作成日: 13/03/16  
修正日: 13/03/16  

義と和

井沢元彦先生の本


最初に。
このエッセイは堂々巡りしています。読み切っても歯切れが悪いのです。
体調が優れなかったり、気分がクサクサしてるときは読まない方が良さげなテンションです。
さて、本文です。



中国の人が広島でカキ会社の社員さん、社長さんを怨恨で刺し殺してしまったとニュースで
やってます。怒ったら殺してしまう、が是になるはずがないのに。

井沢元彦先生の本はフォーカスしてるものが簡潔になっていて、読むたびに引き寄せられてしまいます。
「仏教・神道・儒教集中講座」なる本。分かりにくかったものがすんなり整えられていて、儒教と仏教の
位置加減とかいきさつとかがスッとしてました。

この中で一神教の国の人の考え方、中国の方の考え方の中には「正義と悪の二極化」をつきつめる
とこまでやり抜いてしまう、的なことが書いてありました。
一方の日本の人の考え方の根幹には「正しくても正しくなくても、はっきりさせる以外の『和』の方を尊ぶ」
結論をとるとのニュアンスのことが書いてあって、そーかーとうなったのでした。

日本の「神様」ってものが、「飛び抜けて力のある存在」ととらえられていて、良識だろうと不見識で
あろうと、その神様とあがめる対象の「飛び抜けた力」はまず讃え、願わくば自分たちにその力の
ベクトルにあやかれるように願う、という考え方をしてきた、という話の進みにも、なにかお腹に
落ちるものを感じました。

正しいか正しくないか、が世の中において、どうも不徹底なニュアンスは社会に出てからずっと感じて
ましたけど、この本を読んだら「そうだな」って思ったのでした。基本的に「起こったことは起こったことにして」
という不文律な肯定感ってありませんか?起こっちゃったことは仕方がない、を日本人はお腹の底の方に
基本的に持ってる感じがするのです。

かえせば中国の方に感じる「間違ってるものは間違ってると言い切る!死んだってやり抜く!」という
たとえ自分が不利になっても貫く頑強さとは、どうも相容れない価値観はたしかにあるでしょう。
誰か個人の「義(正義)」が正しかった場合、貫いてしまう衝動にブレーキがかかりにくい。
そして「正しい」と信念がある以上、行き着くところまで行き着いてしまう。
冒頭の広島の事件は痛ましいことに違いありません。この中国と日本の人の気質のギャップが事件の一因に
なっている気がしてなりません。(例えば「愛国無罪」のニュアンスは日本人は理解していいものかどうか)

個人の不幸ってものが、「うんと大きな自然」とかに蹂躙されても、日本人にはどこか「受け容れる」覚悟を
してるように、私は感じてました。これはなんなんだろう、この感覚はなんなんだろうと。
自分より大きな流れに基本的には乗っており、聖徳太子以来の「和を尊ぶ」という、儒教ですらない
日本独自の尊重さ加減を井沢先生は説いておりましたが、実際その「和」ってものを全面に出され、
個人の感情はどこかで沈黙を選んでしまうんですよね。

正しくても、正しくなくても、まず「和」という順番。
正しかろうと正しくなかろうと、まずは「和」を尊ぶ仕組みの中で、「正しくない」と常々直面し続けてる人は
やっぱり日々傷つくんだよね。これ、この順番のままでうまく進むんでしょうか。

日本の「神様」と、海外からの「仏教」の浸透の仕方の解説も、この本の説明上手なところで、明治時代に
なるまでの日本の神様と、海外輸入の仏教ってものの混濁さがいかにも「和」ですもんね。
正しさ、の洗練よりも先に、「まず馴染めるか」が先行する。馴染めないものは、居合わせなくなる。
透明な扱いなわけです。「途中のいきさつはともかく、より多くの仲間は生きながらえた」という帰結が
「和」のメリットです。その影には「たとえ正しくとも」は引き下がるという文化です。中国の方は、きっとここで
「義」として、イマ風に言うなら「ならぬものはならぬのです」が貫くのを尊ぶのでしょう。これもまた潔い。

引き下がって、沈黙したものは、どこにもいかないんですよね。残ってるし、変質するし、醸すようになる。
ここのあしらいを間違えると、生き方が悲惨になってしまうことを、伝えるべきでしょう。今の仕組みでは
「黙って負けとけ。墓場まで持って行け」ですし、「辛抱・我慢」をしない世代では、暴発暴走するのは
自然なことでしょう。自分にも、他人にもそれを発散してしまうと、必ず暴力に至ってしまいます。

震災のときの、メディアに露出して来た「和の精神」の静謐さのようなものにはたしかに胸打たれました。
でもこの「和」ゆえに、黙り、話せず、こらえ、葬ろうとしてる感情が、あまりにも出てこなすぎたと私は
思ってます。一番発露すべき感情を押し殺し、押し殺し、「自分の感情を押し殺す」ことで成り立った
「和」だったら、ひどく、残酷な暴力だと思います。嫌なんです、こういう頑張り方を、周りの多くの人が
ほとんどもの言わずに「期待して」強要してるのが。それは美学なんでしょうか、道徳なんでしょうか。
もっとも気にかけてもらうべき、心に傷を負った人の方が「配慮する」だんなんて、あんまりです。
あんまりです。

そうは書いても、「和」の精神がゆえに、おさまりがつきやすい日本の美徳はたしかに感じます。
理屈です。
寄り添うべきは、もの言えぬ、もの言わぬ人の方であるべきですね。こんな風に書いてるのもまた
理屈です。

なにか、見落としを感じませんか?
もう少しだけ、「義」があって欲しくなるんです。義が増えると諍いが増えますしね。言い分の数だけ
もめてもめてってことになりますもんね。
でも「自分の感情の殺人」は無罪放免でいいとは思えないんです。どうにも飲み下せないのです。