作成日: 10/08/22  
修正日: 10/08/22  

ヘレン・ケラーさんのことがわかってない

アン・サリバン先生も全盲だったことを知らなかった


ヘレン・ケラーさんが見えず、聞こえずで10歳まで、ものには名前があること、言葉が伝達の
手段である事を知らなかったことは、広く伝え知ることのはず。
でもこのごろになってハッとした。聞こえない、見えない世界に生き続ける人が、世界の人と「つながり」を
持てるところまで、サリバン先生と一緒にたどりつけたということが、「知ってる」ばかりで、
とことん私は「分かってなかった」と強く感じた。なぜだかに、トートツに、感じ受けた。
わたしは、とにかく、わかってない!!わかってないよ、と強く感じたのだ。

自分の身として、想像をしていない感じが強くしたのだ。もちろん教科書とか学校、テレビで聞きかじった
ことはある。はじめて聞いた時は驚いたんだと思う。

でも今日、今,感じているのは「聞こえない世界」「見えない世界」から、見えて,聞こえてる人たちと
人生を連結させるところまで「自分を引っ張っていった」という尋常ではない工夫と努力と発想と
言うに言えない不思議な感覚がないまぜになったまま走り上げた、その軌跡が、すさまじくも素晴らしいと
感じ受けた。

「1リットルの涙」という本を読んだときに、体が自分の言う事をきかなくなっていき、最後の方では
見えず、聞こえずの世界に自分一人が過ごしていくといった描写に近いものがあったところで、息が止まった
感覚を覚えた。
こんなに怖い事がある。

ヘレン・ケラーさんが幼少を過ごした間に感じ受けてた「世界」が想像できていない自分が、なんだか
おかしかった。「見えない」「聞こえない」ということは、体に感じ受ける情報のかなりの部分を
「なし」としたままで「生き続ける」ことの、底知れぬ怖さを「想像できていない」自分の浅はかさが
なんなんだ、と思う。

ヘレン・ケラーさんの話は知ってる。でも知ってるだけ。知ってるだけで、なんで済んだんだろう。
自分の中で、どこか彼女の話が「頑張って、すごいことを成し遂げた人」に部類されてしまってることが
嫌んなった。すごい、じゃないよ。すごいとかすごくない、じゃなくて、見えない、聞こえないという最中で
生き続けて、希望を感じ受けて、見えない、聞こえないままで、社会にコンタクトできた、この勇気の
仕組みを「気にしないでこられた」ことの鈍感さ。着眼点の悪さ。本当に注目し、考えるべき項目に
たどり着いて来れないで済んでた悠長さを、ほんの最近、強く自覚した。

ヘレン・ケラーさんは偉人さん、という杓子定規にツイ、と入れておしまい、に済ましてしまえたこの感覚って
なんなんだろう。本当に気づくべき視野・視線にパッとたどりつけていない、この思いやりのなさというか
鈍さというか、ひどさってなんなんだろう。その人が心底苦労工夫してたどり着くに至った「核」に
触れに行こうともしてなかった「自分の感覚」が、突然に怖くなった。

「年間に3万人」の日本の自殺者も、わたしにはきっとよく分かってないと思う。
一人自殺してもその理由を深く洞察も考察もしないで「済ます」という自分の神経のあり方が
「おっかしーんじゃねーの?」と思い至った。いいのかな、こんなふうに済んでて、って。

この「済まし方」「やり過ごし方」ってずいぶん昔からの教育の流れのものなのか、自分が生き抜く上で
してきた発明品なのか、ヘレン・ケラーさんの乗り越えたものが、本当に私には分かってなかった。
じゃあ彼女が世界に有名になったからといって「見えた」わけでも「聞こえるようになった」わけでもなく、
見えずに、聞こえずに、それでも世界につながる人として凛とした美しさを放つ人格を得たことは分かる。
ここでもなんか、自分の中で誤解があった。なんだか、どこか、ヘレン・ケラーさんはハッピーエンドのように
自分が受け取っているような感覚でいたが、聞こえず、見えずのままなのであり、世界に向き合う
「自分の強さ」を得た、という話である。彼女の人格の部分は素晴らしい。ここでは「聞こえない」「見えない」
ままであることを、自分がどこか物語の後半で、軽視、というか、見過ごして済ますようになってる感覚を
強くしている事実が気にかかっている。

なんでこんな風に「自分がそう思いたい」方向の気持ちを強くして彼女の話を解釈してしまってたんだろう。
こんな「啓蒙」めいた結論の話で済ませたくない部分を、自分はなんで無視して来れたんだろう。
ヘレン・ケラーさんの話というのを、私は今感じ直そうとしてる。それは「彼女は頑張って、世界との
つながりを手に入れました」という次元ではなく、「彼女は聞こえない、見えない」ということそのものを
幼少の頃に比べ、きっと解釈を大きく変えたまま生きたと思う。その事実に変容のないままであるのに
世間は彼女を讃えてるけど、そこじゃなく、彼女自身が手に入れた「見えない・聞こえない」ことへの
解釈そのものはどうやって芽生える事ができたんだろう・・・いやいや、なんでヘレン・ケラーさんの
話を「こんなに分かってないまま」なのを放置できたんだろう、の方か。

なんかわかりにくいエッセイになってるだろうな。
大枠でまとめると「私はヘレン・ケラーさんが小さい頃は苦労したけど、大人になって社会に自信を持って
向かえる人格者になりました、といういい話で済ませようとしてました。見えない・聞こえないことの
恐怖を『1リットルの涙』で予感してたというのに、どこか大人になったヘレンさんは、見えないけれど,
聞こえないけれど、幸せになったんだよ。めでたしめでたし、ってしたがってる、済ませたがってる自分を、
世間を感じたんです。どうもこの『ハッピーエンドでいこう』側の発想のせいで、本来すべき想像や洞察を
ずいぶん簡単に放り投げてるという事実が無性に気になり始めたんだけど、これってきっとみんなには
うるさいだけなんだろうな」ということ。

「見えて、聞こえる事の方が幸せ」って話にしたいんでもない。そんなことは各々の人が決めて生きればいい。
周りはやいのやいのいわんでよし。そんなことはいい。

なんでこんなにもヘレン・ケラーさんのことが分かってないんだろう。
それも、なんというか、自分だけじゃないという、どこか「みんな一斉に気づいていくべきものを捨て去ってる」
感覚がひどく強い。なんだろ、この「一斉にむげな感じ」。俺一人が馬鹿なだけなだけだといいんだけど。
いや、ヘレン・ケラーさんの話が顕著なだけであって、他にも「本来突き詰めるべき感覚」をするーりと
横ちょにそらせて、ケガなく「やりすごしてる」感が、どうもなんだかたんまりある気がして来た。
あってるか、これでいいのか。おっかしいんじゃないか。