作成日: 11/10/24  
修正日: 11/10/24  

自然

生きてて住んでて、それだけでも幸せ


自然は優しくない、自然が牙をむいた、自然に優しく、という言葉を結構聞く。
それは「人にとって」ということが、かっこ書きでついてまわる言葉です。
昨今の温暖化のせいなのか、洪水や河川の氾濫は、「環境問題」を云々、って
なりやすいんだけど、これより先に、ひとつ気になってることを今回エッセイに
してみようと思います。

人間という生物が、70億人以上になっちゃってるんですよね。今生まれて生きてる
人たちの中では17億とか20億って数値を幼少時に習ってた人もいらっしゃると思うんですけど
それが「人類」だけが、猛烈な増殖をしているのです。
食料問題だけでなく、水も不安視されてくるくらい、人類種のみが増えているのです。
地球のあちこちに人がいて、自然災害にぶつかる頻度もあがっているのでしょうが、
そもそも、「人」も自然の一部です。「然」という所から「かれて」、「自分」。

自然、というのは人類だけじゃなくて、地球上に住まい、生きてる生き物すべてが
「自然」なので、そこから分岐して「分かれて」生きてるだけの事なので、そもそも
地球上の「自然の一部」と考えます。
生きてる意味、とか価値、とか言う前に、「私たちはそもそも一部のいきものです」なのでは
ないかと。大ざっぱに言えば「体」そのものは自然からの借り物ではないか、と。
私たちひとりひとり、と感じ受けている「心」は自然から借り受けている「体」の中に棲んでは
いますが、その「心」が「自然と人」をわけて考えたがってるんじゃないかと。

人が自然災害だとか、温暖化だとかで不幸にも「亡くなられる」とき、「自然が牙をむいた」
というよりも、そもそも「自然」側、はそんなに「人類」に重きがない。自然という大枠の中で
至極一部の「部分」として動いているものであるから、牙もなにも、「気候がこうなので
こうなりました」以上の意味をなさない。暑くなった、氷河が溶けた、水位が上がった、
雨が降った、河川が氾濫した、地震が起きた、竜巻が起こった、それだけです。
人類にどうの、とか、まったく意思めいたものはない。

そうしたことに「言葉」を当てはめて、「地球環境を大切に」という人類サイドのスローガンの
的の外れ方が、どうもしっくに飲み込めないんです。

地球環境は今後も「悪化」するでしょうが、地球にとっては「悪化」でもなんでもありません。
地球は地球のままです。生物種が滅ぼうとも滅ぶまいとも、地球のままです。
地球環境は悪化しません。地球環境には「悪化」の意味がありません。どうとでもなります。
悪化するのは「人にとっての住み心地」です。
植物も、動物も滅んでいく種が増えてくるでしょうから、やはり生物種には「悪化」でしょう。
でも人類が生き抜くのに汲々と迫られている時に、人類種は同じ地球上で住まう「生物種」に
思いを馳せて「環境」を語るでしょうか。きっと語りません。まず「人類」を救う事を優先
するでしょう。

「人類だけ」が生きて残っていられる理屈がそもそもないんです。あらゆる生物が併存して
やっとこ生きてる人類なのに、それが70億、近い将来に100億を突破しかねないことを
直視しないで「地球環境」もあったもんじゃない、とはいえないでしょうか。
人類(側)というエゴから発した程度の「環境保護」の発想は、出だしが不十分な気がします。
「まず人類が助かりきってから、他の生物も助けて行く」というスタートラインが予感される
手合いの「保護」の発想が巣食ってるうちは、滅んじゃう気がします。
悲観したがってる、とかじゃなしにですね、生き物種の割合が、こんなにも「人」に偏った
生かされ方を続けて、少なくとも「他の生き物たち」からは嫌われるだろうし、助けたい気持ちにも
ならないですよね。

次世代に爆発的に増殖する生物があるとすれば、それはきっと地球上もっとも数の増えた
人を補食する生物です。

「人に優しい自然」というのが、そもそも設定できない事柄です。「住みやすいところがあった」
だけのことです。優しい云々は要らぬ装飾語です。不要です。
それが「住みにくくなってゆく」としても、自然になんの罪はありませんし、「住みにくくなった」以上の
ことを思ったところで、人は「住みやすそうなところを探す」しかない。それがなくなれば、
「滅ぶ」のがよろしく候。いいとか悪いじゃなく、まず「そう思わない」でおいて、次の発想に
行こうとしてる感じがして、どうも違和感があるんです。
なんとかしよう、なんとかしようっていう「自分側の焦り」ばかりをクローズアップして、
信じたい言葉にだけ食いついて行き、挙げ句に信じたいようにはならなくなったとしても、
「そんなこと信じないぞ」っていうことをいう位置にはいたくないんです。

いたくないんだけど、信じたくない、って思うのも、また人らしくってね。人らしいんよ。
駄目と解っても、三文芝居みたいな結果に一本道しかなくても、その芝居は続けられるのも
人の愛らしさなんよ。むざむざと生きるの。

自然の一部が「人の体」。
私たちは誰一人として「自分の意志として」生まれた人はなく、他の生き物の縁で今こうして
生まれついて、死ぬまでを生きている。
「自分の体」と思ってるもののうち、心臓の動き、息ひとつとっても、「思いのまま」であるものは
ごくわずかで、「自然」から分けてもらった「水分60パーセントくらい」の体ってものに
「心」が「自分」と名付けて、自然と自分は別、って思い込もうとしてる。

「自分」が、「自然」をなんとかしてあげなくちゃ、と、「自然のお裾分け」で生きる事のできる
「自分」は「意味」を、「助け」を生み出そうとしてる。傲慢にあってはいけない。
「生かされている」んだ。「生きる」ことを、大事に使う事を心がけるのが礼儀だと思う。
意味とか価値というのは「人同士」で使い合う言葉、以上の使い方はできない。
地球にも、自然にも、言葉や脳から生まれた手合いの「発想」に負けてくれるほど、しょぼくれた
存在ではないんだもの。