作成日: 10/09/21  
修正日: 10/09/21  

本当に駄目な人は最後の方で隠しきれなくなる

表っ面はよくてもしようがない


日頃切れ味のいい人が、土壇場んでどーしよーもない醜態をさらしてしまうことがある。
それはエピソードそのものがナサケネーとかいってるんじゃなく、起こる事、起こった事に対する
その人の覚悟のなさ、最後の最後まで隠しきるだけの度胸も準備もなかったことが見苦しいのだ。
普段、いい人である人ほど、このガックリ感は大きい。一方で土壇場を見越して、それそこまで
切り札を隠し持ってたかのように、それまで見せないで来たカードを切る人もいる。それをされると
「そう、ずーっと、それを使うつもりがあったんだね」と根深い不信感が拭えなくなる。

つまり、最初に見せたものは、最後まで通せるくらいに変化のないものであるほうが無難なようなのだ。
無難が素晴らしいとは言わないけれど,イレギュラーにいろんなことが人生には起こるから
何が起こってもうろたえないで済ませるくらい、幅のある「自然体」が確保されている人に出会うと
信用できるきもちになる。

多くの人ってのも大きく2分されてるもので、突然の事態に「凛といつも通り」しかない人と,
ホイホイと心変わり、すいすいと態度豹変って人のどっちかになる。
変わる人は、だいたい駄目ですね。長続きしない。信用がなくなるし,まず取り戻せない。再起しない。
変わる事そのものは悪いものではないだろうから、「変わり方」ってのにも質があるんだと思う。
そういう意味では、変わる人、っていうのはよほど上手に品良く変わらない限りは、おおむね嫌われる。

日頃の生活に支障のない程度の嘘とか虚勢を張ることは誰にでもある事。いざというときに、それを翻す事は
とても大きな損失につながっちゃう事を知ってれば、あまり多くの嘘・虚勢は張らない方がいい。
見栄え,表っ面なんてのはそんなもんだ。その場その場をせいぜいしのぐ程度の生き方は、あとあと激しい
虚無感に捕われる。なーんにも自分はできなかった、と。

多少不細工な生き方になっても、ひとつひとつコツコツ手に入れる生き方が一番綺麗な気がする。
駄目なケースをたくさんふまえるほどそう感じる。
きっと当たり前な事を書いてますね。当たり前なんですよ。でも当たり前じゃない人の数の方が意外に
多かったんですよ。種をまいてすぐ収穫するつもりの人が多いんですね。収穫は、うんとあと。
遅いものほど、実りは豊かで趣き深い。それを知るには、まずもって時間がかかるんです。待てるかどうかなんです。
スパンの短い生き方を人生の初期に決めた人は、長く苦痛の時間を過ごす事になる。
見通すのも力のうち。