作成日: 10/03/17  
修正日: 10/03/31  

自分の身にふりかかること

(原因も自分)


普通に過ごしてるだけなのに、自分の預かり知らないところで何かが決まって、自分の身に降り掛かって
きて欲しくないことが起こる。それも何度も。なぜだろう?運が悪い。偶然何度も。あり得ない。
起こることは寄せているとも言える。運の有無は分からないけれど、自分の身に降り掛かることは
「自分」という人となりが、そこに「ある」からこそ「自分」めがけて起こってくる、と考える方が
自然じゃないだろうか。

その逆もまた言えるのだけれど「起こって欲しいこと」もまた自分に降り掛かる。上とおなじ理由で
「あなた」がそこにいることをしっかり確認して、それは起こっている。私はそう思う。

いいことにしたって、悪いことにしたって、「あの人があそこにいる」ことが認識されて起こる。
いなければ気づかなかったし、起こってもいなければ、無いに等しい。「いる」ことが
ガチンコで認識されて「いるので」起こるのだ。

と、したら、
あなた、に相応のものが「選んで」「選ばれて」起こっていると考えられる。
他の誰でもなく、「これくらいのこと」とあなた自身の理由からではなく、周りの勝手な解釈で
「相応」なものが準備されて起こる。
縁のようなもので起こることを否定するのはたやすい。功徳のめぐりでそうなった、と
見えない巡り合わせ、積み重ねが自分に「返って来た」とはなかなか考えにくい。

部屋が汚い人は、職場でも「汚いもの」が認識できない。ほこりやチリ、ゴミの散乱に
いともたやすく「気づかない」。普段、身に回りに許しているものは、気づかないのだ。
人への配慮でも同じことが言える。他人様の所作で気がつくものは、自分が気にしていいものだけで
あり、自分にとって当たり前のものは気づけない。

友人関係などで、他人に無礼に振る舞ってることに無頓着な人は自ずから人望をなくす。
周りに人がいなくなるようになる。わがままな人も同じ。見てくれや小芝居が上手で
その場をおさめた気でいても、長期的には治まりきれないものを生み出して自分に
産みつけているから、その発芽から逃れられない。やってしまったことややっていることは
自分の中に内包される。一つもなくさずに、きちんと、たまる。

他人が知ってても知らなくても、自分のやっていることは自分では分かってる。
他人に知られずにやっているはずのことは、しばらくは気づかれないだろうけれど、
気づかれないからこそ何度も繰り返すようになり、そのうち「気づかない」ものとして
自然と出てしまう。内緒だったはずのものは、性格にまでしみ込んでしまう。そして気づかない。
たとえそれが「たった一度」のものであっても、関係ない。回数ではない。残るのだ。

自分の気性や性格で繰り返しているものが自分になり、それに相応のものが返ってくる。
思えば自然なことで、ずっとあなたがそこにいる、ことがはっきりしているからこそ、
あなたにめがけて起こる頻度はあがるのは自然なこと。
起こることのすべては「なかったこと」にはならない。自分で「なかったこと」と思い込めても
周りの人が覚えていれば、それはなかったことにはならないし、それを覚えてるものの最中で
「次に起こること」はその延長線上から続くのだから、今、目の前のものを知らんふりしたところで、
自分の思惑とは全然違う次元でものごとは「起こる」。

そう、「自分の思惑」で生きてるつもりなのがそもそもの誤解の最初なんだろう。
自分、は周りの人、の最中で生きており、まずもってそうしたたっぷりの「他人」の最中で
いや、「他人たちという激流の最中」で生きてるんだから、そこで舵を取ることすら難しいのだ。
自分自身の思惑ですら、他者という奔流の中で勝ち取るには相応の気力がいるだろう。
でもそうした他者の奔流があってこそ、こうして「今の自分」が過ごしていられる恩恵に
巡り会っていることのほうが順番としては先にある。自分が今の自分であるのは、周りの人が
今のように周りに居続けて来てくれたからこそ、ピンボールのたまのようにように跳ねて転がって
ぶつかって飛んでポーンと今の位置にあるのだ。自力で得たなんてものはうんと少ない。

運がないとはいわないけれど、運というよりも、周りをよく見ると「そうなるべくしてそうなった」
ことの方が回数、数としては多いと思えるようになった。と、いうか、それ以外はほとんどないなと
思う。

「そんなはずはない!」と叫んでみてもいいけれど、別段それで変わるものはない。
かといって「じゃあ、なにもはたらきかけないでいいんじゃない?」などというムキリョクなことを
推奨してる文章でもない。「相応なものが返って来てる」と言ってるのだ。
あらがいきれないものに、ただ抵抗をする生き方ってのもありだと思う。それだって「自分はこういう
ひとだから」その人が決めた、合点づくの抵抗なんだから、苦しかろうとつらかろうとやれるだろう。
ただ、がんばってるからといって「思った通り」にならなくても、なんら文句を言うものではないし、
ならなくても「当たり前」ではある。自分だけではない。周りの人と生きる空間をシェアしている
「自分」は、全体にとっては「部分」であるのだから、整合性なくしてそこで自由にできることは
限られる。周りの都合や事情が許さないことは、起こりようがないのだ。

「無理を通せば、道理が引っ込む」
その通り。何度かは周りが無理を通してくれるだろう。無理を通したばかりに、何かを失うことを
計算に入れられればいんだけれど。そうはいかない。
「こんなはずじゃなかった」   そんなことはないよ。そうなるべくしてそうなってる。
自分のやったことに、戻って来てるんだよ。何年経っても、なかったことにしても
綺麗に、ちゃんと、戻る。必ず、戻る。それは本当だと思う。

そう思うと、悲しいとかうれしいだなんていちいち思わなくてもよさそうなものだけれど、
そーゆーんでもない。いちいちにちゃんと気持ちは起こるものだ。そしてそれはやはり楽しいんだ。

だからこそ思う。
自分に起こることは、全部味わってみればいい。
いいもわるいもそのまま味わって、次ぎにくるものを待ち構えても立ち向かっても、とっくり
味わい尽くしてやればいい。それが周りがあなたに「相応」と値踏んだものだと予感しながら
こなしてみればいい。乗り越えれば、「もっと相応」なものが波を打っておとづれるだろうし、
へこたれればその波に飲まれ、流された先の生き方を味わえるのだから、相応にうまく
流れ着けるものだよ。

自分の振る舞いが、自分をどこかにいざなうんだ。
他人のせいにできるものじゃないよ。相応なんだ。受け止めて、真摯に返す。この繰り返しなんだ、
生きるってモンは。きっと。ナントナク。多分。