作成日: 13/02/11  
修正日: 13/02/12  

スイッチオン

自分という「回路」改ざんの薦め


自分というものが、某かの「回路であった」としたら、その回路が生み出すものに、

回路自身が自信を失ったり、存在意義を見つけられなくなったら、回路の機能を

停止することはあるんでしょうか。


それとも、「回路」を組なおして、「新しい回路」として機能しなおす挑戦を

しかけて、「再起動」で、回路が立ち上がらなかったり、故障して終了となる

リスクって負えるもんなのかね。


さーて、1ヶ月半に及んだバケーションに終わりの鐘が鳴っております。

時間ですよー時間ですよーとどこからか声がしてきます。正気をとり戻すまでに

時間がけっこうあったので、本を読んだりしてました。読めるときは1日5冊も

進むのに、あかんときはどんなに「活字」を読み直してもまったく脳に入ってこない

極端なON・OFF状態でした。

昨日今日で10冊。さすがに違和感を覚え、そのまま他の本を・・・と探しかけたのを

自制しました。司馬先生と椎名先生の本をば後日に回すことにしました。極端は

いかんのです。


「楽しみをあとにとっておく」はいつ芽生えた信条だったけ?すっかり忘れたけれど、

おかげでしばらくの間、潰えることなく楽しみが連鎖してました。作品にせよ、本にせよ、

出会った時には「今、手に入れたい!」って思うんだけど、「あとでもいいや」って

思っておけばおくほど、いざってときに、スイとそこへ立ち戻れますね。


一から探しやしない。事前に準備でもしてたみたいに、「ああ、そういやこれ・・・」と

当たり前の顔つきで堪能してる。


前からずっとそこにあったのに、モズに補食されたエサ同様に、枝に差されっぱなしで

忘れられた状態のまま、見過ごされてるもの。

味わえば、絶対に気に入る自信があって、でもまだ味わってないのに、その予感は

どこから生まれるものやら。


「頂はどこにある?」(スペンサー・ジョーンズ著)の中にこうあります。

「谷から出る道が現れるのは、物事に対する見方を変えたときである」って。

読んでた時には、へーとか読み流してたけど、ホントでした。

この本での比喩で調子のいいときを「山」、不調を「谷」と表現してました。


調子を落としてる、もしくは以前と同じには絶対に戻らないって実感する瞬間が

生きてるうちにはあるでしょ?そン時ってさ、自分が突破する向きも、出口も

全然あたりがとれなくって、八方ふさがりな気分になりますよね。

あれって、「比喩」じゃなくって、本当に「ない」んだと思う。

出口なし、の時に、出口を探してる・・・・・だから動けなくなる。


ないのよ、ピンチの当事者って、出口が。

それを「いや、どこかにあるはずだ!」と思うから、思おうとするから、苦しくなる。

周りの人の応援もそう。「いつかはきっと」とか「希望を持って」とか、出口は

ある、って前提の話でインサートされてくるから、「そうか、自分だけが分かってない

だけで、本当はなんとかなるのかもな。ああ、自分って、今、駄目だな」とかになりがち。


駄目な時、調子が落ちたときは、それそこまでの具合になるまでのいきさつを

自分は知っています。当事者ですから。被害者ですから。

当然、自分の「落下の様子」のさなかに、いくつかの「打開策」「応急措置」に

あたふたして手当はしたわけです。そのことごとくが効果して、威力乏しく、

落ち込んでいるわけです。

決してなにもしてなかったわけではない。

手当もした、処置もした、でも駄目だった。


だから、正確にいえば、駄目になってるときは「出口なし」で突破を試みる

時じゃない、って誰かが伝えるべきなのかもしれない。


「今まで通り」が今の自分に至らせたのであり、「今まで通り」の発揮で自分の落下、

不調を食い止められなかった、という「肚に落とす作業」が最優先。


ここからだ。


「今まで通りってわけにはいかねえぞ」って思わない限りは、動かないで、いい。

休んでる方がいい。身辺の整理整頓をして、身ぎれいにして、小休止の時間にする。


ピンチのときだから、っていい気になってんじゃねえぞ。

ピンチだからって特別扱いしてんじゃねえぞ。

じっとしてろよ。

休みをとれよ。


「今まで突っ走ってこれたんだから、まだ余力が・・・」とか思ってしまえば、

今回の自分の「不調」「不具合」の検証もなしに、みすみすした「失敗の原因」という

エンジンにガソリンを突っ込んでしまおうとしたがる。


だってそれまでうまくいったもの。

