作成日: 10/06/28  
修正日: 10/06/28  

分かってもらおうとすること

いっそ知られなくてもいいんじゃないだろーか


テレビやネット世界で頑張ってる人たちは、なにがしかの活動を展開して行くときに
「みんなに広く分かってもらおうと思い・・・」と、広報を意識した発言をされているときがある。
自分が好きになったり、思い入れたり、問題意識を持ったことには訳があり、その事情さえきちんと人に
伝える事ができるのなら、きっとみんな他人事に思えなくなって、そこにリンクしてくるはずだ、という
確証めいた自信を持って、それをする。

人が一人、それそこに興味を持つという事は、それなりに訳があって、いったん触れれば目をそらせない
用件もあるだろう。ネットを見てると特に感じるんだけど、どれもこれもと、立て込んでるように次々と
「諸問題」が放り込まれてくるままにいちいち応じていたら、パンクどころか、人生が終わりかけてるくらいの
量加減で、昨今の人は情報を「選びに選びまくれる」状態でさらされてて、むしろ重要なのはその「端折り方」
「あきらめ方」「捨て方」なんじゃないだろーかと思います。

ネットが発展して来て、「情報の多いもの」が、イコール「いいもの」でもないことははっきりしてきてるし、
一切情報の乗ってこないものってのもいよいよはっきりしてきてるんだけど、なんせ偏ってるし、いちいち
右往左往させられるのが嫌んなっちゃう場合が普通だと思う。

今日は本屋さんに入った。読書がしたくて仕方ないのに、雑誌もハードカバーもどうしても買えなかった。
「読みたくなる本」がどう頑張ってもみつけられなかったのだ。これは「興味の持てない自分が悪い」のだろうか。
それとも興味の広がりが尽きて来た予兆なのだろうか。いやいや、素直に「本が面白くない」で結論していいと
思う。

面白くなれるものに、自分を没入させたい気持ちがはやり、探したがってる自分がいるのに、世界はネットで
つながって、こんなに広く大きく存在しているのに、この真正直な「見つけられない」観こそがリアルなのが
実態なんだろうなあ。

みんな一斉に「自分を見て!」「自分たちのやってることに興味を持って!」と叫ぶ回数もチャンスも広げて
いるさなかにさらされながら、むしろ「しらける」回数の方が圧倒的に増えて来てることの繰り返しだから、
「がっかり回数」「しょんぼり回数」の方がヒットレートは高まっている。

見て知ったもののことごとくが「いいもの」「すごいもの」であるのなら一番いいんだろうけれど、どこか
昔のマスメディアが持っててくれた「情報の洗練」の上手さってものは、減って来てる体感、が正直な感想。

事実、「すごいもの」に巡り会う回数は減ってしまっているんじゃなかろうか。
それは「すごいもの」が減ってる訳じゃなくて、「すごいとされるもの」が頻度良く目の当たりにできるようになって
「すごくさせなくなってる」ことに慣れさせる自分たちを育成した結果なんだろう。
人はなんにもで「慣れて」しまう。

その気になればすぐに「すごいと呼ばれるもの」に触れにかかれる時代なんだろうか。探せて、知ってしまえること
なんていうものが、どんだけ価値があるんだろう。いろいろ「知って」るだけに済ませた回数ばかり増えて
人間としては「しらけて」「しらけて」「しらけて」いく一方の過ごし方を重ねている。
「知ってる」だけのことに、なにをこんなに安心してしまってるんだろう。これはどんな満足なんだろう。
ほとんどなにも手に入れてないというのに。

じゃあ、だからこそ、行動しましょう!的ハッスルを、なんか「自分の意志でねじ伏せるように」点火させるやり方は
ものすごく不自然で、長続きもしない。

まんが雑誌はいつのまにこんなに裸のオンパレードになってしまったんだろう。「売れる」という担保のせいで
すっかりまんがの本質にある「こっちの生き方からごっそりしでかしちゃうパンチ」を見つけられなくなった。
命を削ってまんがを書く時代じゃないのかもしれないけど、かつてそういう作品に巡り会ってる時代の輩には
作品ってものがそれくらいのところに人を運んじゃうことを体験させてるもんだから、このごろの「ただ売れます」な
まんががどーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーしてもつまらない。つまらない頻度の回数がものすごく
増えてて挙げ句「本が売れない」といわれ、それはそうでしょうとうなづく。

こんなんだっけ?
押し込み強盗ばりに「これはいいよ」「これは素敵だよ」とねじ込むように押し込んで行く「いいもの」と
ネット時代なもんだから、わざわざ推されないでも、いいものは勝手にこっちから見つけて行くんだから、
余計な事、うるさくしないでいいよ、という「受け手」、その双方が「てんでお互いの要望を無視しっぱなしの
ディスコミュニケーション」を平行線に突き進んでる感じが、イマドキだなあ、と思うのです。

そんな情報たちが、どんなに上手に増えたって、「手前勝手ないいもの」の増産でしかない以上、そのままでは
タンスの肥やしみたいな情報になっちゃう。でもそれも大事。そのストックも過渡期にあると思えば、いつか
うまく大樹な感じに使い勝手が変化して来て生きる情報になるのかもしれない。

誰に、なにが役立つかは、受け手が「欲しい」と思ったタイミングで、探せる環境にあって、「便利」になれる。
そしてそれが当たり前な状態になると「便利」とすら思わなくなって、「いいもの」とは思わなくなるだろう。
むしろそれができなくなったときに「不自由」と感じるだけであって、クレームや文句をつけたくなることが
増えるだけのことだろう。

さあさあ、じゃあ、こんな際限のない「どこまで経っても『いいなあ』と思えない事」の繰り返しにさらされ続ける
生き方しかできないのか。向き合ってる以上、続く「無力感」は、人の心を殺伐としたものにして行くだろう。
人は自分に繰り返し感じさせているものに、反応してしまうもので、「がっかり」「さみしい」「しょんぼり」
「違うのにー」の繰り返しの生き方は、蝕む生き方になってしまう。

「自分が望む生き方があるはずだ」という渇望から、いろいろ探してしまうのが人ってもんだから、注目すべきは
ここなんだと思う。「自分が望むか、望まないか」に発端した行動こそが、自分を幸せにも不幸せにも感じさせる。
がっかりできるのは、がっかりするものを自分が知ってるからであって、がっかりと決められるのは自分だけでもある。
他人は自分の「がっかりもの」にがっかりしないことがある。むしろ喜ぶ人すらいるだろう。自分の「がっかりもの」は
自分が決めたものでしかない。これと同じに自分の「いいもの」も自分を喜ばせただけのことであり、他人にとって
がっかりの種かもしれないし、どーでもいーものかもしれない。他人がどう取るかは、相手次第のものであり、
こっちができるのは「自分にはいいものだと思った」「自分にはがっかりするものだと思った」という主観の次元
までのものだ。それを「推して」みたり「非難」してみたりするのは、突き詰めると「ひとりよがり」なんであって、
それを楽しんでやってるだけのことなんだろう。

つまるところ、他人の意見は参考にする程度に拝聴すればいいのであって、ことさら語気を強めて
「これはいいもんなんだから知っとけ」「そんな事も知らんのか、アホ!」とエバルたぐいの行為ではないのだ。
知らないなら知らないで損すればいいのだし、知って損する事もあるからどっちがいいってもんでもない。
分かってよーが、わかってなかろーが、いいのです。ええ、いいのです。好き好きに推してるだけのことと
思えばいーのです。