作成日: 10/07/18  
修正日: 10/07/18  

小さな魔法瓶とインターネット

いつもある。ずっとある。その威力と恩恵は、使う人次第


1分真剣に動いていると、汗が噴き出して来て、下着ごと着替えたい衝動にかられる仕事を1週間
やってみたら、水分補給で何度も自販機とコンビニを往復させられるハメになった。大きなサイズで
買えば冷たかったペットボトルもぬるくなるし、かといって小さなサイズで買えば,何度も買い直しに
出ねばならぬという憂き目に遭い、ふむ、これは、あれだな、魔法瓶を買おう、と小さく心に決めたのでした。

いざいろんな店で物色しておると、けっこういろんな種類があるもので、ほうほう便利な時代だなあと
いくつか手に取ってみた。水筒タイプで、直接飲み口のついたものがいいなあ、できればサイズは
1リットルくらいは欲しいなあと見渡すと、けっこうあるんですね。色も多彩で見栄えもいい。
値段も手頃で、じゃあこんなあたりを、と決めかけると、箱に「炭酸は入れないでね」とか
「保冷専用」とか、え?全種類「あったかいも冷たいもOK」じゃないの?とかサイダーとかコーラとか
いれちゃいけないの?とか制約が後になって分かってくる。

まぁ炭酸が飲みたかったらペットボトルで買えばいいんだし、温かい珈琲なんてのも、なにも水筒に
入れなくてもいいか、と考え直し、350mlサイズの冷暖両用タイプのを購入してきました。

魔法瓶は昔っからすごいなあと思っていたのです。
電気とか常時使っていなくても保温ができる、とは実に、まさに、「魔法」瓶の名にふさわしいマジック
だと思うのです。
私は小学校まで片道4キロも通学距離がありましたから、夏なんかは歩いてても1時間も日射されるわけです。
もう死んじゃいそうな面持ちなのです。そんなとき、ポリエチレンの水筒に前の晩からお茶を水筒ごと
冷凍し、朝通学時にタオルを水筒本体に巻いて出て行く訳です。この水分の実においしかったこと。
大人になってから飲んだどんなおいしい飲料よりも、あの真夏の通学時の「お茶」ほどうまかったことは
ないと思います。
そしてどんなにか、昨今の小さな魔法瓶(水筒)がほしかったことか。

温かいものを入れれば温かく,冷たいものを入れておけば冷たくしていてくれる。まさに魔法、魔法、魔法瓶!
ですから今晩水筒を買って来ただけで、うかつにも私はどきどきしておる次第です。これで炎天下を歩いたって
すうっとのどごしのよい飲み物を詰め込んで歩けるんだ、という備えの良さに、うれしがっておる
次第です。
どんなに喜んでおるかというと、買って来た水筒にもう作り置いていたアイスコーヒーと氷を流し入れ、
冷蔵庫から3メートルと離れていないところでこのエッセイを打っておるのに、その右斜め眼前に
すでに珈琲入り水筒が鎮座しておる次第です。もう二口のんじゃったよ。ベラボーにうまいよ!
うまーい!

魔法瓶(水筒)を発明した人は偉いと思う。電気とかガスとか、消耗したり媒介させる原動力なしに
温度状態を維持させるだなんて、すごくない?

これってインターネット始めたときにも同じ事感じたよ。
プロバイダーとかメールとかブラウザとか全然ワッカンネー単語羅列された世界にむざむざ飛び込んで行ったときに
それに支払う代価に比べ、断然メリットの方が大きいメディアを手に入れたという実感があった。
自分でホームページを作りさせすれば,自力で世界に発信できるメディアが、今自分の部屋に、パソコン経由で
出現したのだ。その気になればなんだって、どこまでだってできる。

それは「イラストを自分の思い通りに描けるようになったとき」にも感じたし、「写真を思い通りに撮れる」
時にも感じた。「8ミリ映画を完成させた」時にも「これで世界は俺様のもの!」くらいの高揚感にうっとり
したものですけど、それらの項目は「自分が努力して手に入れたもの」である事に対し、「インターネット」と
「魔法瓶」は、人様が作り上げて来て、自分一人ではどーにも設置し得ない英知と工夫とインフラが要るじゃない?
そこに乗っかったときに感じた「科学って素晴らしいね!ありがとう!」って気持ちは、忘れませんね。

