゃったら、
   なんだかセクハラっぽい雰囲気になっちゃうか ら」
若林「ぽいっていうかさ、セクハラだし」
村田沙耶香さん「だから、気がついていないふりをします。」

村田沙耶香さん「しゃがんだとき、足首を掴まれた。
   でも『私が気づいちゃったら、この人がセクハラしたみたいになっちゃうなあ」と思って、
   ずっとおにぎりを並べ続けてたら、ほかのお客さんが血相を変えてやってきて、
   「お前なにやってるんだ!(村田さんに向かって)大丈夫だった!?」って言っていて、
   ああ、セクハラみたいになってしまった…って。」

村田沙耶香さん「露出狂って電車の中に出ますよね」
村田沙耶香さん「電車の中で結構露出してる人がいて。
でもそれは「うっかりなのかな?」って」

逐一面白い!なまじ冗談でもなさそうな受け答えだし、被害を被害としないというスタンス。
小説家ってもののありようでもあるかもしれないけど、すごく驚きの描写群像でした。

世界は解釈なんでしょうけれど、この振れ幅は凄いわ。

● 怖がられている者よりも愛してる者の方を、容赦なく傷つけるという性質
私は愛されるよりも怖がられる方が君主にとって安全な選択であるといいたい。
なぜなら、人間には、怖がられている者よりも愛してる者の方を、容赦なく傷つけるという
性質があるからだ。

人間というものは、恩義の絆で結ばれている愛情などは、利害が絡むとなれば平然と断ち切って
しまうものである。一方、恐怖でつながれている場合は、復讐が恐ろしく、容易には断ち切れない。
マキアヴェッリ語録 塩野七生:著 「君主論」より

あくまでも命を賭す政治的な立ち位置にある者が立志すべき項目を挙げているのであり、
人間的なありようの善悪を話してるのではない。
「先ず生き残れてて」こそ、優しいだの施しだのを口に乗せられるのであって、周囲一帯を
「自分を保護・擁護に能う存在」せしめる方法論をここに書いているのだから、
恐怖を選択しやすくあるのは、生存戦力として頭ひとつ優しさよりも秀でてるということでしょう。

● 生ぬるさの発生
頭にしかと入れておかねばならないのは、新しい秩序を打ち立てるといことくらい
むずかしい事業はないということである。

(中略)

なぜなら実行者は、現体制かで甘い汁を吸っていた人々全てを敵に回すだけでなく、
新体制になればトクをするであろう人々からも、生ぬるい支持しか期待できないものだからである。

この生ぬるさは、ふたつの原因から生まれる。
第一は、現体制を謳歌している人々に対する恐怖感であり、第二は異例の新しき事への不信感によるものだ。
マキアヴェッリ語録 塩野七生:著 「君主論」より

なにごとにも最初はある。従来との決別があるさなかを、指導すべき存在は期待半分、様子見半分で値踏みを
格下の存在からも生意気にも強いられる。
その刹那に全体を俯瞰(ふかん)で「見極める」裁量を、自分に付与できる人は稀でしょう。

それだけに事前にこうした事例溢れる歴史史観からの警告に耳を貸すべきです。
「既に利得を得た者」の執着は、「なくなるかもしれない」という恐怖の裏打ちから逃れられない。

新規の輩からは積極的な助力が請えない上に、「生ぬるい支持」しか期待できないそうである。
まずここまでなら、事前に肚に据えておける項目ではないか。

生ぬるさの発生は、「新しい秩序」が来たせいで発生したのであり、因果関係がある。
平易に切り捨てたり、見過ごしてたりすると、上述のように「既得権益の喪失」に実体以上の怨恨を
囲いかねない事実に、市井の心情は簡単に参ってしまう事を、この言葉たちから肚(はら)に入れておくべきだ。

頭にではない。肚の方にだ。
理屈で覚えておくのは良くない。

 ● 「疑ってたんじゃないよ、もっと悪い。はなっから、私、まちがってきいてた。」
いしいしんじ:著「ブランコ乗り」より「ふるえ」の章より引用。

弟が吹聴してきてた話を、話半分で聞いてた姉が、どうも自分の方が思い違いをしてたようだと
勘づいた時に発した言葉。
「ごめん、ひどい仕打ちだよ。なんにも分かっちゃいなかったんだ。あ、今も分かんないよ。
しょうじきいって、なにがなんだか。でも私、あんたをひとりぼっちにさせたままだったって、
それはたしか。怖かったでしょう?」 ひとしきり言い切った後で「わたし、こころからはずかしいよ」
とも言い添えた。

聡明で内的な成長が早熟である弟は、思考的には姉をはるかに上回る思案が出来るほどであるが、
姉に対しては終始姉弟というだけの関係を大事にしてたし、姉もまた弟を過分に持ち上げたりも
しないで向かい合えてた。

