作成日: 12/11/04  
修正日: 12/11/04  

国の話と、気圧の話

全く別々に感じたモチーフをねじりあげてみました


国、というのを理解していくときに、ヨーロッパにおいて、その成り立ちが全然理解できない国が
私にはいくつかあった。「オーストリア」はなんでドイツ語使ってるのに「ドイツ」ではなく、
帝国だったの?とか、似たような感じでは「ベルギー」ってフランス語とオランダ語が語圏として
比較的はっきりしてるのに、どうやって国として成り立てたの?とか、ルクセンブルグ、リヒテンシュテイン、
モナコ(公国!だよ!)、マルタ、サンマリノ、アンドラ・・・スイスもそうだよ、イタリア語に
ドイツ語、フランス語系まで混濁してても「連邦」しかも「永世中立」。なーんだよ、ヨーロッパ、
実に分かりにくい。でもなんかあって、今の状態に至ったんだなってのも勘として予感はできる。

もっとわかんないのは「十字軍」と「騎士団」。後者は下手したら国のような扱いっぽい
瞬間もあるんでしょ?もう理系の小生にはなにがなんだかさっぱりよ。台湾、も理解するまでに
とても時間がかかったのです。なんせ「中華民国」と「中華人民共和国」の違いを理解したのは
大人になってからでした。「中国」の正式名称にそのふたつの「どっちでもいい」とずっと
思ってましたので、その違いが分かった時のショックときたら、「月は常に地球に対し、一面しか
向けずにぐるぐるまわっておる」ことを知ったのと同じくらいショックでした!!なんじゃそら、と。

王様がいて、そこで住んでる人たちは、同じ言葉を使った人たちだと、昔からの童話に
慣れ親しんだ者には思うじゃない。アメリカのような成り立ちの国ならわかる。でもヨーロッパは
言葉と民族、言語は「そろった者同士」であるからこそ、「国」同士でやりあうんだ、って思う節が
私には根強くありました。でも「バチカン市国」みたいなのもあるじゃない。びっくりよ。
宗教の偉い人が、国ひとつ、他国のさなかにポンとあるってんだもん。

ベルリンも分からなかった。習ったけど、分かってなかった。西ベルリン、東ベルリンが
「東側のドイツ」にあったことって、みんなピンときた?あれ?
全然分かってなかったよ、私。空輸の意味も分かってなかった。「え?西ドイツの首都
なんでしょ?なによ、空輸って」くらいの認識。

「国」ってのは、つくづく「人工」のものなんだなーって思ったよ。
イスラエルなんかも、ものすごい力づくですもんね。成り立ちも人工的。
バングラディシュが「東パキスタン」だった時があるって知ってました?すごくない?
ポーランドの国土の変遷、プロイセンという「国」、ホント「複雑さ」を我慢してくれる人にしか
説明のしようもない事態の連続で、国ってのはできあがってきてることがとてもしみるのでした。

中国の「満州族」「モンゴル族」「漢族」の変遷とかもショックでした。一色じゃない。
「イギリス」と呼ばれる国は存在せず、正式名は「グレートブリテン云々~」もすごくない?
連合なんだよ!21世紀なのに。すごい。

「他民族」と直接やりあうことが、大陸では「当然」である。地形地勢の流れで、「国」は
ぐるぐる姿を変える。それがゆえに「国」同士がもめる、というのは、人工物同士の、いったい何が
戦うことになってるんだろう。また、もともと「人のものじゃない」地球の領土争いで
なんで「死ぬ」ほどの戦争は起こっちまうんだろう。で、一体全体、なんのための死になってるんだろうと
迷い出すことがある。なんなんだ、なんなんだ、と。
(注意:愛国云々についてこのエッセイは語りたいわけではないのです。)

国が「人工的」でできあがってるとしたら、もっといい枠組みの発明も、ありだと思う。
人工的でなく、「地球市民」に至る方法、募集中!


実家に生まれたての弟夫婦の男の子(つまり甥)に会いにいきました。ちっちゃかったなー。
そして「生き始める最初」の奮闘を、その表情から感じ取りました。
さて、毎回思ってたのですが、書き記し損じてたことを書きます。

こう引っ越してばかりいる生活をしてると、「なんで実家に戻ってるんだろ?」と一時帰省でも
我ながら理由が判然としてこない時があります。その一方で戻るたびに「ふー」って息が抜けるのを
毎回体に感じるのでした。

体が、分かるのです。
ああ、今、実家の土地にいる、と、体が分かるのです。

なんなんだろ?と思ってたら、きっと「気圧」なんじゃないかと思いました。
体の中から「押してる力」と、体の外から「押してくる力」が拮抗しつつ、均等してるとき、
体は「ああ、このちょうど良さげな感じ、知ってる!」となって、リラックスするのではないか、と。

いやいや、なんも気圧が全てとは申してはおりませぬ。
ただね、北の方から南下して実家に戻るケースが何度も何度も何度もあるとね、ある地点を
通り過ぎた辺りから、トイレに行きたくなることがあるんです。
きっとあれは体の内圧と外圧に差がではじめて、調整しようとしてると思うんですよね。
ほら、飛行機や登山で耳がツーンとする、アレですよ、あれと一緒。

実家には、親族の心安さってのもあるんですけど、いや、もっとも大きいんですけれど、
「この気圧で高校でるくらいまでは育ってた」、うん、と、いうか「この気圧しか知らないで
生きてきた」呪縛のような「基本線」な圧力を、体が覚えちゃってるのです。
空気の香り、重さのうつろい方のパターンも、山や田、川の位置のせいで、風向きや日暮れの時間、
坂の具合や、たどり着く時間、歩いて進める距離感、全部「生まれ育った所」にその人の
「モノサシ」の全部がそろってるわけです。

事実、私は町で住むとやたら「夕焼けが綺麗な時に出くわす回数が多いなあ」って思います。
事実、多いのです。それは私の実家は「山」すそにあるため、日暮れが早いのです。
綺麗な夕焼けに至るほど、日の傾きを待たずに「日没」がやってくるので、オレンジ色に
至る回数が絶対的に少なかったのです。
ですから都会育ちの人が、田舎に行って「日暮れが早いなあ」って言ってるのを聞くと、
ああ、夕焼けに出くわす回数の多かった人なんだな、って思うのです。

いいも悪いもなく、「育ってきた所」のもので体が感覚、間合いを覚えるので、
それとあらゆるものを「比較」して、理解するのが人なんですね。
成人して都会で過ごそうが、外国で過ごそうが、「自分が大きく育つまで」に見知ったものとしか
比べられないってのも人なのかも、って私は思いました。みんながみんなそう、ではないかもしれません。

ただ、その「感覚」を総括して表現するなら「気圧」、っていう獏としたものの表現が
あたってるような気がしました。「水が合う」とか「空気」でもいいかもしれないけどね。


こう考えると「国」に感じる違和感は、「気圧」の持つ「自然さ」に合致しないから
妙な気分になるのかな、って思いました。思ったんです。