作成日: 12/09/29  
修正日: 12/09/29  

キノコ

不思議な生き物ですよね、キノコ


とあるのみ屋さんでのお話です。キノコ鍋をだしてもらいまして、それも山でその日の朝に
とってきたばかりのものだそうです。「食べれるキノコと食べられないものってどうやって
見分けるんですか?」という話になり、マスターの言うには
「食べれば、分かる」
と、にやり。

うん、そうだ、食べれば、分かる。
美味ければ美味かった、でよし。
不味かったなら不味ければ良し。
でも本当に厳しい結果は「食べたら体に毒だった」ですけど、それも
「食べれば、分かる」
さすが。
さすがですが、結局いちげんさんには見分けはつかない、ってことですよね。
うむ。

庭の古木ににょきにょきとキノコが生えており、食べられればいいのに、って話になると、
自分で見分けられればいいのに、ってそれそこまでキノコに興味もない生き方をしてたのに、
突然キノコ博士の免許皆伝を期待しはじめちゃうのです。
なんなんでしょうね、このにわか仕立てなシロウトが「知りたいのだ」と思ってしまう気持ちってものは。

毎朝の新聞チラシにも感じます。それそこまで、知りもしなかったグッズや服、食べ物、車、家など
「知った」とたんに「欲しい」ってことにさせられて、がま口を開けてしまわせる手管というのは
全部前頭葉あたりで一瞬で発生して、「自分のこと」にさせられてしまいます。

それそこまで全く縁のなかった事柄が「自分のことにさせられてしまう」という仕組みが、このごろ
意識的に気づくように(ようやく)なってきて、一番そうした感情にとらわれないで済ます方法は
「無視しておく」「近づきもしないでおく」ことなのだと気づいてきた次第です。

人間に「自分のもの」というのは本当の意味にあっては「なんにもない」わけです。
体にしても、脳にしても、親御さんがあなたを生んでくれた時にそなえてくれた産物であって、
自分で動かしてはいても、病気にも事故にも怪我にも遭う「思い通りにならないもの」という
一品には違いないわけです。
「自分のもの」としたがる時点で、妙なことが起こりはじめもします。
「奪ったり」「取ったり」「手に入れたり」することで、自分にも他者にも欲めいた衝動が生まれていて
少なからず、ものにとらわれた生き方にシフトしてしまいます。

だいたい、そういうときはイライラしはじめたりしますね。そして「思い通りじゃない」感を
強く感じるようになります。まあ大ざっぱに言えば「欲しがりはじめて、いつもより、不幸になる」を
スタートさせます。ルーレットの回しはじめのような衝動です。どきどきします。結果が出るからです。

いっそ「最初から知らなかった」ら、手にも入りませんが、不幸な気持ちにもなりません。
ルーレットは回りはじめもしないし、まずもってルーレット感すら存在を知らないで過ごす毎日です。

冒頭のマスターのキノコ探しの回答はこうでした。
毎年山歩きで、(シロウトが入れる場所じゃない)毎年同じ場所に、前年のキノコの子孫が
生えそろってくれているところがある。そこのキノコは「食べられる」ことがわかっているので
それを取る、のだそうです。
山で取ってきちゃってから、かごかなんかでもっさり混ざってしまうと、見分けのつかないものも
ある、とか同じキノコでも雨の具合、気温の高低差などで、無害だったキノコも毒が出始める
ケースもあったり、その逆もあるそうです。一概な判断をマスターに聞いても「こうだよ」と
割り切った返事にならないのは、そういう訳でした。

このごろは以前にキノコの生えてたところに、重機などが入り込み、地面を踏み固めてしまうことで
地面に生えることができなくなってしまう場所が増えてきたっておっしゃってました。
十数年はもとにはもどらない、と。

このごろにわかに「山」に居ることが多いので「泥をかぶる」とか「根が深い」という言葉を
かみしめます。格言としてのそれではなく、本当に水気たっぷりの泥がかぶってくるし、柴を刈ればその最中に
植物の根は深いことも分かります。モウソウ竹の根の異常さは筆舌に尽くしがたい慎重さ、大胆さ、
執拗さがあり、根絶は至難の業です。やってもやっても終わらぬ作業をしてて思うのは
「こっちが『こう』と思い描く風景があるほどに、事態はいよいよ難化してゆくなあ」という
印象です。自然相手ですと、特に「相手」に意志のない分、こっちが一人で勝手に「妄想」めいて
「思い通りにいかない!!」と憤るマッチポンプぶりが顕著になって、身の程を笑います。
笑うしかなくなっちゃいますね。
そうなると、今度はもう、幸せな心地に私はなります。

言葉で「泥をかぶる」とか「根が深い」と理解してても、語源の「実際の状態」を体験しつつ
それらに「怒って応じるか」と「理解して受け入れるか」で、そこから続く作業の効率は
全く別物になります。怒りは、おおむねはじめる前から「負け越した」スタートの場合が
多いです。結果もそれに準じる場合が多いかな。

人は「自分のこと」によって、随分振り回されちゃう仕組みになってますね。
「自分のこと」にしたものに、囚われて過ごした代償は、あまり顧みられてない感じがします。
得るものも、失うものも、この気持ちから発生してますもんね。
なーにが自分のものなんだか。

冒頭ののみ屋さんで「はい、キノコ鍋」と出てきて
「毒入りキノコ入り」とニヤリ、とマスターにされたので、どぉれ、ではお毒味、と舌なめずり
しなら、うま辛味噌風味のキノコを頂くのでした。
うまし!