だってそうしてきたからこそ、今自分はここに至ったんだもの。

そう成果を讃えたがる心理が勝ち気になろうと作用したがる。

これが実に。実に危険でね。


どうして今、自分が失速しているのか、速度を落として生きることに周りが仕向けたのかも

考える視野なんてもてないよね。


出口。

突破口。


それは落下中、もしくはどん底、においては「まだ用意されていない」ものだ。


「谷から出る道が現れるのは・・・」とスペンサーさんの言葉にあるように、

ワンモーション、あってから次の話になる。


それが冒頭に言う「回路」のはなし。つまり「自分」。


自分、がそのままであり続けると、変化なしで「自分は自分」と固執すると、

出口は、突破口はほとんど見つからない。あっても出現は極端に遅れる。

みつけにくいし、探しにくいし、それは誰彼のイジワルというんでなしに、根っこの部分で

「自分で隠してる」作用がある。

不調の当事者は認めないだろうけど、自分で慎重に隠してるし、しまっている。

多分、本当は自覚もあるはずだ。


「それだけは、しない」というしばりを決める人にもその傾向は強い。

しばれば、従えば、それは何かを守るが、何かを見えなくさせる決意だ。

デメリットも被ることを覚悟したもの。よくも悪くもない。


自分という「いつもやってる、ぐるぐるとしたサブルーチンな考え方」という回路内に

作業をさせてる限り、「元やってたまま」に気持ちがいきたがるのは必然ですよね。

処理も楽だし、しまい方も、おさめ方も手慣れてる方法に放り込んでおけば、さほどの

被害を負わずに「元通り」になってるところへ戻れる。


さーて、これが果たして・・・ってことです。


「通用しなくなった回路」は自分です。

自分ですから、放置できません。

でも回路の改修に乗り出せば、回路は「今までと違う着地点」を答えに出してくる可能性が

出てきます。それは「今までと違う」ところに自分を運ぶので、自分も他人も恐怖を

覚えるでしょう。覚えました。嫌でした。


「元通り」

これがくせもの。


元通り、ができてたら、事態は維持されたことでしょう。

元通りに維持できなくなったのは、元通りが悪いものだったからじゃなくても、

「その周り」に変化が起こっても、維持はできないのです。できなかったのです。


「元通り」を模索してると、「出口」も「突破口」も、実は自分にとって

「よその出口に誘うもの」として、心の底で「拒否」してるんですよね。

だから、見つからない。だから、見つけない。だから「なかったよー」といいたくなる。

そして「なかったねー」って返してくれることを期待しようとする。


回路が旧態然としたまま、なにか作業に組み込めば、もうそれは「前しでかしたこと」を

再生産してしまう機能しか備わってないので、新しい世界と、新しい要求の前に、

古びてしまっている。なのに、「役に立ちたい」一心で居続けられると、

「気持ちは分かるが、迷惑が広がる」ものであることに盲目になりがちになる。

誠意は分かる。しかし、がんと言わねばならない。


「間違ってる」と。

「そのままじゃいけない」と。


そのことが自分に飲み込め、咀嚼して、お腹の底に落ちて、身に付くまでが

「時間がかかる」。時間が解決することもある。しないこともある。

でもこの時間は端折れないし、なかったことにもしない方がいい。

これはこうだった、これだけの時間がかかった、とした方がいい。


ここでは時間をたっぷりかければいい。

変に急いで、わかったふうな振る舞いもしないほうがいい。


みじめにならないでもいい。

卑下したり、落ちぶれたとか、陥ったとかも思わないでいい。

「今は、ただ、そうなだけ」と思えばいいし、周りもそう扱えばいい。


人格を否定してるわけでもないし、蔑まれてるわけでもない。

難しいんだけどね、「今はこうなんで」っていう中二階みたいな「はっきりしない」

ところでいいんだ。


ここで頭のいい人は「徹底的に」をやらかす。

自己否定したり、過剰に反省を促したり、ここぞとばかりに検証しすぎて、

「目先の自分のていたらく」の赤裸々に全力全精神を投入したりする。


無駄です。

駄目です。


転換のときなんですから、そんなものにフォーカスしてないでいいんです。

そんなの上手でなくていいんです。「そこは、そうだった」でハイ、おしまい、です。


歩いててさ、「なんでここはカーブなんだ!」とか「ここは坂であってはいけない!」って

怒ったりしないでしょう?道の状態に怒ったりいらだったりしてる人って変でしょう?


