作成日: 10/04/15  
修正日: 20/01/29  

ミルキーひとつぶで帳消し

つながりン中で生きてるんですね




負け越してる回数の多いのが生きるってことの中では当たり前なんだから、
いちいちがっかりしたりしんなりしてるのもどうなんだろうって思うけど、
負けた回数だけ、挑んだんだよね。

負けの回数が多い人は、それだけ勝負に出てるんだ。戦うから、負けるんだ。
頭のいい人は,戦いに持ち込まないものね。戦わないで済む勝負を設定できる。
そういう勝ち方がいい場合もあるだろうけれど、私が身を置くところでは、
泥まみれに戦って勝つしか突破できない案件が多い。

人間相手に生きてるからこそ、ひとりひとりに別々の一生懸命を
発揮し続けるしか、誠意でしかつながってられないときが多いから手抜かずに
手探りで過ごしてる。

先だって慣れたはずの何度目かの裏切りに遭い、その子の親御さんに
事情説明に行くことになった。
その子、と書いてるが、もう大人だ。お金にまつわる話で、当事者は
管理能力がない。親御さんと1時間話してる間に、親御さんの方にばかり
同感できる自分がいて、話の内容の割に平穏な空気でそのお宅を出てから、
しばらく歩いてると、どんどん涙が出て来た。

なんで泣いてるか分かんない。心当たりがないのに、胸がつかえて、のどが苦しい。
車に乗って帰る車中で「もうやだ」と自分で連呼してて、自分で驚いた。
なにがもうやだ、なんだ?
もうやだ、なんて自分で言うとはまったく思ってなかったので、びっくりした。

さっきまで話してたお宅で、おかあさんは「あなたの会社はもっと冷たい会社だと思ってました」と
泣きながら話してた。お父さんも目頭を押さえて、それでも感情をこらえて話してた。
自分のことではないのに、自分の身内のことに、人はどこまでしてあげるんだろう。
両親ってだけで、そこに生まれついて来た生き物を、本当に死ぬまでつきあわなくてはならないことに
なるんだろう。
今回の私はそういう意味では「追いつめる」側ではあるが、責めきれないでいた。

悪い人間が悪いことをするんじゃない。弱い人間が、逃げ口と思った方角に逃げ出したあとで、
やむにやまれず、と本人だけがそう思って、悪いことをすることの数が、うんと多い。
自分のしでかしたことを正確に語らず、隠し、黙り、触れられない限りにおいては、ばれるまで
知らんふりをし通し、いったんばれれば開き直ってどうとでもしろ、という。
どこまでも、自分は状況に追いやられただけで、なにひとつ悪くない、と心底「謝る」ことはない。

当事者はいい。償いをしたらいい。
でもその周りで、質素に生きてる人たちを巻き込むのは本当に嫌な気持ちになる。本人だけが
それが全然分かってない、という馬鹿さのつけはあとで払うがいい。でも、でも周りの人が
感じた気持ちには、出口があって欲しい。光があって欲しい。
やったもん勝ち  という言葉があるけど  あれは正確じゃない。
勝ちにならないわ。  今回、そう思った。可哀想な生き方。もう、引き返せない。

泣いたせいなのか、くたくたな気持ちで晩ご飯を買い出しに行った。
偶然、知人の女の子が同じ店に買い出しに来てたようで、声をかけてくれた。
少し話してたら、私が落ち込み気味であることを察して、
「元気出して下さい。ミルキーあげましょう」とポケットに
手を突っ込むと、両手に抱えてた買い物具材をぽとぽとと床に落とした。
笑ってしまった。
かつて、電柱にぶつかって怪我をしたことのある子だけど、そのときも
「電柱がぶつかってきたんです」と笑って言い張る子だったのを思い出しました。

「ちょっと待ってて」と買い物かごを取りに行って渡すと、もう一度
「ミルキーあげましょう。これで元気出してください」と、ふたつミルキーをくれた。

うれしかった。
おいしかった。

その子だってつらい思いをして来たのを知ってる。人を信じなくなったって仕方ないって言っても
いいと思う。なのに。
元気づけられる側が自分というのが申し訳ないくらい。
それでも、今日一日のごほうびとして、全部帳消しにできるはからいだった。

小粒な優しさがとてもうれしい。
ちっちゃくても、静かに人を支える人は素敵だと思う夜でした。

戦った回数と負けた回数は同じじゃないので,挑んだ回数を増やせばいいんだって言う話。