作成日: 11/04/08  
修正日: 11/04/08  

「津波」を予感してる民族

震度6強の余震のあった夜に


夜の仕事中に、足下が揺れてる感じがしたので、仲間に「揺れてるよねえ」と言ったけど
「いいえ。全然」「揺れてますか?」と返されて、そのまま仕事に戻る。
帰宅する車の車中で、やっぱり揺れてたと分かる。例の東北地方の余震で震度6強。
これって余震の大きさなん?余震でこれ?本震並みだよ!

これまでアメリカ人の合理的な感じとか、ヨーロッパ人の「個人主義」に根付いた性分とか
中国人の大陸的な発想、に匹敵する「日本人」の民族性ってなんかないのかしら、とか
思ってたけど,今晩確信した。「津波」に対する感情  じゃないのだろうか。

日本人って潜在的に明るくのほほんとできない性分だと思う。
いつまでも、どこまでも「備え」を続ける。
政府がどんな方針を訴えても、外国が「ガイアツ」をかけてきても,国民は一向にその性分を
変えないと感じてたんだけど、ああ、これだったんだと思う。
「津波」の被害に対し、原子力発電所の放射能漏れに、政府が安全、安全と「言って」くれても
自然の放射線量ではない地域を作ってしまった以上,住民は憤りを覚えつつも、生きねばならない。

映像を見たりしても、根底で、住民たちは公の人の言葉を鵜呑みにしていないことが分かる。
自分たちの意志と、意思で信じたものの中で生きる事をしてるように見える。
でも、一緒に「被災した人たち」同士には確固とした「信頼」「結束」「絆」が見える。
仲間に迷惑をかけないで過ごす、という意思を感じる。

こういうことだったんだ。
日本人とは、「津波のあとの人々」だったんだ。
混乱しがちな震災・津波のあとで、理不尽な被害を被りながら、自暴自棄に振る舞えるほど
「雑に動く訳にいかない」ことこそが、なるべく多くの人を生きながらえさせてゆく最善の方法だと
直感して、伝統にした民族だったんだ。

基本的に「政府」ってものが一生懸命にしてても「間に合わない」ことも、どこかみんな念頭に
置いてて、助けに廻って来れないと。「覚悟」をとっくに決めてる顔なのだ。
だから「頼る」ってことが、あんまり念頭にないように見受ける。そして実際、そういう備えの
ある人しか、動けていない。

被災のさなか、もっとも機能する人間の集団サイズが、「世間」と呼ばれるスケールとも思う。
顔見知り、近所の人、という「その地域の顔見知り」による結託。
気心が知れているし、裏切れない背景もあるし、仕切りのない体育館で一緒に寝起きをするって
ことを「腑に落とす」からには、「世間」という仲間を信じる他ないんだ。
普段仲がいいとか悪いとか言ってられない。とにかく「一緒に行き伸びる」という共通の概念に
スッと入れる。これが日本人の姿勢のように思う。

日本人だと、山に住んでいようが、海辺に住んでいようが、根底に一種の「自然には理屈抜きで
やられる」という気持ちがしみ込んでると思う。それが「日本人の性格」とも呼べるものになってる。

見栄えのいいもの、聞き心地のいい言葉に突進できないのは「いざというとき」の備えの方を
優先するからじゃないのか。
箪笥預金などと揶揄される、基本的にどこか「銀行」ってものを信頼しきらない日本人の金銭感覚は
正しいんじゃないかと、今回の震災で強く思った。

当事者に対し、政府も、周りも、私自身も含めて、あまりにも非力すぎるんだ。
なんにもできやしない。なんにもできやしない。卑下してるんじゃないよ。悲観してるんでもないよ。
知るほどに、無力さを知り、それが立場を変えて、自分が被災者であっても「当然」と事態をそのまま
受け入れようとする姿勢が、予感される。
理不尽で、無意味な濁流・破壊・崩壊の連発を「怖い」といいつつも、「来ると思ってた」という
いい知れぬ「覚悟」が日本人にはある、そう思う。

