作成日: 11/04/02  
修正日: 11/04/02  

生きていく時の知恵

苦しい時こそ自分のストックが光を放つ


まだ地震が起こって半月ちょっとだけど、ようやくその呼称が統一されそうです。
それくらい、混乱は続いてるし、その収束にめどがたたない印象です。
みんな頑張ってます。すごく多くの人が、それに力になろうと迷いながらも
同じ方向に向こうと努力しています。

ほとほと、つくづく、「いざという時」のための準備ってできてないんだなと感じてます。
緊急時の準備、備えを家の出口に用意していても、今回の津波のようなスケールで
襲ってくるものに、家ごとやられてしまうんでは、「備え」ってものの「スケール」から
見直さなくちゃならなくなってるのに、そういった面での教育ってのは「想定外」という
言葉で片付けられちゃうから、事後に生きた教訓になりにくい。

備えをする、というのなら、知恵、なんじゃないかなと思いました。
人間の、生きてる事から信じ得る「知恵」。
おじいちゃん、おばあちゃんの生きて過ごしてきた人たちの含蓄がぎゅうぎゅう詰まった
「知恵」こそ、受け継ぎ、拡散するのがいいんじゃないかと思うんです。

住めない、食えない、などの被災者にとって、その当事者は「自分の心がどう動いちゃうか」こそ
一番怖がってると思うんです。
自分の事なのに,いまや自分の思い通りになることが以前より随分減ってしまってる心持ちに
なってる時に「自分らしく」でいられないんです。まして近い将来の「自分のこと」ですら
「きっと大丈夫」と思う事すら怖くなっちゃうはずです。

不安を覚える事が悪い、とはいいません。不安になって当たり前。不安を覚えないなんて嘘。
かといって真っ向から対峙するには、かなりの「心の面」での勉強がを粘り強くやってないと
太刀打ちできない。
今回の震災では「何が起こっても、生きるために太刀打ちする自分」の準備こそ、徹底的に
足りなかったものの筆頭なんじゃないかと思うんです。
あまりにも、人の心に「なんの準備もなく」真正面から震災が来ました。
あんまり大きすぎるサイズで、それも不意打ちで、人に降り掛かりました。襲いかかりました。
自然は卑怯です。卑劣です。無惨な不意打ちをしてきやがりました。
理由もなく、人から命とか絆とかを引きちぎりました。
子供にも大人にも,年配の方にも、病床の人にも情け容赦なく不意打ちしました。

これを「想定外」で済ませる気持ちに、どうしてもなれません。
「想定外のものが起こりうる」つもりの考え方を、私たちはどうしてしないで済ませてきてたんでしょうと
今は思うんです。
「バカみたいなスケールの想定外」を予感しつつ、「どんなことだって起こるかも」を腹に落とした
考え方をできる人が、いったい何人いるっていうんですか。
あんまりにも準備もなく、「想定外」「想定外」「想定外」のオンパレードにただただ翻弄されてるしか
ないっていうんですか。

「なんだって起こる」を前提にしたさなかで「生きる」ことを、勉強しておかなくちゃいけない
時代に向かってるんです。

「なにが起こるか」を想定することじゃなく、「なんだって起こる」ことが前提の考え方。
もう一歩進むと「何が起こっても通用する」考え方を、人は備えもっておきたい心持ちに向かって
いるんじゃないだろうか。

私は運命論者じゃないですし、宗教家でもないので、そうした方面の知恵者にそうしたアドバイスは
ゆだねるとして、これからを生きる人が「心のどこかで、地面に足をつけたものの考え方」を
していくためには、もっとこう、「自分はなにか起こった時に生き残れる」思考回路が要ると思うんです。
今の時代、それが「皆無」の人だっているじゃないですか。悪かないですよ。でもそれじゃあ
いざという「想定外」の震災の前に、あまりに無力すぎる。あまりに無惨な目に遭いすぎる。
あまりに「立ち直りができなすぎる」ままじゃないですか。

「どうやって生き残っていこう?」を日々過ごす生活の中に、リアルなものとして想定できないで
過ごして来れた「昭和ー平成」を境の前後20年づつが、今回の震災で吹っ飛んだ気がします。
「なんとなく」で生きてこられた、生き物としては「不自然なまでの自然体」が、どうもおかしいんじゃ
なかったのか、という気にさせられます。

