作成日: 12/02/03  
修正日: 12/02/03  

運動はその初期にピークを迎える(カメラの話)

最高にウレシー時に立ち会う幸せについて


友人のコアラ室長がカメラを買いたいので、先導してと、あまりにも楽しそうな
ことを誘うので、そーかー、そうですかー、で、どんなんがええのん?と
ほくほくで相談に乗って行くのですが、最初からAPS-Cを排除した心持ちで
私は臨んでいるわけです。や、あくまで「相談にのる」だけなんで、あくまでも
その人の要望に添わなくちゃいけないわけで、じゃ、私の使命としましては
どうやったらその人が「フルサイズを買いたい」と思えるか、を使命に
思ってくれるところまで、共に歩きたい訳ですよ。

そもそも、私のカメラ好きってのはどこでどう始まってるのか、とんと
自覚そのものがない。絵を書くのと同じくらいには、写真が思い通りでは
あって欲しいとは思ってるだけで、事実写真というよりも、8ミリカメラに始まった
シネフィルムの方が、カメラ歴としては長いし、そっち側でありたいのです。

そうはいっても、大学でてから写真を撮ることになっても、画角の作り方なんてのは
シネフィルムのそれしかわかってないので、正直なところ、写真の感性は位置として
自分ではつかんでいない。そーはいっても、てんでのアマチュアよりも、半端に
分かってる部分で鼻息が荒いので、とにかくしまりがないんですね。ゆるいんです。

決定的シャッターチャンスに賭けろ!と言えるほどの情熱には至ってない手合いの
カメラマンで、三木トリロウ先生の「ボ~クはアマチュアカ~メラマン~」って曲の
人みたいなスタンスでずんずん進んで行きたいのです。

ですから、カメラを買いたい人がいると、喜んでご一緒してますけど、実は
「カメラを買うまで」の冒険そのものが、写真を撮ってる時と同じくらい高揚するのです。
も、自分が買ってなくても、友人知人が「カメラを選んでる時」や「カメラを選ばざるを
えなくなった時」、そして「限界まで来て、もう駄目だ、ってところまで追い込まれても
なおかつカメラ機材に手を出してしまう瞬間」などというのは、もうその人そのものが
隠しようもなく出ていて、大変愉快であり、大変痛快であり、至福の心持ちになります。

レンズは何ミリが標準であるのか。
そこを基点に望遠気味が好きなのか、広角気味が好きなのか。マクロ、ボケ味、
アンダー気味、飛ばし気味、決定的瞬間、どんどん覚えることはあるし、技術的なことで
云々なんてのは、私にはそもそも限界があるので(ソーユー人はソーユー学校に行ってるしね)
私はいつも「その人がどんな写真を撮ったら『それっぽくなってるじゃん!』と笑うかを
目標に機材周りのアドバイスをしています。

多くの人は「ボケ味」にカメラの醍醐味を感じるようです。
それはコンデジ、パチカメで「まんべんなくピントのあった、怪我のない写真」ばかりで
しょんぼりしてたり、物足りなさを感じてる人が、一瞬間にでも「うまく撮れた!」って
思えるワンショットを体感するということです。

一眼レフカメラがあるだけで、その体感のチャンスがグンと高まります。
ここに明るめの50ミリ単焦点があるだけで、一層そのチャンスは増えます。
ボケ味をズームレンズで望遠にして出すっていう次元でウフフ、って人もいらっしゃるでしょうが
私のところに「カメラってどれがいい~?」って聞いて来てくれる人は
「もう一歩うまいことやってくれ」ってスタンスの人が多いので、
「じゃ、ちっとばかし値の張ることしちゃいますけど、そこは合点してくれます?」が
言外に感じていると思います。

「そのかわり、必ずその気分、味あわせてあげる」も、約束です。
それは私のレクチャーに価値があるのではなく、「そこそこの機材をそろえたら、どうしたって
上手に撮れる」という線がありまして、要は「どこいら辺の機材までそろえておけば、
貴方の言ってることはできるのか、その出現率を高めるための紹介」こそがワタクシの使命でしょう。

買うのは「カメラの買いたい人」ですから、言ってるだけのことを、やるには、これくらいで
いいよー、おっと、そこまでお金出せるなら、ここまで思い切っておくと、後々ウフフって
なるよー、てラインでのそのそと動いているのです。

絵を描く、歌を歌うなどの「自己表現」は自分に課した修練が発揮されるものですが、
まず先に「素養」が求められることが多いじゃないですか。
その点、写真はある程度までは「機材」でフォローできます。ある程度までは。
返せば、ある程度まで用意してないと、いざ目の前に抜群の魅力を放つものがデン、とあっても
「残せる結果」は雲泥の差を生み出すのが写真です。コンデジと一眼レフには埋めがたい
決定的なふかーい、ふかーい溝があります。

