作成日: 11/01/19  
修正日: 11/01/19  

同じ「読む」でも全然違う

ネットサーフィンと読書の違い


時間が取れるようになり、読書に本腰をいれてみようと思った矢先、はて、読書は楽しいのに
ネットを見てる時のあの「喪失感」といいますか、「所在なげな感じ」は全然別物だなあと
ふと思い立ち、こうしてエッセイにしたためております。

基本的にネットサーフィンは疲れます。有用な情報でもメールでも、私は疲れを覚えます。
そしてどこか心の奥で「できれば使わないで済む方がいい」と感じた「静かな抵抗感」が残ります。

一方読書は「好きなときに好きなだけ進めて、好きなときに閉じる」感じがして実に好感度です。
ヒョッ、と好きなページに繰り出せて、早送りも巻き戻しも便利な感じです。

同じ「読む」「見る」という行為が、脳の中で分けられています。
ネットサーフィンは基本的に「便利」さで使っていますが,読書は「楽しさ・うれしさ」が
先行してます。個人的にパソコンでゲームをしないので、パソコンを使った「楽しさ」が
少ないせいもあるでしょう。

ネットサーフィンは「目で追う」感じがしますが、読書は「脳で判断してる」感じもします。
ああ、そうかぁ。ネットは「感じる」が強く先行する印象です。新聞にせよハードカバーにせよ
読書は「脳の中で組み立てる」姿勢がある感じがします。

ネットは「便利」な感じがする,と書きましたが、もうひとつは「ことごとく『買え!』『知れ!』」と
なにかにつけそうした心理に、こっそりリンクさせられる苦痛が、根底に感じます。
そのシレッと組み込まれた静かな「誘導」みたいなうさんくささが、生理的に拒否してしまうんでしょうか。
基本的に「放っておいて欲しい」ので、サブリミナルみたいに、それとなく推されるっていうのも
嫌なんです。読書、新聞ってものはそうした「仕込み」を見つけにくいので、ホッとしてる
感じです。

冒頭に書きました「ネットした後の喪失感」とは、「自分の時間は自分の好き勝手でいたい」ことに反するが
故の事のように思います。

自分の意図以外のものに時間を、しずかーに、勝手に滑り込んで利用されてる余地が
あって欲しくないんです。広告バナーでも、文字リンクであっても嫌です。シンプルを嗜好してる
最中なんですから、できるだけ情報量が洗練されてて欲しい。余計なものにそらすものが満載の
ネット文化は、「脇道の嵐」です。すうっとシンプルでいたいときに、「あれも、これも」にさせやすい
ネットは、はからずもしんどいのです。ぼうっとしてるときに、ずんずん詰め込まれてきて、嫌なんです。
常々どこかにたどり着かされている感じ,っていうんでしょうか。

上の事がガジェット好きな私がipad、iphoneに走らない理由のような気がします。
読書の「真の便利さ」のほうが好感できます。ネットのは「眺めてる」なんですよね、基本的に。
感覚的な印象ですが「身に付かない」ことが多いです。