作成日: 12/11/24  
修正日: 12/11/24  

願うこと、祈ること

=叶うこと、でなくてもいい


なんでしょうか、いろんなことがめぐってきます。知らない人と一日中話しながら動いてたりします。
埋設したり、掘削したり、レバーを引いたり、流し込んだり、いつのまにこんなに自分が
不得意としてたことばっかりに直面し、そのどれもが大してつらくもなく、案外できちゃうもんだと
思えるようになったのでしょう。フッシギー。

すごいことをしでかす人には、すごいことを帳消しにしかねないほどの真逆のベクトルで試練が
降り掛かり、それも一生それに向かい合う決意を突きつけられる。
一方で、全然すごくない人の、日々の生活にすら、そのすごくなさ加減を帳消しにするほどの
真逆のベクトルで、そこそこの試練が突きつけられる。
人生ってのはバランスに目を向けることなのかもしれません。突出してなにかが秀でたまま、
楽しいだけっていう人っていないんダナァーとこのごろ感じてるのです。

んで、そうした「試練」は背中を向けるほどに、激しく襲いかかってきます。かなり容赦ありません。
だいたい、立ち向かって、真正面から受け止めるのが一番すんなりします。肉体的とも精神的とも
限りませんし、関係性や持久性をむしばんでくることもあります。おおむねその人にとって、
「これさえ起こらなけりゃ、人生万々歳なのに」というウィークポイントを、ピンポイントで狙いすましたように
突いてきやがるのが試練です。ものすごく細く、しかも根深く刺しこんできます。誰にも同じくらい、
そしてその人が耐えきれるかどうかの瀬戸際を量ったような試練が舞い込みます。

試練って言うのはその人に耐えきれるものが選ばれてくる、って本田健さんの本に書いてあったっけ。
ユダヤのおばあさんの台詞ってことになってたけど、どうなのかな。でもこれがいい当たってる感じがする。

試練に直面した時に、その人の人柄が出る。うろたえるのは誰にも当たり前。一番来て欲しくない方向
からの攻撃だから、だれだってひるむし、うろたえる。ここで、でんと受け応える人は立派と呼んで
いい人。つらいに違いないことを少し笑顔を作りながら、なんとかしてしのぎ、突破できる方法に
心を砕く。これに近道も特効薬もなく、ましてやいい訳もごまかしも利かない。まずもって
「自分自身が弱い」とした部分との戦いだから、地道に「つきあう」覚悟を最初にちゃんと決める。
これが、なかなかできない。死ぬまで続く試練もある。病気や怪我、家族関係なども一生もの。

そう、どうせ逃れられないものであるなら、腑に落として向き合う方が、生きるには力がわくものだ。
嫌々向き合ってるより、堂々と受け応える人の方が、周りにいる神様や友達だって、手を差し伸べたく
なりやすいなって思わない?人生はそこそこ長丁場だから、周りの人から自分を「助けやすくしておく」
工夫があった方が、スムーズになります。小細工やなだめすかしでは、その場が取り繕えても、ほつれてくる。
その後、もう修理はできず、あきらめるってことにつながりかねない。つまり小さな故障をその場で
見逃したってことは、でっかく壊すための手助けを自分でした、って思った方がいい。だからこそ
チマチマッと片付けちゃうんじゃなく、どっかりと「その時の苦労はそのとき味わうべき」なのだ。
結局それが一番長持するから。

私は世に言う無宗教なんですが、願います。このごろは特にたくさんお願いをします。
幸い日本人に生まれついておりますがゆえに、「神様」はいるような気がしてます。ですから
お願いはします。「こうなりますように」「うまくいきますように」って合掌はします。
願いますし、祈ります。なにに祈ってるんでしょうね。なににお願いしてるんでしょうね。

これがね、大事なんだとこのごろ思って来たんです。

自分一人でなんともならないことってたーくさんあるんだけど、心が折れそうになるのよ。ええ。
かといって、そうそう悠長に折ってもいられませんから、なんとか頑張ろうなどと殊勝な心持ちで
なけなしのガッツで立ち向かう訳ですよ。とはいえ、前述しました「試練」って奴はより好んで
こっちのウィークポイントに一点突破を試みてきますから、ふんばろうにもズタズタボロボロの
粉々にめった打ちな訳です。唇もふるえちまうわけです。ブザマなもんです。

ここでね、願うこと、祈ることのある人とない人では、進み方が変わってくると感じてます。
願うことも、祈ることも、「自分」があってできることなんだよね。
自分を喪失しかねないほどの痛手のさなかにあると、願うことも祈ることも思いつきもしなくなる。
こうなると、心が死んでしまう。そこまで追い込めるのも、自分自身だけどね。
(挑んでもいい。挑むからには、逃げ出すことも用意しておけ。挑みっぱなしは、死につながることもある。
逃げ出す勇気の持てない本当の弱虫は、いっちょまえに挑むことは蛮勇でしかない。いいから逃げ出そう)