でも写真のことなんて学校じゃ習いませんもんね。「カメラを買った」だけで嬉しい人は
まず「嬉しい、嬉しい」だけで写真を撮ってれば、その「嬉しい」気持ちがファインダー通して
写真に写ります。(そう思ってない人も多いようですが)
少々あざといかもしれませんが、そのときには「セピア」「白黒」「パートカラー」
「ジオラマ」などの、各種モードを堪能するには絶好のチャンスです。

目の前の現実世界を、いかに「自分の見立ててる感覚に合致させるか」も写真のうちなので、
そう言う意味ではコンデジに備わっている、各種編集機能はあざといですけど、
「楽しむ写真」として、写真世界に突入していくには素敵なイントロだと思います。
また、ここでいかに「写真は遊べるものか」を体に馴染ませておけば、今度は
「いかに遊びじゃないもので撮れていくのか」も自分の中でモノサシができて、上達の有無も
自覚できる素地となります。

自分の見立てなんかを写真にとりこまなくても、いい写真ってのはできるもので、それは
被写体そのものに力があったりするんですけど、今度は機材の方がそろってないと、その
目の前のターゲットを「生かす」写真になってこなかったりするので、
「早く動いてるものを、躍動感一杯に撮りたい」とか
「まわりはせっかちに動いてるのに、狙った部分だけは厳然と停止した写真が撮りたい」
「この風景にやどってる、全体の雰囲気をとにかく捉えて写真に収めたい!」
「月が撮りたい」などのように、カメラ機材、技術、が伴っていれば、ステップアップ
していける分野もあるのです。

ただそのときに、「自分が持ってる機材」の方に、やりたいことが制約されちゃうことも
あるのです。
自分のカメラにはストロボがつけられない、とか、夜撮に耐えうる感度がない、ノイズが出る、
自分のレンズでは、撮りたいだけのアップにならない、はたまた「自分のカメラメーカーでは
撮りたい写真が、未来永劫撮れそうにもない」という絶望感にすら、行き着きかねないのです。
ステップアップそのものが、事前に制約されてる機材環境というのもあるのです。

ですから、最初の一歩から、カメラは慎重に走り出さないと、「未来にわたって後悔する」
落とし穴にじゃんじゃんはまってしまうのです。

そーゆーわけで、私はいつも「その人がどこら辺までやりたいか」だけをリサーチして、
そのアドバイスに終始します。終始しますが、偏っています。なんせ私です。偏るのです。
でも私に相談してきたからには、その「偏り」まで飲み込む覚悟はおありですね、と
前提条件にしていますので、そうなれば私はとことん、一緒に笑うところまでいきます。

だってね、相談して来た人とカメラ選んで、ファインダーのぞいて、パシャッってやったときに
その人の顔にうわああああっってみるみる血が上って来て紅潮しながら、目にキャッチライトが
ぎゃんぎゃん入って、笑顔とも、驚きともつかない顔んなっちゃって、こっち見て来て
「どーーーーーーーーーーしよーーーーーーーーーーっ!!」って顔してる時に立ち会ってると、
こっちもねー、嬉しいんですよ。すっごく嬉しいんです。
そして、その「瞬間」が実は嬉しいの「ピーク」でもありまして、
「カメラ、買いに来て良かったー!!」の瞬間でもあり、「今後こんな写真ばっかり
もりもり撮れるのねー!」っていう、未来への喜びにも立ち会う瞬間な訳ですよ。
そしてその人に2度と同じくらいの密度の喜び方を見いだせないくらいの喜び方ってのに
出くわしてる時なんですよ。

それってねー、贅沢なことなんですよ。心の底の方から「うっふぅーー!」って喜んでる。
再現はできない。そのときに、その場所にいて、その人といて、はじめて拝める顔であり、
仕草であり、感情なんですよ。だいたいそれは「今まで出会いたいと思ってたけど、
ついに、遂に手に入れました!」というそれそこまで覚悟してこなかったうれしがり方を、
そういう人たちは見せてくれるんです。

そこに立ち会いたくて、私はカメラを紹介します。そして運がいいことに、
何度もそれを味わえているのです。
事実、そうした「自分が撮りたい写真を撮れるカメラでパシャリとやった瞬間」を
越える喜びを発した人にはまだ出会ってないので、私はその人のピークにも立ち会っています。
も、それが、いいんです。すっげー、楽しいです。
何人かは「だまされたー」って言いますけどね、うん、上手にだますからね。大丈夫よ。

ま、ごくたまに「カメラ買ったあとの岩盤浴」の方がもっと嬉しかったです、なんてな
変わり種もあるんですけどね。これも一興。これにて。