作成日: 12/12/05  
修正日: 12/12/05  

トーストの香り・おじいさん警備員

朝の風景


毎朝自転車で走っていて、止められる大きな交差点がある。通勤コースは大きく変えないから毎日
おおむね同じ経路ですけど、毎朝その交差点で止まるたびに、いい香りがしてくるのです。
食パンをトースターで焼いた香り。香ばしいのです。このエッセイを書いてる今なんて、冬場なので
香りはどこか温見(ぬくみ)もまとって伝わってきます。と、その香りにはあたたかな珈琲も混じってる。
こっちは寒風の中を風を切って走っている上、たまに止まった交差点でにわかに体温を取り戻して
いるときに、この香りが漂ってくるのだから、とっても気持ちよくなるのでした。

振り返ると、そこには喫茶店があり、モーニングセットの最中なんでしょうね。ほっこりあったかい。
大通りの交差点過ぎて、車はそこに路上駐車できないし、駐車場もみあたらない。きっと近くに
住んでる常連さんが通ってくる店なんでしょう。毎朝、そこでトーストの香りがして、ハッとします。

毎朝、トーストの香りがしてくるまで、この店の事を、毎朝忘れていることを、毎朝ハッと香りで
気づくのでした。それが不思議なくらいに毎朝その店の事を「忘れきって」いるのです。
呪文かなにかを唱えたかのように、その横断歩道を渡る頃には、すっかり失念しています。
執着ができない交差点です。すうっと香りで気づき、スッと忘れる。翌朝ハッとして「ああ、
今日もここかあ」って思い出すのでした。走り出しては忘れる。この繰り返しの店。

入った事はないし、トーストの味もぬってるものもバターか、小倉なのか分からないけれど、
毎朝ハッとする。どこか「禅」のような存在感の店です。面白いのは「毎回忘れきる」ことができる
ことと、毎朝「あっ、ここに店が!」って、それも毎回新鮮になってる事です。毎回です。
どーしても覚えきれません。どーしても忘れられます。どうよ、この新鮮さ。この微妙な存在感と
その新鮮さ。

考えてみれば、毎朝毎日珈琲とトーストを用意してるのであって、それは毎回「作っている」のであって
労働そのものはローテーションワークなのかもしれないけど、今日、今作ってる珈琲とトーストは
今日、たった今作ったばかりのものであって、さっき作ったものとも、昨日作ったものとも違う、
今日、たった今の新作なのです。

それもできたてで湯気の立ち上りそうな具合。同じものは世界のどこにもなく、そこにある
モーニングセットこそが、毎朝寒い交差点で信号待ちをしてる人の心をとらえる。
そういう「新鮮さ」がなんか、うれしくってね。

もう少し走ると、今度は高架下のやっぱり信号が有る。そこは大きなビルの出口でもあり、
警備員が信号近辺で警備しています。さほど重要な出入り口ではないのか、ご年配のおじいちゃんが
多い。それでもトラックや運搬業者の出入りは多いので、かくしゃくとした姿勢で誘導をしています。
歩道に面してる事もあって、赤信号になると、しばらくおじいさん警備員はそこにたたずむのです。

毎回信号はどこかしら赤になるのだけど、人や自転車待ちのときには、待ってる人は視線を送る
先が限られるから、どうしてもおじいちゃん警備員をみやってしまったりします。でもそこは人生の
流れにも慣れたご年配者なので、視線たちをきれい受け流すたたずみ方をなさる。目線を上手に
外し、どこか、誰かをみやるでもなく、「いつもこうです」って顔つきで、スンとそこに立っています。

このあり方が、なんていいますか、綺麗だなって毎回思います。とぼけるでなく、失礼でなく、
いわんや「見てない」わけじゃないのです。何処にも誰にも視線を定着させずに、心は配っている
ことがしぐさや姿勢で分かるのです。

