作成日: 11/02/07  
修正日: 11/02/07  

貪り(むさぼり)

食べる事で気づいたこと


タイに日本人でテーラワーダの実践をしてるお坊さんがいて、その本を読んでて気づいた
ことがある。午後からはご飯を食べないしきたりらしく、午前中に食事が完了するんだそうです。

え、お腹すかないの?とか思いながら読んでて、その文中に「むさぼりの食事」という表現が
あった。1日に3食が当たり前になってきてる日本人の食事は、実際に体が生命維持をするのに必要な食事量
というものではなく、習慣や欲求による惰性のような部分が往々にしてある、というような内容だった。

これにはなにか自分にも心当たりがあって、実際ここ数ヶ月、私の食事量を意識的に制約してみてるんだけど、
疲れやすくはなったものの、頭はかえってすっとしはじめた。ぽっこりしはじめてたお腹も戻ってきてて、
体も軽い。

一方で、ちょっとしたストレス状態になると、すぐにコンビニなどで菓子、刺激のある飲み物やアルコールに
手が伸び、憂さを晴らすための「暴飲暴食」が身に降り掛かる事を自覚できるようになってきた。
本当に「食べ物で気を紛らわす」ことができる。意識してないと、自分がそれに片足を突っ込んでいることは
気づかない。自分が「そうしたい」と思ってるから、止める心持ちにはならない。実際そうした飲食のあとは
食べ方も悪いし,栄養もあんまり充足できずに体から大量に出て行く。ごみもたまるし、整頓に手間取る。

シンプルな生活を心がけるようにすると、心と体の「貪り(むさぼり)」の部分を、どう自覚的に把握するかに
その生活が続けられるかの成否がかかる。だからここ数ヶ月の生活は我ながら無惨な惨敗続きだった。

やりはじめたのは「食事量の制限」「悪口を言わない」「家計簿をつける」。
これらをすると、自分がいかに自分のコントロール下にないかが「自覚的」になる。
偉そうにこれ打ってるけど、まだ無作為に雑な事をしでかしちゃう部分を飼いならすに至ってない。
無用な出費も、喰い散らかしも、まだ1週間と我慢できたことがない。

体に必要な分だけ食べる、という動物本来の食生活を裏切った「人間」というのは、「貪り」を
ぐんぐんのばしている。地上で一番多くいる単種の生物「人類」に一斉に貪られると、「食べられる側」の
生き物は「死なないでいい死に方」を重ねる事になる。食べられないで済むはずのパイまで
「貪り」でがつがついってしまえば、「無駄な死」もまた重なる。

鳥インフルエンザの発症で、発病も感染もしていない鳥たちまでが「早急」さに求められて、迎えないでいい死を
万単位で行われた。この命は無駄死に。
この命の数が人類で起これば大虐殺。でもニュースからはそんなニュアンスは受け取れない。

鳥ならいいの?
鳥なら死んでいいの?
運良く「人類」に生まれついだからってだけで生きながらえてる命の方が尊い、といいきれる?

人類が「鳥の玉子や肉を安全に貪り続けられるためだけに」、鳥たちの大量殺戮は続く。

そういう殺し方を続ける人類は、他の種類の「命」たちから、大事にされるだろうか。

私たちが「貪る」ことを自分自身でおさめないことには、雑な命のあしらいを、私たちは漫然と続けちゃうだろう。
大事にされたいのなら、まず先に大事にする。大事にしなくてもいいけどそのときは結果を受け入れる覚悟をもて。
食べる前の「いただきます」は「他の命を、私の体にいただきます」の意である。そういうのを貪ってて、
いいはずがない。

生きるのに必要最小限の「いただきます」というマナーをぶっちぎる生き物のままじゃいけないだろう。
そんな高尚な事考えて、今の生活になってるわけじゃないけれど、雑な事してると巡ってくるんだよね,
自分の身の回りに結果が。運命論者ってんじゃないけど、丁寧に生きてないと、とんでもない目に遭うよ。
世の中の仕組みって連結しまくってるから、雑な事は避けたほうがいいな。