作成日: 12/12/07  
修正日: 12/12/12  

渦中にある者ども

我も含めて


なにに苛(さいな)まれているかの差こそあれ、同年代の仲間は
いきてる上でいくつかの壁や崖に突き当たっているようで、今流行の
SNSなんてものじゃ、全然正直に吐露できないことばかりがはっきり
分かってくる昨今です。
 
どう苦労してるかなんてな苦労談義、苦労比べはどーもかっこ悪いので嫌。
かといって黙って悶々と耐えられる事と耐えられない事が世の中にはあるので
そんなときには顔を見て話す、のが一番すんなりする。
 
解決はしない。解決はしないけど、少しでもすんなりすれば、少しだけ
しのぎやすくなる。そもそもなんだって起こるのが人生ってやつなので、
なんだって請け負う覚悟がないと、どこでも何にでも傷つき続けることが
できる。
 
傷つくのは嫌だなあって思いつつ、何に自分が傷つけられるかは、自覚は
ないけど、自分自身で決めているので、嫌な事を目立つ形で寄せているのも
やっぱり自分なんだ、って思えるかどうかでも、態度は大きく変わると思うんです。
 
同じことが起こっても「平気な人」と「平気っぽく見える人」と
「うろたえる人」ってでるじゃない?人によってなにが琴線に触れるかは決めて
いるので、そこをどう防御するか、ってので生き方っていうのは案外大きく
振れているなあとこのごろ感じております。しでかしちゃったことよりも、
回避したがる気持ちの方が、人生を大きく揺るがしてますもんね。
 
昨今で言いますと「足の指先が冷たくて仕方ないとき」と「お腹が減ってるとき」は
自重してたつもりでしたが、思いのほか自重できずに、怒り震盪して怒っちゃってる
自分に自覚的になりました。昔よりもうんと短気になってきてるみたい。
我慢が訓練されていないと、年を重ねてからぶざまさは倍増してくるんですね。
 
そう、ぶざまさなんスよ。
基本的に、生きてるだけで、ブザマになることが何度も何度もありますね。
派手にぶざまな時と、地味にぶざまな時と、度合いの違いこそありますけど、ぶざまさって
いうのは、こっちの「恥」と思ってる事のさじ加減に左右されるから、他者には
それほど重要でなさそうなことでだって、けっこう本人は傷ついたりするんだよね。
黙ってるけど。
やり過ごすけど。
でも傷ついてたり、ね。
 
傷つくのは嫌だけど、傷つけないのは幸せじゃないなとも思うの。
丈夫なのは頑丈だから、ではなくて、弱くてへこみやすいから補強してます、って方が
本質のような気がします。そこがその人の人間力ってもんよね。その人がそこで
生きてきた知恵ってもんよね。経験したからこそ、がっかりも、しょんぼりもできちゃう
ウィークポイントとした、って点よね。
 
ブザマじゃない。
かっこわるいじゃない。
もろくて弱いじゃない。
 
本気だったんだね。頑張ったね。つらかったね。嫌だったね。よく耐えたね。
よく耐える事を選んだね。知らずに耐える事に至っちゃったこともあるだろうけどね、
ぶざまさを目の当たりにしたからには、それをぶざまにすることが、あなたにはできたんだね。
 
偉いね。
なかなかそうはいかないって。
逃げちゃうし、なかった事にしちゃうって。
 
そこをみすみす、ぶざまにしたのは、
あんたは偉いよ。
すごいよ。
よくやったね。
よくぶざまにしたね。
 
そこをぶざまにしたからには、本気なんだってみんな思うよ。
ぶざまなあなたを罵ったり、馬鹿にしたりする輩は、あんたより格下だ。
言わせておけ。ぶざまさを出した人は、そこからが強いんだから。
 
いや。解決はしないよ。なくならないし、そのまんまだろうね。
そう、ぶざまなまんま。でも、強くなるよ。ぶざまさを認められない人は
隠したり、なかったことにしようとしたり、そりゃもう穴埋めでアタフタ
それこそみっともなく、なりふり構わず内心穏やかじゃないもの。
認めちゃった人の何倍もその埋め合わせで突っ込む事になるのにね。
そのほうがぶざまなのにね。
 
ぶざまを受け入れた人より、見てくれはいいのかもしれないけどさ、
ぶざまさを受け入れた人の方が何倍も力のあることを、みんな知ってるよ。
 
そしてそのぶざまである、ってことを受け入れる芯の太さを大事に思ってくれる。
もう一回書くけど、解決はしない。
あなたが自分で解決するだけ。
でも、味方が増えてるんだ。
無様だったところから、あなたがどう立とうとしてるかを、いくつもの目が
見てるんだ。あなたを縁あって知った人が、目線を送ってくれている。
 
そんなの役に立つか!って?
 
立たないの?
あなたは立たないひとなの?
かわいそうですね。
 
役に立つと思うよ。
ものをくれたり、助力してくれるより、見ててくれる、が最善であることって
山のようにあると思うけど。
何を請け負うか、って自分で決めてるから、それを乗り越えようとしてるのは
もしかしたらただのマッチポンプ(自作自演)かもしれない。
それだけにさ、誰にも共感しきれないその人独自の壁だったり、崖だったりするんだろうけど、
「自分で作った壁(崖)」を気づいたり、ぶっこわすことの難しさ、を知ってる人にこそ
人としては魅力や力のある人ですもん。
 
まずそこで「ぶざまでいる」としたことを、「かつて自分もぶざまだった連中」は
「よくやった」って喝采するよ。そして「がんばれ」って思うよ。がんばれって念じるよ。
もう、あなたのことを、他人事に思わないでいてくれるよ。
 
それって、一番うれしいことだと思う。
自力で、たどり着けないことです。
 
ぶざまさに効用があるとすれば、これじゃないのかなあ。
 
表題にある「渦中にある者ども」って、みんなそうだよね。
みんな、なにがしかの渦中にあって、もだえたり、華麗に振る舞ったりとしてる
だろうけど、うまくいかないからこその「渦中」だもんね
 
薄く笑って「こんなもんだ」ってやりすごすのもいい。
「つらい」「もう嫌」って逃げ出すのもいい。
その態度のあとに、あなたの人生が続くのだから、いいも悪いもない。
全部、背負うんだから。なにやったってね。
 
合点づくだったんでしょう?こうなるって。
そこで咲けばいい。渦中にある人に相応の報いが待っててくれる。
どんなに気丈に振る舞っても、「相応の報い」は周りの「目」もろとも、
その人にとって「不可知」なところから贈られるプレゼントなのだから、
がっつり、モロ身で受けるのさ。