作成日: 11/10/09  
修正日: 11/10/09  

推進反対の話

どっちにもつきたくないのです


「原発推進か、反対か」の見出しをメディアにみつけると、悲しくなります。
原発に賛成したり、反対したりしなくちゃならない人、にならなくちゃいけませんかと
もうひとつの見失いがちな位置を思い返します。
二者択一、というのは「シロか、クロか」を迫られるものですよね。どっちか、といえば
どっちなんだ、と。
「どっちでもない」がはなから外されてます。どっちにも寄与しない、を選ばせないのが
そもそも理不尽です。
原発で言えば、この2011年3月以前までなら「推進派」でも「反対派」でもない人が
「圧倒的大多数」のはずです。それくらい「気にしないで良かった」ものが、いつのまにか
役者では仕事を外されたり、メディアに騒がれたりする材料になってる。それそこまで
「どっちでもない」で済む生活をしていられたことを、決めて進むことになり、社会の
あらゆる事に参与せよ、参与せよと、短い人生のさなかでは「いかに捨てるか」をしていかなくちゃ
間に合わないというのに、気をつけよ、気をつけよと、それは若い人が精神病になる訳だよ、って
嫌んなりますね。

「どっちでもない」というと、なんだかまるで「無責任」みたいにも感じられますが
そもそもそんなに多くの社会現象のいちいちに関わることがどだい無理です。
ましてや「原発問題」が発生して、社会の圧倒的多数がどれだけ核心に肉薄する「決断」に
関与し、意識し続けなくちゃいけないものかというと、そーでもないなと思うのです。
無視はしなくても、日常の人の人間関係をぎくしゃくさせるほどの話題に据えるほどの
量加減は「なんだか違う」と感じるのです。
そしてもっとも見失われてる「どっちでもない」が懐かしくなるのです。

「どっちでもいい」というと無責任に感じますが、「でっちでもない」だと、少し無難に
なります。
ファインマン博士がかつて「積極的無責任」という言葉を使ってた事があります。この場合に
引用するのは不適当かもしれませんが、どうも立ち位置をいちいちハッキリさせなくちゃならない
生き方ってのには、どうも疲労感を覚えます。

ところで最近、ワタクシのケータイが壊れたので、買い替えました。するとケータイ、ではなく
スマケーである、と書いてあるのです。スマケー?すまけい、ではなく、スマケー。
スマートフォンのケータイらしいのです。アンドロイドってのが入っていたのです。
アンドロイドってのが入ってる事で、ネット上の恩恵がぐんぐん受けられるというのです。
検索も、メール設定も、ワンセグも、録画も、ダウンロードもワンサカワンサカ楽しーよ、と
銘文句のようなのですが、全部ひっくるめて「たかがバッテリーが二日と保たない」という
一言の前に、「全滅」の印象です。

買って1週間で不安で一杯です。震災後、もっともケータイに求められるのは「バッテリーの
もち」だと思ってます。なのに二日と保たないスマートフォンの「異常なもちの悪さ」は
その「機能」を生かすに割に合うものじゃないです。ちょっと前の「普通のケータイ」を
懐かしんでる人の声は、ネット上でどうしてこうかすんでいるんでしょうね?
スマートフォンにはモノによると液晶しかないものだってあるんですよね?有事の際には
「もっとも早くバッテリーが無くなるもの」が、既に決定しています。

これはひどいと思います。なんとかして欲しいです。スマケーで感じてる事は
「隙を見つけては、パケット料金を頂戴しますが、有事の際にはもっとも早く役に立たなく
なってみせます!」という商魂です。アンドロイド上の「いろいろできる!」は
「でも、バッテリーはもたぬ!」に駆逐される手合いの魅力でしかありません。
バッテリー切れれば、邪魔なだけだもん。
アンドロイド、除去できませんか?要る時だけアンドロイドにしてくれませんか?
料金もー。

上に言ってきたことの表現を借りれば「ケータイはバッテリーのもちこそが至上か?」
はたまた「ケータイは機能の多彩さを重視すべきか?」などとやり合う事も楽しそうですが
「どっちでもない」が一番座りやすいのです。そのどっちもに「やきもきしなくちゃならない」
ところに立たされるのが、すでに一番の不自由なのです。

どっちかにつくから喧嘩になるんです。どっちかにつかない位置を作れば、喧嘩に
ならないのです。喧嘩しなけりゃいい、ってもんでもないけどね、学生運動の活動家みたいな
片一方の主張かくありたし!みたいな暑さとか正しさ、で推しまくられると、
それそこまで控えてきてくれた「みんなが一斉に作り上げてきていた、静かな『居心地』」は
消えて行くのでした。この損失は、誰にも埋められないのに。