「いつかは我が身に」と痛烈に思うからこそ,無力さを覚えるんだ。
他人事じゃないんだ。助けられる時は助けるんだ。明日の「我が身」を直感してるし、その予感は
正しいものだ。

だから地震で揺れてる地域も、揺れなかった地域も関係なく、日本人は直感として
「自分の事」を垣間みたんだ。誰か、どこかの他人事、じゃなく、原発の事も含め持って全部
「明日は我が身」をねじこまれたんだ。
そしてそれは「想定外」なんてもんじゃない。日本人はその腹の底に「津波の来たあとに生きる」ことを
予感としてわかってる民族だと思う。教育も根底にそういうのが流れてると思う。
その美徳に、その因習に、「自然には否応なくやられる」ことを、日本人はひとりひとりに「覚悟」を
備え持ってるんだと思う。
だから強い。だから強い。ひとりひとりが声高にしないまま「覚悟」をひっそり、でもがっちり持ってることが
「一斉に」効果して、強くなる。

「辛抱」という言葉がそうだ。「我慢」という言葉がそうだ。
「他者を優先する」というのとは、ちょっと違うと思う。他者、というのは、外国に言われるほど生き物として
隔離した「別個の存在」ではなく、どこか「自分の延長」に、日本人は「他者」を認識してると思う。
「あいつはあいつ。俺は俺」と言ってるほど、割り切れない性分なんだ。
他者、が言ってるほど他者にできない、という言い方の方がしっくりくる。私にはそう思う。
辛抱も我慢も、被災者が震災地で、少ない物資を均等な分配ができるのは、「他者」だと割り切れない
「お互い」を分かっているからだと思う。

日本人だから、なんて書いてるけど,これもゾンザイで横柄な解釈かもしれない。
他国であろうと、人はそうした気持ちを持てるものだと思う。民族の話じゃないのかもしれない。

どこか公のものを「あてにはできない」ことを知ってる、というのも、全世界同じ事かもしれない。
それでも、私は今晩強くそれを感じました。

自分の家を流され、家族の安否もわからないまま、他の人を助ける人たちがどんなに多くいることか。
言いたい不平や文句を、ぐっとこらえている人がどんなに多くいることか。
そういう「強さ」がどんなに強靭で、年齢や性別、属性に関係なく、世間一体となって「そうしてる」ことに
決め込んでいる事か。東北地方の人の粘り強さ、不屈さに頭が下がります。素晴らしい人間性です。
願わくば、こうした強さを発揮してる人たちに対して、なんと私たちは非力である事か。ちくしょう。

力づくの強さや、喋りの達者さ、賢さ、聡明さ、政治力の強さ、要領の良さなどなど、世の中で
使うと一瞬「便利」な程度の「強さ」が実にあどけなく、無力で無意味だ。
たった一つの「沈黙」「辛抱」「我慢」をする人たちの前でははるかに格下だ。
本当の強さは表に出てこない部分に宿ってる。本当にそう思う。そしてその強さには報いがあって欲しい。
そういう強さには、うんといい事が連なっていて欲しい。人知れず、いい思いを詰め込んであげて欲しい。

今晩の余震もさぞかし怖かったと思う。
夜中だし、電気は消えるし、なにより地面が大きく激しく揺れてる。こんなに怖い事はない。
地面が揺れるんだよ。もうなんだって起こるような気がしてこない?「揺れるはずがない」と
思い込みたがってるものが揺れるんだよ。揺れるはずのないものがまんべんなく揺れてるんだよ。
なんだってあるよ。そう思ってくるよ。そうなんだよ、なんだってあると予感してるからこそ,
「なにがあったって」という備えを人の心のほうでするしかないんだよ。

「起こるはずがない」という想像に負けたくなる気持ちは分かる。
でも、起こるんだ。ちくしょう。ばかやろう。

次善の策、なんだよ。「なんだって起こる」って考えるのは。
心は、そう思いたくないんだよ。全然思いたくなんか、ない。
ここに、強さが要るんだ。
ここに。

「なにが起こっても応じる」には、心を鍛えるしかない。
そして私は思う。日本人は、それが上手になるようになってる。いや、そう思いたい。思いたい。