作成日: 11/08/20  
修正日: 11/08/20  

得るものがなぜ違うのか

感情、とか功徳、を日銭として例えて考えてみた


ネット上にエッセイ、実生活では「イラストレーション」と称したノートが、私の思考の
殴り書きのように、日々の感想を重ねています。思いつきで書くので、真反対なことも平気で
書き進めます。

ぼんやり書いてる風でいて、なかなかそうでもなく、けっこう喫茶店などまで出向いて、
そこそこ素地となる発想まで熟成させたりします。熟さないと、書けません。早々に
熟してくれるモチーフに出会えばいいのですが、そうそう出会ったりもしません。

本日は昨晩書いたエッセイの続きのようなものです。

同じエピソードを経ても、人は同じ結果にならなかったりします。
人によって、結果が違ったりします。それって、不思議ですよね。同じ体験、同じエピソードが、
人によって到達点を変える。この気まぐれのような結果の訳を、このごろよく考えていたのです。

まずひとつには、目の前の事に、いちいち反応する人と、流す人と、受け取ってるけど感情を
使いきらない人が居る、って思いませんか?
感情って、お金と似てるところがあります。使えば、なくなるという仮定を、このエッセイではします。
お金と同じように、買ったものが、手元に残るように、感情も使えば、感情を使った結果を、心に
蓄積します。きちんとたまります。形がないから、見えないから、なかったことにはなりません。
「どう、感情を、どの、感情を使ったのか」ということが、どんどんたまっていきます。

日々使ってる感情こそが、その人の「使い勝手のいい感情」として、重なり、たまっていきます。
パッと出会った、偶然のようなエピソードでも、「自分のお得意な感情」がとっさに発露します。
その、自分の得意な感情、がエピソードの「解釈」を変えます。怒りっぽい人は、「嫌だったこと」を
重ねますし、陽気な人は「良かった事」が重なり、厚みを作っていきます。

自分のした「解釈」が層を成して、その人の「性格」になります。
そう思うと、「自分が使ってる感情」で、その人の性格があり、その結果をためていきます。
日々の結果は、自分の性格から発したものとも、極端に言えば、言い切れます。

一方で、日々起こる、いろんな事柄に、いちいちガッカリも、喜びもしない人がいます。
それは「気にしない」のか、「気にできない」のかで違います。
「気にしない」人は、目の前のエピソードのひとつひとつに決着をつけません。「そこはまだ
ゴールじゃないから」と、そこでは感情を作らないだけのことです。そこで感情という反応を
する理由がないのです。つまり、大事なのは、もっと別の事、ということです。
前述のように、もしお金のように感情が「たまる」ものであるのなら、「気にしない人」の
感情は、「たまる」ことになります。

気の短い人、短絡的な人は、目の前に起こる事のいちいちに「あー、もう!」「ウレシー!」
「嫌だなあ」、と日々、感情を「使い切って」います。お金で言えば、日銭を手に入れて、その日のうちに
使い切っちゃうのです。
私の思う「気にしない人」とは、ここでは感情を、考えなしに「貯めます」。
目の前の、いちいちに、感情を使い切らないのです。お金で言えば、月給か、ボーナスの人です。
使わないので、どこかに貯まります。今、その瞬間には、感情を使わないのです。無関心、とは
少し違います。「そこで感情を使っても仕方がない」ということです。そういう人は、います。

肝心なのは、その「貯まった感情」には、けっこう上等な利子がつきます。
「全体を捉え直す、考え直す時間」を経て、感情をしむける事ができます。毎回とはいいませんが、
事態をコントロールできる機会を得たりします。目の前のいちいちに、気持ちをほとばらせて、
使い切ってしまった人たちとは、得るものが違いますし、感情のストックができてるだけに、
自在となる感情を、「仕向ける」工夫の余地すら生まれます。極言すれば「感情にしてやられる」ことより
「感情を上手に使いこなす」回数を増やすってことです。

自分に使いやすくなってる感情、というものが、その人の性格となり、性格が「世の中に起こる事」の
解釈を変えるので、つまりは「人生の舵取りが大きく変わる」ことに直結します。
つまり、大事なのは「自分の使いやすくなってる感情」に加えて、「どのタイミングでそれを使うか」の
コントロールの利く、利かない、でも結果は大きく変わります。

一方、「気にできない」人は、無感情です。無頓着です。どーでもいーのです。
でも、この、「どーでもいー」もたまります。日々「どーでもいー」がたまれば、「どーでもいー」が
自分の周りに層を成して積み上がるだけです。それでいて「いいことないかな」とは、あまりにむしがいいと
思います。お金でいえば、無貯金でいて、「いいこと」を期待したり、一攫千金を予定する人のようなものです。
蒔いてない種なので、実りを言い出すのが、そもそも無茶なことを、無視してます。

仏教用語だと思うんですが、「功徳がたまる」っていう言葉、あるじゃないですか。
功徳、ってなんなんですかね。どうたまるんですかね、ってこのごろ思うのです。
いい事すると、たまるんでしょうか。そこいら辺が、非常に不勉強なのに、堂々と書いちゃいますよ。

こうは思うんです。
功徳っていうのは、「期待しちゃったり」「こんだけいいことしたんだから」と思いながら、何かやってると、
もうそこで「結果」も使っちゃってるんじゃないだろうか、と。
上でいうところの「日々、感情を使ってる人」ですね。
即、結果を得たい人には、即、日銭として「結果」も与えられる。それは「期待しちゃった」ってことで
使った「感情」が、日銭に相当してます。「こんだけいいことしたんだから、いつかいい事、あるよね」と
思った人には、それ、そここそが日銭に相当してる感情、と思うのです。

なにかいいことをした人でも、いいことをしたその時には「ただ、そうしただけ」以上にしていれば、
そこでは「感情」という日銭は消費されず、たまるんだと思うんです。運、も同じような言い方が
できると、思ってます。「使わないから、貯まる」という、物理法則に当てはめると、考えやすいので、
安普請で下世話な表現方法ですが、こうした例えで使っています。

感情、とか功徳、とか言ってますけど、つまりは「自分が自分をどこかに運んでいくのが人生」な時に、
その駄賃として「感情」や「功徳」が使われると思うんです。
人によって、同じエピソードを経ても、行き着く結果が違うのは、やっぱり、貯めているものも、
使っているものも違ってることに、フォーカスすべきです。そこいら辺を考えもせずに、
「不平等だ」とか「不公平だ」とは言えないんじゃないかなー、とか思うのです。

自分で、どの感情を、日々強化してるか、で生き方って、全然変わりますよ。
楽しみは、長く、深く続くと、心持ちもほっこりしてきます。その仕組みは、自分次第です。