作成日: 10/07/27  
修正日: 10/07/27  

再放送でいこう

アーカイブス、とかじゃなく


連日の猛暑の最中、エアコンのないところでかろうじて日陰なだけのところでお仕事を
してみてたら、2日もしないうちに体調がおかしくなった。お腹がくだるのね。
口内炎もできてくるし、まいっちゃう。
父もこの炎天下を働いていて「飲みたくなくなっても、水を飲む事が大事」という。
そして猛暑の中で、水分を欲しがらない人、というのはリタイアする確率が高い、とも
いう。ふむ、そーゆーもんなのかな。

そうはいっても、エアコンなしでも,人は何とかなるもんなのだ,とは感じ直した。
熱風であっても、風があれば気持ちが冴える。狭いところで,風もないところで作業をすると、
頭痛がして、次には吐き気が襲う。それに至る前に手を打つのが肝心で、ここで無理をすると
取り返しがきかなかったり、重症化するので、早々にあきらめの心を持つのも勇気。

勝間和代先生の本を読んでたら、なんだか自分のやってるインターネット上の行為には
「目的意識がない」ことがつらつらと分かってきて、そーかー、こんなに弛緩した気持ちでやってるから
日々向上しないのね、と得心がいくも、さりとて「目標を持つ」「来場者を増やす」というのは
正直なところ「頑張り過ぎじゃ」と感じるので、やりません。ブログもツイッターも、成功体験のために
はじめてないので、このまま弛緩しっぱなしであること、放っておかれてることの幸せってのも
大事だと思う。頑張らないスタンスから発生する、イレギュラーな「醸し」のようなものこそ
日持ちがして、理由の有無に左右されない「続くもの」に成長する。

ネット上で赤裸々に日々無難ですよーとか小さな冒険がーとか、アピールするには「訳」がなくたって
別にいいし、訳のないことがつらつら続くという事の方が、私には贅沢と映る。
人にどうの、ではなく、まず先に「自分がこれでいい」というスタンスの「再確認」だって面白くない?
ネット上は「明るすぎる」のだ。書かれた事が嘘か本当かでやいのやいのと盛り上がってる場合で
いられる一種ののんきさが、時々怖くなる。「言った事」「書いた事」で自分の言動・行動に
返信が来て、答え、答えられ、といった行為が続き、それが楽しいものであるならいいけれど、
予期せぬ「炎上」なるものを怖がって、ろくずっぽ正直でいられない場でいることに「いたたまれない」
こともこらえる「日々、公開処刑寸前のスリル」ばかりが身に応えるんじゃ、健康でいられない。

賢く「黙っておく」「書かないでおく」のも手なんでしょう。「書いておいて知らんぷりでいる」のも
いいかもしれない。ずっとダンマリの読み手でいれば、怪我はしないで済む。
力なく続いてるものが、開花してもしなくても、という心持ちだけで、十分楽しい。

世間では相撲が暴力団と云々で、名古屋場所でNHKが生放送を遠慮されたそうですが、このとき
番組構成上。それまで大相撲中継だった枠は、きっといろんな再放送をすると思った。
実際どうしのいでたかは、あんまりテレビを見ないのでわかんなかったけれど、んむ?再放送って
言葉があんまりこのごろ聞かないなあ、と思い返してみたら、ああ、そうか、「アーカイブス」とか
銘打って、出し惜しんでたり、料金払ってみたりするやり口になってきてたんだよなあと気づく。

そんなのいいじゃん、再放送したらいいのに。おじいちゃんにもおばあちゃんにもうれしいと思うな。
このごろのテレビに欠けているのは「再放送」なんじゃないだろうか。
いやいや、劇場版として映画ができるので,ドラマが再放送してます、とかいう不純な商売がらみの
もんじゃなくてさ、もっとこう、大阪のじゃリン子チエとか、一時期の名古屋テレビのガンダムとか
一休さんのような、なんだかテレビ局も流すものに困ってやってるような「再放送」のようなものの方が
こちらも落ち着くのです。芸人のバラエティなんか再放送せんでよし。外国から買い付けて来たような
ハンナ・バーベラ級の10分アニメのヘビーローテーションでいいのよ。ああいうものを繰り返し繰り返し
刷り込まれてこそ、人との会話の基礎ができるんだと思うけどな。
「トムトジェリー」「ウッドペッカー」「ジャングル黒べえ(やってよ!)」「オバケのQ太郎」などを
再放送してご覧よ。子供喜ぶよー。テレビ局も楽じゃない?