世間が不況とかリストラとか、不安定で見通しの立たない最中にあることを常時感じさせてくる生き方であっても、
インターネット、魔法瓶(水筒)が覚えさせてくれた「魔法体験」はなくなりやしない。ずっとそこにある。
それに驚けた自分、ってのを覚えてる。うれしかったことを覚えてる。

今やメールやネットはケータイでやれちゃうのが当たり前になった。人の電話番号も暗唱しないし、
遠く離れた旧友も「その気になれば」なんとか連絡できるご時世になってしまった。それゆえに、今度は
逆に「見つからない」「連絡が取れない」でいることの方が「不自然」にカテゴリーされるようになった。

かつて「手紙」「はがき」でしか連絡ができなかった時代から、「電話」で声が聞けるようになった上で
今の「ネット経由」の「ツイッター」「ブログ」「mixi」による「常に連絡できちゃう」「常にネット上で
遊べちゃう」がデフォルト(基本)にされちゃうと、苦痛になってくるものだ。
常時返事をし、常時誘われ、常時断ったり、返事をしたりする、といった「コミュニケーションの強要」の
ようなものが生活の中で連鎖してくることを「こなして」も、「無視」しても、「疲れる」の一言に
集約される。そう考えると「四六時中、人とつながってるだなんて苦痛」の感性こそが大事だと思う。

ネットの威力ってそんな次元のことじゃないし、もっとおおきく使って行く面白さに気持ちを砕きたいのに、
実際「日々の生活」の延長のものでしかネットを活用できないでいることの繰り返しは、つまるところ
人を「傷つけている」んだと思う。ネットをやっててぐったりしてる人は、ネットの使い方を間違ってて
精神を病んでしまう。やっかいなのは、それを「自分が自分を傷つけてる」と思えない事だ。
人への思いやり、だとか悪く思われたくない、だとか、そんな発想のいるところに身を置き続けて
どうやって楽しめるってんでしょう。そんな気が起こるくらいなら、パソコン、ケータイから離れて
空を見てるか、星、月でも見てる方が断然力が湧く。「疲れる」生き方をしなきゃならないのは、他人の
せいじゃなく、全部「自分の選択」って自覚を持つところからはじめるべき。

おっといけねえ。話がそれました。ネットの悪口が言いたいんじゃありませんでした。本来持ってる
魅力とか威力とかに、もっと精神を向かわせたいってこと。

水筒も同じ。いつでも、年がら年中水筒なんて売ってるんだけどさ、真夏の炎天下にうごめく生活に
あっては、水筒に入ってる「冷たくておいしい水」がそこにあるんだから!ってだけで、どんなに勇気が
わいてくるか。どんなに遠くまで歩けちゃう事か。それは実際の摂取した水分量がどうの、という野暮チンな
話ではなく、自分の心持ちの中に「今日は冷たくて、のどがすうっとする水が水筒には入ってるんだ」という
妄想世界に近い「将来へのいい予感」を持ち歩ける自分。いつ飲んだってかまやしないという自由。
頑張って汗をかいていればかいているほど「きっとこのあとで飲む水筒の水はベラボーにうまいぜええ」と
鼻息すら荒くしかねない期待感は、水筒そのものの「機能」を越えて、「希望の星」にすら位置してる。

ネットの記事を見てて、高性能のリサーチソフトでもあるせいか、セクシャリティの高いものや、
「あなたの年収云々~」などといった「つかみ」の見出しで多くの人を惑わし迷わすモチーフが氾濫してる。
心の弱い人や、社会的に常識を持ち合わせない人は、コロリとやられてしまう餌がごまんと撒き餌されている。
それも商売だから,でまかり通した顔つきのトラップのたまり場が,ネットの本質ではないのだから。

魔法瓶の良さ、ネットの良さ,は常にそこに「ある」のに、それを讃えるチャンスと言うか、切り取りというか、
うまい機会がなかった。ので、本日はそれを讃えてみた。なんか尻切れっぽいけど、そーゆーこと。