作成日: 12/12/31  
修正日: 12/12/31  

いぶされて年越し

ベニヤ板とビー玉


餅つきを実家がします。そのときに杵と石臼でつきますので、餅米も蒸します。
薪木を焚いてぼんぼん煙が出ます。私は火当番みたいにいるのが好きなので
釜の前で煙にまみれます。これを介して「年を終える」モードにようやく入れます。

餅つきも大事ですけど、この「煙にいぶされる」体験も重要です。
このごろでは落ち葉焚きもたき火も道路でやってる風景なんてありゃしませんから
「炎」に向かい合って、考えなしにぼーっと火を見てるってことが少なくなりました。

私個人で言えば年々「火をみつめてる」回数は増えてるんですけど、人は火を見ていた
方がいいような気がします。火を見てると、人が入れ替わり立ち代わり火の周りにきて
話しても話さなくてもいいことを話して、すっと戻ります。話してなくてもいい、というのが
肝心です。

煙に巻かれて涙がじゃんじゃん出て、鼻の奥が痛い、という「体の方の体験」を通したり、
餅つきが終わって他のことをはじめても衣服に煙の香りがついてることで「そうだった、
煙いっぱいだったなあ」と体験記録が頭の中の記憶だけじゃないもので残ります。

このごろこの「体験記録」が足りないんじゃないかと思ってたのです。なんにつけ
コンピュータやゲーム、ネットなどの「記憶」に依存度が高くって、体験則をたぐりよせる
体験記録の痕跡が足りないのです。目を介した、脳で覚えたナニガシではなく、自分が行って
自分の周りにまとわせてた時間を思い出す方法。

薫製とかって、煙でいぶされて味を濃くしていきますよね。おいしくぎゅっとさせていきますよね。
余分な水分を逃して、長く保存できる状態に持ち込む薫製。なんかちょっと意味深じゃありません?

私にはこの「煙にまみれて」っていうのが「年の瀬」になります。今年一年を納めてます。
私も年を経るごとに「流転度」が高まっていますから、どうせ転ぶなら一番いい具合のところに
ころんといきたいものです。

人生が坂道に見立てたベニヤ板の上のビー玉のようなものであるなら、その行き先は「筋道」の
あるものではなくって、平たい、「どうとでも転がれる」板の上で「途方に暮れる」わけです。
反面「どうとでも転がれる」のも本当です。好きに転がれるわけではありません。転がり方は
「ベニヤ板の傾き方」に左右されます。方向も、スピードも、ベニヤ板の状態によります。
平坦な人もいれば、傾いた人もいるでしょう。急勾配の人は激しく転げ落ちます。
たわんだものなら、人とは違った軌跡を描いて落ちるでしょう。折れていたり、へこんでいたり、
曲がっていれば、そこで向きを変えたり、落ち込んでしまうのがビー玉です。ビー玉に罪は
ありません。板の状態に左右はされます。

人は「生きているところ」で過ごします。生きているところがベニヤ板です。あなたはビー玉です。
生きることをなんとかするというのは、ビー玉に集中するだけではちょっと足りませんよね。
ビー玉が大玉であったり、綺麗なガラス模様を内側に秘めることができるかもしれません。
ですが板の上での軌跡を大きくそらすには、板の方を見据えて手だてを打つ他ないのです。

今年は私のとってこのベニヤ板の総替えの年になりました。いいとも悪いとも嫌とも思っていません。
巡ってきたものをとらえて、味わって、なにかをつむぎます。その今年の延長を持って来年に
入ってしまうと、人は生き方として怪我をします。ルールの違う次元に生きることを頭のどこかで
切り替えるのが年の瀬の役割でしょう。

ビー玉がベニヤ板の心配をしてても事態は変わりません。
生きることに手を加えるというのは、ベニヤ板を触ることになります。ベニヤ板を触れば
元の通りには戻らないのです。その覚悟で触るのはビー玉当事者の覚悟次第です。
いったん転がり出せば、元にも戻りません。スタートに置き直しても、同じ道は通りませんから
今が最善であり、今以外はあなたの生き方にはなかったことを、自分にも他人にもその軌跡で
示しています。みんなは言います「ああ、アイツはああ通ったか」と。

ころんころんと転がって、転がった先が行き先です。
綺麗に転がりたいものです。
上手に転がりたいものです。
一緒に転がったビー玉たちはスタート地点が一緒でしたが、いつのまにか転がり先を節目で
別れたようです。ゴールは別々。

せめて年末にいぶされたあとの1日くらいを「ベニヤ板の状態」を思ったり、「他のビー玉たち」に
思いを遊ばせることにあてがってもいいじゃないかなって思ったのでした。