角砂糖ひとつくらいの、小さなお願いでいいよ、どんぐり一個くらいのお祈りでいいよ。
自分にその大きさのすきまを用意して、困ったとき、弱ったとき、試練のさなかで、
お願いをして、祈ること。

なにかがね、
なにかが、スルッて動くんだよ。

解決はしない。でもそのとっかかりは見いだせる。でもでも一番渇望してやまないのがその「とっかかり」
なもんだから、そこにたどりつけるだけでも狂喜乱舞なんです。考え込んだり、声高に叫んだり、
悩んだり、いろんな方法でみんな試練に対峙してるんだけど、人はどこかで「願うこと」「祈ること」に
力を見いだせる仕組みが、なんだかあるみたい。
全然その理屈は説明できないんだけど、冒頭に書いてる私の「不得手なことばっかり」をやりつづけても
さほど苦ではなくなってきてるようなもので、「やってみればなんとかなる」というものがあるんだ。

実践のさなかに解決策が埋もれてることが多いんだ。だから頭で考えて、悩んで苦しむ人は、「実践前」の
小理屈で蹴つまずいてる訳です。考えなしに「よし!」と立ち向かってみると、その行程のどこかに
ちゃんと宝箱に入った解決方法に巡り会う場合もある分だけ、考えて立ち止まってる人より取り分の増える
確率が高まる。

ただその解決策ってのはこっちの「思った通り」なわけじゃないことが多いのですな。
思った通りじゃない、けれども解決はする、というときに「それでよし」とできるか、
「そうじゃない」とはねつけるかは自分次第。OKとすればそこでゲームオーバーできるが
NO!とすればゲーム続行だ。試練のつきあい方もつまるところ、自分の意思の内なのだ。

願うこと、祈ること、をしはじめるときっていうのは、もう自分の「思った通りじゃない解決でも
かまいませんから、なんとかしてください」の懸案に突き詰まっちゃってる場合が多いからね。
答えの形すら想像もできない事態に「願い」「祈る」ものだから、「思った通り」は強く存在しない。

それだけに願い、祈ることは「自分の枠外」のものを受け入れる門を大きく開くことでもある。
普段はしない、その閉め切った門をあけるからには、それそこまで自分にはなかったものを
引き込むことでもある。もっと言えば「思った通りじゃない」を越えた解決につながる。
自分が分かってない事態に対しても、帰着するところを期待して挑むことができる。
責任が負いきれないことに手出しする人は「どうなってもあきらめてみせる」ことも否応なく
受ける。

だから厳密な意味では願い、祈っても=叶う、とはちょっと違う。
自分の知らない風景の場所に、ヒョイ、と放置される感じになる。

「これ、どこ・・・?」な感覚を怖れなければ、人は挑んだらいい。
挑んで、願って、祈って、「どこか」に連れて行ってもらえる。
自分の知ってる場所に戻るためにやってるんじゃないのに、人はどこか戻るつもりで生きている。

叶う、っていうのは「自分の知ってる中では最良のもの」かもしれないけれど、自分の知ってないところに
「もっと別の叶い」が想像もしない人には、挑んで取りにいくほどのリスキーさはつりあわないんだろうな。


願う前、祈る前にさ、それがもし、自分の思ったようになっちゃうんだとしたらさ、
人ってずんずん願っちゃうし、祈っちゃうんだと思うんだよ。それでさ、思った通りにならなかった時には
「あんなにお願いしたのに!」「あんなに祈ったのに!」って怒るじゃない。

違うんだな

お願いは、お願いまで。
お祈りは、お祈りまで、で完結してるんだ。

お願いがしたかった。
お祈りがしたかった。
自分がそう思った、そうした、まででいいんだよ。

「叶う」というのは、もう「別のもの」なんだよ。

願うこと、祈ることそのものに、力が宿ってて、それをした時に、その人はちっちゃくても必ず
少しホッとしてる。角砂糖一つ、どんぐりひとつくらいの「ホッ」のスペースを確保できて
やっとつま先立ちで立ち上がる突端を手に入れるんだ。
それっぱかしのためだけに願うし、祈れば、もうそれでいいんだよ。

その上、どこか縁あって「お前のソレ、叶えてみちゃおうかなっ」って神様が力添えしたくなっちゃえば、
そんときゃ叶うのさ。叶うってのは、それくらいのものと思っておけばいい。
「叶わないなんて、もう!」ってなるような怒り方では、その人の考え方はストレスフルなものでしかない。
シンドいよ、その生き方は。止めないけどね。

そんなわけで、私はお願いとお祈りはします。そんな風に考えております。


P.S 人って、その人が「心底困ってみたかどうか」を見極められてから、助けの手が
伸びる瞬間があるなって思うんです。で、困りきったを受け止めた人には、ごほうびのような
手助けが、なんか偶然のようなかっこうで巡りこんでくることがある。まずは思いっきり
困ることを受け入れる勇気ってスッゲー大事なんじゃないかな。