作成日: 10/09/13  
修正日: 10/09/13  

居場所ができてくる物語

ガンダムのこと


先月も込みで、2度ほど実物大ガンダムってのを静岡に見に行ったいいお年のワタクシですが、
いまだにアニメになってるのね、ガンダム。実物大をみてて感心したのは、これにゼータだの
ユニコーンだのと、あれこれ作るのではなく,ガンダムひとつだったことがよかったな、と
思ったのです。

でっかいガンダム一つ、というのが潔くてよい。一緒に行った仲間がしきりにコアブロックシステムは
あのサイズで入るんだろうかって言うんだけど、正直考えてなかった。「でっかいなー」以外に
なんにも考えずに、ただ「でかいなー」と。お土産もカスタードケーキがおいしいよ、って、すっかり
ガンダムというよりも「観光気分」が強い。

さて、最初にやったガンダムだけが好きで、それ以外のガンダムは「見通してもいない」人の方が
大半だと思う。実際私も「ターンエー」くらいしか見通せない。
んー、なにがつらいんだろうって思うと、放映当時と現在の扱われ方に差があるなあ、と思い出して来た。

放映当時はアムロの成長物語の側面がしきりにほめられてた気がする。それまでのロボットアニメは
主人公が正義感に燃えて、熱く正しい紋きり型のヒーローだったのに対し、アムロのぐずぐずとした
決断のつかないところから始まる物語のスタートがびっくりだったはず。お母さんに甘え、お父さんと
確執があるヒーローなんて存在しなかった。物語の後半でこそ「ニュータイプ」とかいう概念で
すっかりなにか主流をかっさわれた感じがするけれど,1話でマニュアル読んでたアムロが、最終話の
「脱出」では「ジオング」と真正面から死闘するところまで「成長」し尽くすところまできた。

「オーバーマンキングゲイナー」でもそうだったけれど、富野監督は「その時代のマイノリティー(少数派)」を
主人公に持って来て、光の当たるところまで持っていこうとする傾向がある。
アニメ好きな男の子ってのは運動でも勉強でもそれほどの冴えを発揮してないから,アムロの示すしみったれた
感じ,ふてくされた感じは、どこか居心地が良かったはず。

昨今のガンダムの主人公は、影があるにしても、華もある。素養もある。力があって生き抜きそうな
バイタリティーを感じる。丈夫なのだ。頑丈なのだ。素敵なのだ。つまり、スタートラインが違う。
アムロは放っておくと、一般人としてマイコンとかいじってそうに、あっという間に埋没できる位置に立ってる。
見逃してしまうと、見失う位置にあるからこそ抱く「ハラハラ感」が、今の主人公に感じられない。

ゼータが見続けられなかったのは、アムロが成長されてては、彼のみっともなさからの「居心地の発見」までに
光を当ててたという、暗なる期待が、むげにされてたからじゃないのか、と自分では思う。
「すでに居場所を見つけてる人」の言葉を聞くのは、なかなか面白くなれない。会社で上司の自慢話が
いっこうに面白くならないのはそれが原因でしょ?カミーユの「熱さ」は息苦しいな、と見る側の
「正直さ」も重なって、見る気が起こせない。

アムロは叫ぶよりもつぶやく、とかやけになって叫ぶ、という「みっともなさ」をアニメに持ち込んでる。
エヴァンゲリオンのシンジ君もそう。ぶざまさが、デフォルトにしみ込んでる主人公。

現代、日本社会の経済事情は、高度成長期、バブル期に味わった「高揚感」を得られないまま、社会に
生き続けなくちゃならない可哀想な大人で一杯な訳で、一言で言えば「居心地のない場所に無理矢理いる感じ」で
違和感をパンパンに腫らせて過ごしてる。
私たちがガンダムに見るのは「ニュータイプ」とかいう、エスパーめいたものよりも、「居心地の発見」をなし得たアムロの
「運の良かった物語」なんじゃないだろうか。