作成日: 11/08/19  
修正日: 11/08/19  

しなやかに伸びること

「<問い>の問答」を読んで


なんだかこのごろネットの言葉がだんだん窮屈になってきた。攻撃できる相手にどんどん攻撃を
仕掛けるのが上手な人が、増えてきましたなあと思っておるのです。
どこまでやったら許されて、どこから先までやっちゃうと、法的に問題か、なんて加減に
どんどん精通する方が増えてきていて、いさめる、のも上手な人が増えてきました。

実はそのどっちも上手になってもシンドいなあ、と私は思ってしまうのです。
加害者にも被害者にもなりたくない人は、「ネットにつながらない」ばかりを選択しやすく
なってるよーに見えるんです。
「ネット世界、激流なんで!大けがしやすいんで!要注意!」という世界はいい世界じゃないよねえ。

そーじゃなくって、加害者にも被害者にも、カウンターするスキルも心配もいらないままで
「まぁまぁ」で過ごす方向であると、良いなあ、って話です。

<問い>の問答、という本が面白くて買ったのです。(南 直哉・玄侑宗久著)
お坊さん二人の対談の本です。お釈迦様は「言葉」を使って人々を導いたんだけど、
言葉ってものは、人の心を硬直化もさせるものにもなりかねない、って解っていらっしゃったヨネーと
(かなり大雑把に絞り上げました。本当はもっと濃厚で崇高ないきさつと検証の整った
本ですので、誤解なきよう)話が進むところがあって、大変心を取られたのです。

駄目な事や、失敗した事に対し、どんどんルールを作り上げ、どんどん首が絞まり、新しい事への
一歩が歩みだせなくなるその原因の一つに、「言葉で正しいと決め上がってるものの積み重ねで、
自分の動きや思考はがんじがらめになっちゃう」ってものがあるじゃないですか。
正しいから、で人々を含め、自分までも看破してしまうと、それを理由に、「正しい」以外が
できなくなる不自由を邁進させることになる。他ならぬ自分自身が「正しいので」で
縛り上がってる人は、その呪縛を自分でほとんどほどく理由を探せない。

正しさ、なんてものは変わるものなのに、その奔放さはさておいて、自分の中で決めてた
「正しい」の方はリロードされずに、再検討もされずに、頑とした蓄積を続ける。
とっくに「正しさの方は変更」されてても、自分の中の「正しい」は、もはや「すがる」ものに
変貌していることが、人にはまま、ある。

今のネットの人たちの、攻撃上手さが気になるのです。大変上手です。仕上げも上手です。
その上手さが、かえって心配になります。その言葉の巧みさが、巧みすぎて、嫌みなほどです。
この「カシコサ」の方向をば論議する手だてってないもんでしょうか。
リテラシー、って考え方も、怖いのです。そんなのおおかたの老人世代には「ネットに入ってくんな」って
言ってるんですよね?備え持ってないと、大けがするんですよね。

そんなメディアが自由闊達に向かえる素地を持つには、言葉での正しさの連呼、蓄積ではなく
大雑把に「まぁまぁ」ってところで済ます輪郭じゃないでしょうか。インターネットの
違和感は、実際の社会にある「耳の遠いご年配」のような、言っても、伝えても「んー?」って
とぼける要素の足りなさ加減じゃなかろうか、と思うのです。

タイトに、ハッキリさせよう、がまかり通ってるような気がしてなりません。
とぼけようよ。なかったことにしようよ。
証拠とか、ログを押さえてる、とかいう精密さがあるのなら「消えかかってる」「なかったことに
しない?」という人間味の再構成も、同じ量加減で味付けして欲しい。

ああ、ここまで書いてやっと自分でなに書きたいのかまとまってきました。
偏ってきてる印象があるんです。ネットの「強い人たち」のあり方が。
まぁ、メディアですので、得手不得手はありますでしょう。強みってものが伸びてきますわね。
んで、ネット上で、強くて、正しくて、正確な人たちが、どーも私にはいい人に映らないのです。
「カシコいなー」とは感じ受けるのです。

でも、
そばにはいたくない  んですなあ。

いい絵画って、絵なのに、風やにおいや、音楽を感じることがありません?
いい音楽って、風景や、絵が出てきません?
凄い写真って、音や、空気を読めません?