「ぼくにもわからない。あれがぜんぶ、つくりばなしか、ほんとうのことか。でもおねえちゃん、
どれもわらってくれたでしょう」 「ぼくはおねえちゃんがよんで、わらうのがすきなんだ。
この世でいちばんすきなこえさ」

巨大な雹(ひょう)をのどに直撃を受け、聞くものに吐き気まで催させる声帯になってしまった弟が、
筆談で返す言葉。

全幅の信頼のうちに、さまざまな障害が姉弟に見舞われてきたって、微塵も揺るがないで
「今まで通り」を守り抜く二人の、凛とした姿勢。 それだけでもこの本のものすごさの片鱗が分かる。

● 善を連れもきもすれば、悪も共に連れてくる

古代ローマ人は、現代(16世紀)の智慧者たちがよく口にする、時の恵みを待つ、という態度を好まなかった。
それよりも、彼ら自らの力量と判断力の方を頼りにしたのである。

というのも、時は一切のものをもたらすからであり、それゆえ、善を連れもきもすれば、
悪も共に連れてくるものだからである。

マキアヴェッリ語録 塩野七生:著 「君主論」より

さすがと唸るのは「一切のもの」のうちに「悪」が含みおかれる視座だ。
私たちはともすれば自分に優位で善良であるものを未来に期待しがちであり、積極的にそこへ弊害が
含まれる事を進んで思案しようとするものではない。

仮にそう察せられたところで、思案の時のうちにそれを案じたところで詮無き事柄にも捨て置ける。

可能性について論じたい訳ではないので、こうした歴史からの慧眼とあれば、すんなり受け入れやすく
感じるのも実に妙な気分です。

● スクロール・スクロール・スクロール

アップル共同創業者スティーブ・ウォズニアックが暴露
「ネットが存在する前の時代に戻りたい」 暇さえあればログインして、スクロールして、スクロールして、
スクロールしている自分に。
そうなると、それはもう習慣です。そして思ったのです。
習慣は「中毒」だと。本当は必要のないものの中毒になど、なりたくありません。そんなもの
なくても幸せでいられます。

なので、やめました。

 理由はもう一つあります。あなたの投稿に私が「いいね」をする。
それは私からあなたへのメッセージなのは、わかっています。

でも実際には「あなた」ではなく、100の広告主に宛てたメッセージなのです。
頭のなかでピンときました。これは「誠実なものではない」と。
ウォズのこの物言いは果たして過剰なものだと言えるでしょうか?
また、ウォズのこの「見え方」をなぜ私たちはしないのでしょうか?
一年で作れる友達は、一人かそれ以下でしょう。友情がずっと続く、真の友達はね。
知り合い全員と友達になることはできません。名前すらあまりよく覚えられません。
ですから、SNSは私には向いていないのです。
本当だ。なぜこんな事をうすぼんやり気づかないでいたんだろう。

● 「私が必要としているは弾薬だ。脱出の為の足ではない」
元々は喜劇俳優で、政治経験ゼロだったゼレンスキー大統領は、アメリカから国外脱出を打診された時、
「私が必要としているは弾薬だ。脱出の為の足ではない」と拒否。
人の強さ。普通、という、通しにくいのに、通す、強さ。
プーチンの理由ではロシア人は戦え抜けないと言う証左だろう。
ゼレンスキーを生んだのは悲劇を母とするが、英雄をはじめてウクライナは手にした。

● 「武装解除だ、武装解除だ」 ・・・その前で伯父たちと玉音放送を聞いた。
なにをいってるのか判らなかった一緒にいた大人たちも”終戦だ”とは言わず、”武装解除だ、武装解除だ”。
立川談志:著 立川談志自伝 狂気ありて、より。 第一章「負けず嫌いで皮肉なガキだった」より

この後の部分で談志師匠は「敗戦を終戦と言った大人のごまかし。
「敗戦」という言葉を使うようになったのはずっとあとになってからで、その頃は「終戦」と言っていた。」と
ある。 戦争参与者、戦争推進の側でいた大人たちのバツの悪さが伝わってくるが、談志少年の口からは
ツマンネエ御託なのだと一刀両断してる。

この曖昧さ、ケムの巻き方は現代の日本人にも巣くったまんまになっちまった。
しのぎでやってのけたことが恒久化して、下手な前例に帰したってことだ。

とっさに終戦を口にせずに武装解除といい、敗戦をいいたくないがための終戦なる表現にスピンさせた、
ここの正視は大人より少年のほうが見抜いてる事実がここに書かれてるだけの話。

こんな口先三寸に慣れて、大成叶うとお思いか?