アーカイブ、じゃないよ?再放送、だよ。
記憶・記録の掘り起こし、再確認、とかいう「正しい」配慮からのもんではなしに、「え、なに?
枠が余ってるの?あんまり予算つかえないの。ふーん、そう、じゃあいいよ、まんが映画でも
やっとけば?子供見るでしょう。クレームにもなりにくいし、いいんじゃない?」というような
大人の身勝手な小理屈を予感してしまうような、チープな意図を見え隠れさせちゃう「再放送」がいいのよ。

アーカイブスっていわれると、勝間先生のような「正しさ」が漂い始めて、どこか窮屈なのよ。
やることなすことに「意図」があって然り!のような、否定しにくい立派さが,人を駄目にするんじゃ
ないのかなあ。劇場版に来場させるための再放送じゃ「意図」が強すぎないかなあ。もっと粗雑に
「安かったシリーズ物」「かつて自社で作ったので、しがらみが少なく、放映してもしなくても大丈夫」的
安逸さ、安普請さ、こそが「人だよなあ」って安心させるものなんじゃないかなあ。

冒頭に書いた「猛暑の中でエアコンなしの仕事」は実はやりたくなければやらないでも済ませるものだった。
もっと涼しくなってからでもいいし、誰かにやらせても別段大丈夫なものでもある。でも自分でやったのは
「酷暑の最中で、エアコンなしで、今更俺は動ける人なん?それともさっさとトンズラぶっこいてしまう
人なん?やりとげられちゃう人なん?」と実際自分が挑んでみないと結論が見えないものを感じたからこそ
やってみた。かれこれ2週間近く、酷暑続く最中でいろいろやってみたけれど、わかったのは
「思ったより体は頑丈」であったことと、「予期してたのより真面目」だったこと。そしてどの暑さに
どれくらいは我慢し続けられるのかは、からだにモノサシがついた感じで、無理もどこまではいけるのか、が
ずいぶんすっきり分かって来た。つまるところ、人にやらせるにしても「自分ではこれくらいかかった」
「自分ではこれ以上は無理と思った」間合いが分かってみないと、相手がやるにしても「自分より
できる・できない」モノサシが身に付かない。相手になにか諭したような事を言うにも、自分が一度は
やってることと、そうでないことでは説得力に温度差が出る。願わくば一言目がとどめでありたいものですしね。

そう思うとさ,「アーカイブス」っていう「明るく,明朗で、正しいもの」の響きより、「再放送」という
どこかベタ臭い「言えない事情も聞かずにまあよしとしてよ」的人間味のほうが「説得力」感じない?
正しいかどうか、じゃなくてさ、対面した人がさ「ま、いいか」ってなる事の方が、力があると思わない?

なににつけ、目標とか、目的とか、結局「妄想」の域の産物なんだから、「自分の思ったこと」のかなう回数が
あげることに躍起になる人には、いいことなんだろうね。でも人ってそんなもんで生きてないから。
もっといーかげんだから。もっとフランクだから。「やってみねーとわかんねー」ことの中に潜むものを
やってみちゃって分かったけど,幸せじゃねぇーーーーという結論にだって、あきらめがつくのが人なんだもの。

思った通り、じゃない   ことをさ、もっと「そーだよねー」ってことにしておける社会である方がいいと思う。
車で人殺しちゃったり、刺しちゃったり、子供を虐待する人たちに一律に通じる理屈が「思い通りじゃないこと」
なんじゃないの。

なんで思い通りになる、って思えたの?

なるわけないじゃん。

なりませんよ。


いや、これは皮肉とかペシミスティックに言ってるんじゃなくてですね、
「別に思い通りにはならない」の方をこそ、デフォルトにしとくべきじゃないんですか、ってこと。

大人の方が「人は思い通りに生きられるもんだよ」っていい加減なことを真顔で言ってるから
それ信じちゃってる人が増えちゃって、問題が起きてるんじゃないのかなあ。

なりませんよ、思い通りになんか。

でも、それでいいじゃない。

ねー。

そう思えれば、過ごし方だって変わると思うんだけどなあ。
そして、ちょっぴり、幸せなスタートが切れるとも思うんだよなあ。

「思い通り」なんて、そんなにいいもんじゃありませんよ。
5秒前でも、100年前でも、同じくらい「過去」なわけで、なにひとつやり直せないのは一緒でしょ?
「いや、俺の過去なんだから、5秒前のことくらいなら、なんとかやり直せる」とか言う人は
オカシイですよ。「やり直し」はできるけど、5秒前にあったことそのものには手出ししてない。できやしない。

再放送、ってものには、上のようなことを感じるのでした。