「今の状態」なんかに心を取られ過ぎない方がいい。そんときはそン時、なだけ。


そっからよ。

そこから、「回路」をいじりたくなれるかどうか、よ。

今まで通りじゃさせなくするのは、「回路」の仕組みをいじるってこと。

同じことをやっても、新回路は「出てくる結果」を、「着地点」を、変えることに

決めるってこと。


これがね。これが実に怖い。

回路の盤石さ、生き方にバリエーションを用意しないで来た人ほど、固執する。

まず、手放せない。心象として、できない。


うん、いい。怖けりゃいい。そこにいな。いなさい。

なんもせんでいい。なんにもしないほうがいい。そのほうが無事だ。無事。


でもよく見て。

よく見てね。

そこは「元通りじゃない」よね。


そこが居たがったところじゃない、よね?



でも「今は嫌」なら、なんもせんでいいです。

できないですから。

なんにも見つかってないですから。

その時には、たしかに、まだ、出口は出現してませんから。




回路に手出しする気になったら、はじめてください。

今まで通りじゃいけない、って自分がほんの少しでも思ったら、どうぞやってください。

小出しにしてもいいです。大股ではじめてもいいです。

どっちも「進めた分だけ」の返礼があります。

小出しな人には小出しな結果で。

大股な人には大股な結果で。


フェアでしょう。

フェアなんですよ。

フェア。


でもそれ以上にね、「新しい回路」には、「新しい出口」があるんです。


びっくりするよ。

頭のどこかが分かってたはずのことを、知ってたはずのことを、冷静でいたらきっと

そうしたであろうはずのことを、「みすみす自分でやる」ってことの、結果の鮮明さに。


新回路を自分で使ってみるまではね、ぜーんぜん、出口の片鱗もみえてこないの。

向きも大きさも距離もヒントなしだったのに、

たった一度でも「新回路」を使うとね、


出てくるのよ、出口が。突破口が。



それも簡単に。

そして「思ったのと違う形で」。


だから「思った通り」にはならないよ。

思った通りにしたかったのなら、おあいにく様。


思った通りじゃないから、新回路なんじゃん。

でしょ?

新回路の結果は「受け取るだけ」。返品不可。飲み下すこと。


だからするべき覚悟はこうなる。

「思った通りじゃないことも、試して味わうことにする。

 そしてできるだけ褒め讃える」


だってその回路は、新回路は、あなたが組んだものだから。あなたが責任を負える回路だから

そんなに悪い結果じゃないよ。ないない。ない、ない。

それは「新しい結果」なんだ。

新しいの。目新しい。


慣れるのに、少々のこつと時間がかかります。

注意点はそれだけ。


新回路は再起動の際に「上手く動かないことがあるかもしれません」。

ゲームオーバーかもしれません。あり得ます。大丈夫ですよ、なんて請け負えません。

駄目なときがあります。

ですから覚悟してください。

駄目でもいいや、って。

そン時はそン時って、思ってください。それなりに、別の答えが用意されてます。

それを世間では「なンとかなります」と、いいます。

なにかにはなります。なにかにはなりますが、どんどん思い通りから離れるでしょうね。

でもその「回路」はあなたが躾けましたし、あなたが選択した最善でしょう?

なら、

なら、さ。


あきらめもつくじゃん。

でしょう?


あなたの集めた、選んだ新回路で挑んだ勝負には、見合うだけの結果がついてきます。

もれなくついてきます。出口も突破口も、そこにははっきり見えてきます。

ただ、「思い通りに」という、過去からの価値観だけに引きずられていると、

大怪我します。


今のあなたが期待する「思い通り」は、将来のあなたが期待してる「思い通り」じゃ

ないんです。必ず、変化してます。変質してます。ゴールを変えています。

回路の改修の他に、将来の「思い通り」にたどり着く方法って、なかったんです。


だから、今までの回路を手放さないうちは、出口はないのです。

あなたが、阻止してるからです。口では「なんとかしたい!」とか、

頭で「このままじゃいけない!」と考えたつもりでいても、「元の回路のまま」を

選んだあなたの態度だけが、本当です。応分の立ち位置が用意されます。


そういうことです。

「周りの中で、自分が生きている」が分かっていれば、回路の組み方に期待するものを

自分でちゃんと集めてるはずです。そぐわなければ、そぐわない結果をもらうし、

そぐっていたところで、「自分の意思」とは別の結果ももらうのです。

肝心なのは「思い通りじゃない」は、そんなに悪くない、ってことです。

それすらも、「自分という回路」を経て手にしたものだと分かるから、そんなにわるく

とったりしなくなっていくもんです。


意外なこと、は案外「いい味方」であることがあるんですよ。

予期してない分だけ、驚くし、意外なんですけどね。


あなたの新回路に幸あれ。

私の新回路にも幸あれ。