作成日: 11/01/13  
修正日: 11/01/13  

一生つかえるもの

「思った通り」じゃ足りない


通勤時間が行き帰りと2時間できたことで私の読書量は増えた。ハードカバーなら1日で
終わっちゃうからなるだけボリュームのあるものを好むようになった。そして内容の薄い本は
読み始めて5分で分かるようになり,そういう本を持ってでかけちゃうと、残り1時間55分分の
楽しみな読書タイムが苦痛に彩られてしまうので、慎重に本を吟味する癖もついてきた。

そんな本の中の一冊で「欲しいものばかりみてると、欲しいものしか手に入らなくなってしまう」といった
ニュアンスの事が書いてある本があった。
んー

んー


いいんじゃないの?
欲しいものが手に入るんなら

と、そう思いたがる節もあるでしょうが、
いいニュアンスを伝える言葉だなあと感心しました。

「手に入れたいもの」しか手に入らない、というのは、一見幸せです。
自分が、手に入れたいことは、手に入れると幸せです。
達成感、満足感があります。

自分がそう願ったからです。
その時の自分がそう願って、かなったことは、とってもうれしくて、満足で、幸せな心持ちになります。
その時の自分には、ね。

そういうのは、長続きがしない類いの幸せになりがちです。
まず、すでに達成しちゃってます。
ピークを越えてしまってますから、下降感が残ります。

生きるのが長引いてくると、人は「自分の思い通り」なだけじゃ足りないカモ、と感じてくる部分が
生まれてきます。若いうちは特に「かなう」ことがうれしくてうれしくて万歳な感じです。
ホクホクです、ウキウキです。自分、が今の自分であって、自分の要望が通るだなんて!と発奮します。

若いうちにはあまり「自分が変わる」ことを念頭に置きにくいものです。
変わるんですね、人。
自分は自分、とか思いたがるのは放っておけば当然の感性なんですが、若いうちから「自分の今の
好みなんてものは変わるんだから」と承知でいる人なんてのは、とんでもない目にあったか,
老成して面白くないヤング時代を過ごしてしまう人のように感じます。

その時々に自分を喜ばせる事に執心してると、「長続きしないもの」の連鎖の繰り返しが体験則になり
年配になるころには「どうせなにやったって」と、しょんぼりとした性格になるような気もします。

日々世の中が変化してくる時に、このごろは「一生働ける仕事」そのものがなくなりつつあり、若いときに
将来有望であったはずの企業が、20年と持たずに「会社ごとなくなってる」時代。
会社がでかかろうと小さかろうと「20年ももたない仕事」ばかりに見えてくる時代に生きる我々は
なにかにしがみついて生きていられた親の世代の教訓・生き方が踏襲できないようにできてる。
年配の方の言葉を鵜呑みにして、ひどい目にあっても、鵜呑みにした人のセンスが悪いってことで
済まされちゃう気がします。

「一生働けるかどうか分からない」がデフォルトと考え始めて働く世代。
実際20代で働き始めて、40代で家族・家を持たされたまま会社から放逐、または会社ごと霧散、に
備えて生きなさい、とアドヴァイスする人なんて、いない。かといってそういうことに怖がって生きていると
そのまま怖がりっぱなしのまま人生が帰着しちゃうくらいの長さしかないことにも、切なさを覚える。

「欲しいものしか手に入らない」
この考え方の根底にあるのは「自分が欲しい」を前提に、人は動いたり、感情を使ってしまったり
してるけれど、「自分」は年を重ねるごとに変わるし、若い時の自分と年配の頃の自分の感性は
変わってると、若いうちに覚悟できてる人は少ない。まして人生は「若いうちに決めたもの」の
連続で「年配の時の自分」へのレールが出来上がってるから、若い時の感性が、どれだけ年配の時の
自分の趣向に沿える準備をしてるだろうかなんてヤングは皆無に等しい。

それこそ「一生つかえるもの」というのは「変わっていく自分」をまず予感できる人でなくちゃ
準備もできない。そして「変わっていってる自分」と「まだ分かってない未来がどうであっても、
どう変わっていても」つかえるものを準備するってこととも言える。

発想そのものを転換してみる。

「自分の欲しいもの」がスタートラインだから、どこまでも浅はかな、ショートスパンな「満足」しか
手に入らなくなる。ラッキーの連続程度の幸せ感。

それではなしに、ですね、
「自分がほしいもの」はさておいて、「自分が欲しいかどうかも分からないもの」を期待することに、
自分を打ち込ませてみてはどうか,ってことを言いたいのですよ(とサンボマスター風に言い切ってみた)。先生。

「自分が欲しいかどうかも分からないもの」なんてワッカンネーよ!と怒りもごもっともですが、
前に引用しました「自分の欲しいものしか手に入らなくなる」ことは、結局「自分に分かるもの」で
周りを固めるだけのことであり、ある趣向・傾向が推し量れるものが寄り集まるだけの「ゴタゴタした」
感じにしかならないんだと思うんです。
まして他人には面白くもなんともないものが勢揃いしてるだけの人になりがちで、さほど大きな広がりを
持てない世界観のまま没します。それも悪いとは言わない。

「今、思ってもいない」ものに出くわす生き方をするには

将来、何があってもさほど嫌な気持ちでがっかりしない過ごし方とは


そんなことを考えてみると、「自分が欲しいと思っているもの」ではじめた生き方は、それをゴールの
ひとつに据え付けるのは、「思った通りになって、ツマラン」で終わる気がします。

「今の通りじゃない自分」にも長く続く満足が与えられる準備をするには想像力が要ります。
やっぱり「積み重ね」なんですよね。自分が蒔いてる種しか実らない訳です。自分が蒔いてない
種も実る事があります。そのイレギュラーな種まき全般の総刈り取りが、愉快であるのが「いい一生」です。
その肝心なキーワードは「思った通りじゃない」だと思います。

思い通りじゃなくて、面白いことに!

そこに向かっているかどうか、が今の私には肝心なことのように思えるのです。
(やや不燃焼気味な終わり方ですが、言い切る、書ききる事がかえってニュアンスを殺す
 内容を扱ってる感じがしてます。随時この後の文章をつらつら恣意的に考えてみます)