背広を着て、歩道を猛スピードで走り込んでくるような新米サラリーマンが、急いでるのでしょう、
信号無視をして走り抜けて行く事がまま、あります。赤信号を「急いでるから」と無視して走ります。
信号を赤だから、と待ってる人たちのいる中をすり抜けて、走り抜いて警備員さんの前を走ります。

急いでるんですよね。だから信号も待てない、と。それくらい、急いでるんですよね。
無表情な顔をして信号無視をしちゃう人をおじいちゃん警備員さんはとがめたりはしません。
嫌な視線も作らず、ナニゴトもなかったかのように、自転車の人をやりすごします。待ってる人たちは
見るものができます。おおむねこういったときは、その走り抜けて行った自転車野郎を見ます。
自転車に乗ってる人は、おじいさん警備員さんを通り過ぎるときに、一抹の「居心地の悪さ」か
「バツの悪さ」を感じるのでしょう。しぐさが一瞬、ひるむのでした。照れ隠しにもぞもぞしたり、
妙に目線がさまよったりと、違和感のある態度がそこに見て取れます。不自然な態度をとらなくちゃ
ならなくなるなら、しなければいいですよね。

おじいちゃん警備員は警察官ではないので、逮捕も叱責もしません。ただ、急いでる
サラリーマンをやりすごします。でもサラリーマンは、心のあるその人は物怖じします。
一瞬「すいません」って背中にそれを感じさせます。おじいちゃん警備員の威力だと私は
思います。そしてその自転車の人の「事情があるのかも」な寛大な態度にも見えてくるので
不思議です。「子供が生まれるの!」かもしれませんし、「親が危篤で!」と言い出すかもしれません。
ですから自転車で急いでいるのです。その事情では少し寛容にもなろうってものです。

見過ごす、とはちょっと違う魔術のようです。見てない振りをしてるし、とがめることもしないけど、
おじいちゃん警備員さんが怠慢には見えない。そして走り抜けサラリーマンも、自分が交通法規を
犯してる事を自省してる。世の中、だよなあって思う。こういう風に、世の中って回ってるよなあって
これを観るたびに思うのでした。

で、信号を守って、走り出す人や、ご年配者、女性をお先にどうぞ、ってうながした通行者に対して
そのおじいちゃん警備員さんは、どこかやさしい視線を送っています。声は出さない。目線も合わない。
でもおじいちゃん警備員さんはちゃんと人を「見分けて」態度をさりげなく発揮するのです。

二つの事を感じます。走り抜けサラリーマンに小さな贖罪の気持ちを生み出してる事、ちゃんとした
人には、礼節を感じさせるねぎらいの気持ちを投げかけていること。これは毎朝、交代した
どの警備員さんであっても、同じ事を感じさせてくれます。私の思い違いか、思い込みでもいいけれど
それがいいなあと思います。

走り抜けサラリーマンは、贖罪の気持ちがそこにちょっとでも芽生えちゃってることが、すでに
悪い事をした、の負の気持ちを抱えこんでいます。ルールを守っていれば、それはもたないで済む
感情だから、それを感じちゃった時点で相応以上の「背負い」をその人は実はしています。
本人は信号無視ができるくらいには、遅刻すまいという愛社精神のつもりかもしれませんが
結果的には反社会的な「法規無視」しかしてませんので、いい記憶としてその人には
残らない訳です。信号は、守りましょう。守ってる人から「みられてる」視線を感じる負い目は
気持ちを重くします。いわんや、そんな愛社精神をよしとする会社なんてのはろくでもないもの
ですから。そんな会社、ありませんから。

毎朝、このふたつの件を見ます。不思議と、それにでくわすまで忘れてるような件です。
毎朝見るのに、毎朝発見した気持ちになるだなんて、なんて新鮮な人生なんでしょう。
禅の世界ならほめてもらえますか?(ほめてもらって喜んでるようじゃ禅の世界では
ありませんしね)
え?健忘症ですか?      そーかー・・・・・。