作成日: 10/08/08  
修正日: 10/08/08  

原動力の正体

よくもわるくも、それで動き始める


「生きる事は苦である」アルボムッレ・スマナサーラ師が冊子でそう書いてて、その説明が
書籍の中でされている。人の「幸福」は妄想であって,それより先に「苦しみ」が常にあり
その一つの苦しみから逃れだす事によってこそ、人は歩みを進められるくらいに考える方が
順当である、ということだった。

いくつかの事で心当たりがある。希望、要望、明るい未来、夢、綺麗な言葉で邁進してる方が
見栄えはいいんだろうけれど、だとしたらスマナサーラ師の言葉にであっただけで,こうも簡単に
そうかも、って思えただろうか。

なにかにおびえてはじめたり、怖がったり、嫌がったりして、私たちは次の事に心を移し始めることの
方が多いように思う。いや、いい加減に,曖昧にしちゃ駄目だな。多い、と言い切ろう。多い。多いよ。

希望に燃えて始めたんだ、という看板が欲しいうちは、まだ渇望の域ではない。見栄えなんかにこだわって
いられなくて、世間体もかまってられなくって、一般常識も相手にしてられないからこそ、そのしがらみから
遠のくことからはじめなくっちゃ、と気づく。

ちゃんと一人になれてから、一歩を踏み出すだけなんだ。誰のせいにもできないことは分かりきってて
弱ったなあ、とかひとりごちる。そこで気づく。見えてるものが、変わって来ている事を。
自分が弱るくらいのところに身を処すと、それまで自分がなにに守られたり、かばわれたりしてたかを
「体験」する。当たり前だったものが、当たり前じゃなくなることを「知る」だけじゃなく、
体験して「分かる」ようになる。そしてそういうことが「いいこと」でも「わるいこと」でもなく
ただ「そうなんだ」と腑に落とす。脳、頭じゃなく、内臓で理解する。それ以外はない、なかったと
思い知る。それが早くのど元を通り過ぎ、飲み下し、臓器に入り、消化できれば幸い。

飲み込むのもとっかえつっかえの状況で「早く終われ、早く終われ」と呪文のように唱えたくなる
苦しさを、スマナサーラ師は「それが基本」とブッダは発見したと、本に書いてる。

見渡して、「何かと比べる」ことが上手な人は、常に「比べる」ことで「いい」とか「悪い」が発生してしまう
生き方を選んでいる事になる。いっそ「知らない」「気づかない」であれば比べる事もしないままに
安静な心持ちで過ごせるのかもしれない。

そういう優しい嘘が、世の中にはたっぷりある。


優しんだけど

私はそれを無惨な優しさだと思う。

逃げ出すようにはじめたことが、逃げ出すようにはじめたからこそ、「今度の自分」には普通じゃない
覚悟が備わる。普通じゃない本気が宿る。ちょっとやそっとで引き返さない理由がこもる。
後ろ向きみたいに響く表現にも思えるけれど。出だしは「後ろ向き」な気持ちでパンパン。
それでいい。
そういう積み重ねがその人の「力」になる。そういった一見「逃げ腰」「および腰」にはじまったことでも
それはそれで格好悪くはないんだと、分かる人には分かる。

「そんなことくらいで」と一笑に付してくれる人がいると、うれしくなる。苦しかったことは
そう悪くない。

今くらいの年になってくると、私の書いてるエッセイの程度は恥ずかしい内容であることがこのごろ分かって来た。
みんなそう思ってるからといって、言葉にするのははばかられるのが一般的。その点で私は幼稚。
あんまり「支障のない、やり過ごし方」ってものを慣れてみようと頑張ってみた事もあるけど、
駄目だった。自分はやっぱり、「忘れない苦しみ」を原動力にしてる。嫌なくせに、最大最強ののエンジンなのだ。
燃料がなくたって、放り込むものがなくたって、俄然燃え上がらせることのできる炉が備わってる人は
やっぱり強い。苦しくても嫌でも立ち止まれないくらい「じっとしてられない」ガムシャラを持つ人は強い。