どうやって生きていこう

多くの人が今、若かろうと年配だろうと、かつてない人数で,一斉に、そう考えることになりました。
実際「部分停電」の余波までいれると、多かれ少なかれ「なんにも知らない」人なんてほとんど
日本にはいないはずです。こんなに大きなサイズで、こんなに多くの人が直接的にも間接的にも
婉曲的にも迷惑を被っているというのに,その誰もがそれに決定打も解決策も出し切れずに
おおむね悶々とした気持ちでいるしかない。

「考え方」の準備ができなすぎたまま、この震災をむかえた気がしてならないんです。
なにかにすがれ、って言ってるんじゃないんです。ひとりひとりの人に「準備がされなすぎたまま」
ここに立ち会ってしまった気がします。
もっと、準備できたんじゃないか、と。

震災はそれが顕著に分かっただけのことです。
もう少し,こうした「考え方」のスケールを越えたものと「向かい合う」だけの知恵を、
私たちは持っていた方が良かったんじゃないか。
私はもっぱらそれを「想像力」って言葉で安直に言い回してたけれど、それはそんな
「あっても、なくても、いい」といった塩梅(あんばい)の類いのもんじゃなく、
「人が生き残る時の、根っこの考え方」として、サバイバル術、サバイバル思考の太い幹に
なる「勉強」はなにひとつできないで、ここまできてしまったんじゃないだろうか。

知らずに生きて来れたいい時代の連鎖の末端に,私たちは生きて来れた,て思うべきなのかもしれない。
悲観して書いてるんじゃないよ、この文章は。
あんまりにも、今回の震災に「自分の中のストック」のことごとくが役に立たなくって、びっくりしたんだ。
なにひとつ、なにひとつ役にたたないんだって、思い知ったんだ。ねじ込まれたんだ。

嫌だ嫌だといってるのに、こっちのことなんか関係なく、詰め込んできやがったんだ。
こっちが壊れようとおかまいなくの態度で、ぶっこわれようと知った事か,さあ、こうだ!と
震災はいろんなものを押し付けてきた。

二度とこんな目には遭いたくない。
できることはなにかを「想定」することじゃない。
「想定」という「妄想」の範疇の事に右往左往させられたんじゃ、人災に近いニュアンスすら感じる。
想像できるものに依存した準備じゃ足りなんだ。てんで足りない。
祈りにも似た威力で、自分をなにがしかの「想定外」に備えて「応じられる」準備に心を使っておきたいんだ。
「なにがあっても」に備える事ができるとするなら、それは
「自分の心の持ち方」でしかないんだ。

「気をつけましょう」「頑張りましょう」「いつかはきっと」くらいじゃ、この極端なピンチのさなかでは
心は負けてしまう。折れてしまう。粉々になってしまう。
「まず、生き残れる」という確証めいた「誤解」でもいいから『安心』が必須な時代に入っていってる。
安逸な根性論なんかじゃ生き残れない。長続きしない「その場限り程度のガッツ」じゃ3日と過ごせない。

今回の震災に見合う考え方のストック、まるっきり、ありませんでした。

おかげで無防備に死んでしまったり、生きにくくなったり、離ればなれになってしまったりすることに
「どう向かえばいいのか」すら分からないところに立ってしまいました。

なんだって起こるんだ。それも不意打ちでねじこんでくるんだ。
寝てようと、起きてようと、関係なく。無慈悲に。圧倒的に。

水を飲んで、行動できるだけの食い物を用意して、どこでも寝られて、どちらにも歩いていける自分を
用意するには、まずになによりも「こころの準備」「こころの教育」という備えが、要る。
それがあまりにも無防備になってる気がしてきてる。それが要るような予感がしてきてる。
どれそれを用意しておきなさい、というマニュアルライクなものを準備しようね、ってんじゃないよ。
そうした考え方の基礎になるものが、なーーーーーんにもなさすぎた、ってこと。
素っ裸で,この震災を迎えた教訓を、絶対手にしてやる。二度とごめんだ。二度とごめんだ。
絶対に備えてやる。

当たり前な不安を声高に書いてるだけのエッセイかもしれない。でも今これを書いておかないと
後日の別の日のタイミングじゃ、死んじゃうニュアンスもあると思う。だから書きました。
全然、腰のない宙ぶらりんなことを繰り返し書いてるかもしれない。でも今回の直感はいつもに増して
合ってるような気がする。全然言い切れてないかもしんないけど、そう感じたままを書いた。