ネットには、もっとこう、たっぷりとした豊かさを感じていたいんです。
ケータイゲームとか、結婚についての悩みとか、芸能人のスキャーンダルとか、人の「隠しちゃいたい」
暗部ばかりが、強靭なスポンサーパワーになってるのが、本当すぎて、正確すぎて、嫌なんです。

ネット上では、言葉でやり取りすることがとっても増えます。
それもワープロ時代と違い、「他者と会話する」「他者と意思疎通する」ために言葉を頻繁に
使う時代になってます。それも「会った事もない」人との意思疎通です。
そこにはなぜか「心配を前提とした、保険めいた手だてのある会話」からスタートせざるを得ない、
独特の「毒」というか、「仕込みへの回避」というか、「ネット独特の他人行儀」があります。
(ネチケットとか言う言葉もありましたね)

今のネットに欠けてる「ご年配の方っぽい、独特のおとぼけ」って凄く大事だと思う。
まぁまぁ、そういわれりゃそうだけど、そこはひとつ、まぁよしとしやしませんか、ってな
一種落語のご隠居のような「とりなし」が、全体的に足りない。
いや、なに、「いいか悪いか、ジャッジしろ!」じゃありませんよ。真逆です。
「いいも悪いもありゃしない。所詮言葉でどーのこーのとやりあったって、らちがないじゃありませんか。
言葉のアヤってもんもありますわいな。」で「オトす」、そう、オトしておく部分ってのが足りない。

「いいじゃん」ってことですよ。
お互いに、まぁ喧嘩するほどのことじゃない、で済ます寛容さ、ですよ。
「双方のいい分は、各々解った。まぁそれはそれとして」ですよ。
私はネット上のほとんどが、それであってくれればいいのに、と夢見心地で、ひとりごちているわけです。

そんなことできやしないンかもしれません。
主張のある人が、お互いに折れなければ、どうとだって喧嘩になりますよ。いくつも、どこまでも、
やりあっていられますよ。そこに生き甲斐や、リビドーを発散させる人もいるでしょうよ。
怒ったり、喧嘩したりなんてぇのは、実生活でも十分たらふくじゃないですか?皆さん。

好々爺(こうこうや)のように、飄々(ひょうひょう)と、ぶらりぶらり、のらり、くらりと
ネット上で鼻歌うたってらぁ、的存在が出てくるまでには時間がかかるんでしょうか。

言葉、を使ってるからこそ、言葉、に自分まで乗っ取られてるような、言葉の使い方があふれすぎてる。
あいつがこう言った、こいつはこう言った・・・・それがなんですか。言葉ですよね。
上手に使いましょうよ。「言葉に使われてる」「言葉に思考を乗っ取られてる」ような人の数が増えてるような
気がしてならないんです。まぁ待ってよ、と。言葉はお金と同じで、「道具」なんです。
ネット上の「言葉を駆使する人たち」の巧みさは、その理論の華麗さよりも、「鋭さ」の刃先が
他者にチラチラ危なかしく映るんです。

私はネットを経由して、ほっこりと優雅に実生活へと軟着陸したいんです。そういう通り道であって欲しいんです。
だって、実生活には、そうそうほっこりする道筋ってないじゃないですか。(全然ないとはいいませんよ)

そう言う意味で、ネット上でも言葉の鍛錬も大事です。
言葉を使って、見ず知らずの人とも、知ってる人ともやりとりできるからには、言葉ってものの持つ正体を
解っていなくちゃ、すぐに「危なく」なれてしまう。こんなに簡単に攻撃できるメディアですもん。
炎上、とか祭り、とか消耗戦です。高揚するでしょうが、行き着く先は、不毛です。

こうした「言葉」が背負って持ってくる、リスクたっぷりの「どこか、誰かのイラッとくる」パンチを
無防備に回避できる方法を、オトシドコロとして解ってないと、こっから先の「言葉を使って、
言葉以外のものを伝える豊穣さ」の次元で面白がることに、移行できないですもんね。

言葉がゴールなんじゃない。
言葉を経由して運んできてくれたものが、人をウフフって気分にさせるんだ。
言葉に依存しない。でも言葉を使わないと、それは運べない。
だから「言ってる事だけ」で済ますんじゃなく、「言わないでいたことまで」も含めて、
言葉を捉えていける場所に、ネットが使えるといいですね。いいですなあ。