作成日: 13/02/09  
修正日: 13/02/12  

親族という引力

空気がいつも一緒


私は親族について、随分ながらく温和で平穏な一族と思って過ごしてこれました。

色々あるにはあるけど、概ね上手くいってると感じています。この「色々ある」は

身の上話としてはシリアスかもしれないし、珍妙なのかもしれないけれど、

不思議なことに私は悲壮感を全く感じないで育って来ました。


大人になると少し理解できる。本当は、みんなもっと大変だったのだ、と。

それでも私にはそうした諸処の事態が苦しく、大変なものには映らず、「それはそれ」と

目先に出会う親族ひとりひとりが、その時に元気で普通にしていたら、そのバックボーンに

しまった感情に本当に気づかないできたんですね。


それはどこか察しの悪い子供でもあることを示すのですが、反面この間合いで深刻さに

距離があったままが、どこか「利点」に感じることも多いのでした。そしてそうした「繊細さ」を

要する場面では、周りがすこし引くほど、無頓着な態度で応ずる人柄にもなったかもしれません。


おおらかさ、というか、大ざっぱさ、と言ったらいいのか、鷹揚にいいますと「田舎の子」という

朴訥さが基本的に抜けないのでした。本人が都会に住んだから、ハイ都会っ子!と少しトンガって

ふるまったところで、その底に見える風格のようなものは修正も隠匿もできず、どなたさまに

おかれましても「田舎の風を感じる人」になってしまうのでした。


それだけに「こどもには見せまい」とする大人のしてくれた配慮に、わたしはまんまと

ご高配賜りましたし、精神性に大きな点で「基本的には他人を信じる」が根付きました。

(いや、疑いますよ。疑いますけどね)


大人になってから、ひとつひとつの親族に起こってる事態をフォーカスしなおすと、

シリアスなものは案外起こっていました。それで誰彼が豹変した、とか激昂した、とか

人格を否定するような態度に出た、という覚えがないのでした。

でも「会えなくなっていた」人はいるのです。それでもお互いに傷つかせないという

間合いであり、その根っこには思いやりが流れてる心持ちがするのでした。


ノンキすぎるのかな。

離れてる人にとって、私の見え方なんてのは悠長で、好意的すぎるかな。

不快に感じたらごめんなさい。


深刻さをまとうようなことも起こってるんだろうけど、基本的には私は、じゃあ気づいてない

と思います。本当の意味で、分かってないと思います。そして今以上に分からなくても

「それは分からないもの」に分類されて、それ以上の詳細を探らないでしょう。

真実を赤裸々に見るのが嫌なんでしょうか。

相手がしまっているものまでまさぐって、いいことなんか、なかったですから。


私は現代にしては親族の引力を強く感じる方の人だと思います。

話すたびに、この親族の中で自分の性格が組み上がって来ていて、その他の親族では

今の自分の性格に至らなかった自信があります。

ユーモア感、切り込み感、応対の姿勢、態度、空気は私個人のものではなく、幼少のころから

続いて来た「この親族の中で」一番自然体でいられる状態なのでした。


ですから町に出ても、なにかやってても、私個人というよりも、まずは両親がするであろう

リアクションになってますし、物言い、物腰は自分というよりも、両親のそれでした。

考え方もそれに大きく外れたものではないのです。


それでいて、両親を含め親族の誰もしてないことをやってるのも確かですから、そこではじめて

「自分の決意」のつもりでなにかに挑んでますが、はためには「ながやらしい」に枠に入るし、

それほど意外な冒険奇譚にはならないのでした。


親族が揃うというのはいまはお葬式などになるかもしれませんが、「いつ会っても自然体」で

すぐに「いつも通り」になるのは、親族の持つ「空気感の共有」なんだと思います。

そこに生まれて、そこで育ったので、そこの空気圧、そこの風が、「性に合う」ってこと。


もちろん世の中には家族兄弟でも「顔も合わせない」場面もあるでしょう。近親が故に

逃げられなかったり、逃げなくちゃならないこともあるでしょう。

それが「近親が故に」という理由が備わっているからこそ生まれる感情であるのは、どこまでも

続きます。その「柱」の部分に対して温和でいられるのは、感謝すべきことでした。

本当に人為的な努力で人って繋がっているものだから。


今、差し向かいで誰彼に会い、少し話していれば、その人が「なにはおおっぴらで」

「なには秘密か」くらいは直感できますよね。事情や理由のいかんによらず、その人は

そういう人だ、と認識できる。いい人でも悪い人でも構いません。その判断をするモノサシが

実は親族から受け継いで来たもので計られるので、人によって「いい人、悪い人」は

判断のされ方を変えますものね。だからそれほど「いい人、悪い人」のラベル張りに執着する

理由はないのです。好きでも嫌いでもいいのです。「自分のモノサシ」だなんて思ってる

ものが、一から自分でそなえ上げたものじゃないんだしね。目の前の人は、目の前の人です。


自分と居合わせる人に、気持ちのいい風を送れているのか。

その風をその人は帆に受けてくれているのか。

進む方向も、進む距離も、帆に受ける風次第なのが人です。

自分ではモーターかエンジンでも積んだつもりで推力を生んでいるつもりになってますけど、

「周りの中で自分は生きている」んですから、風とか、海流の流れを読むのが先ですよね。


親族というのは、世の中で最寄りのたっぷりとした湖のようなものではないのでしょうか。

多少ばしゃばしゃと波風を立ててもおさめてくれて、いさめてもくれる湖。

世の中という大海には遥かに及ばない大きさでも、その湖でどんな風を受けて育って来たかで、

大海の中で風を読むんですから。違いが出ますよね。


私の湖は、大変いまだに良い湖です。私には。