作成日: 13/05/04  
修正日: 13/05/04  

時代の方が持って来た力

自分の力以外も使って生きてる




アポロが月に行って来たり、新幹線が開通したり、万博があったり、東京の方で
ボディコンの人たちが「お立ち台で踊ってたり」などという過去の話がテレビなどで
時々特集されては、このごろの若者相手に「へー、そんな時代があったんですねえ」と
コメントさせるだけの番組がありますね。

「このごろの若者はー」などという非難めいた苦言は古代エジプト時代の文献にも
出てくるそうなので、まあ常々年配者が口走る口癖と思えばいいのでしょう。

私の世代でびっくりしたのは、飲みの席で「ビール」ではなく、「個々人の好きなもの」を
ヤングたちが頼む飲み会に遭遇したときでした。
(私の「ヤング」称には常々蔑称がにじみますね)
「え?不味くても飲めなくても『ビール』なんじゃないの?そんな自由ってありなの?!」と
驚愕した覚えがあります。「どうせ頼むなら好きなものを飲む」場ではないときだって
あると思ってましたが、その考え方そのものが「世代」のものであったかと、うろたえもしたのです。

自分でよかれと思おうと、思うまいと、「時代」の方が強烈に背中を押してきちゃったことで、
「そうせざるを得なかった」ことの上で、人は「常識」を更新します。今のヤングたちに
「思い切りが悪い!」とか、二言目には「ゆとり教育!」でくくる人が大変多くいらっしゃることを
社会に過ごしていると強く感じます。

ゆとり教育は時代・世代まるまる「それでしか」過ごしてこなかった、「一斉の」スピード感、
価値観なのであって、それを承った世代そのものに、全く罪はない。なのにその気苦労は
世代のヤングたちにモロに大波を、冷や水をぶっかけているようにみえてならないのです。
当人たちも「自分のせいじゃないのに」って感じる頻度、高いと思いますよ。

かといって、年配者たちも「時代の方がすごすぎて」翻弄された世代でもあるわけです。
「日本列島改造論」みたいなものを、一政治家がイケイケどんどんと言ってのけたり、
所得倍増を首相が高らかに歌い上げたときには、軍需景気が日本に舞い込んだり、
「個人の意見」なんて通らずに、ただただ社会の要請にあわせて働きまくったりと、
けっこう訳の分からない「高揚感」にまみれただけの時代でもあったと思うのです。




時代の方が風のように個々人を押してるものがあると思います。
今の時代、その風は日本ではあまり感じにくくなってる印象があります。
微風っぽくみえるようになっています。その上に自由であると、「なにやってもいいみたい
なんだけど、なにもしたくもないんだけれど」が定位置の人が増えます。
いざ、なにかをしたくなる、ときには「できなくなってる」なんて見通しは、あんまり持ってません。

私の世代は「バブル全盛」が青春のド真ん中でしたが、特段素敵な思いをした覚えはありませんし、
テレビで「アッシーくん」だの「ボディコンの人たちの踊るインドっぽい名前のナンタラ」の風景が
流れてるのを、大阪から見てて「へー」とか言ってただけでした。
21世紀の今と、あんまり大した見通しの差は感じません。時代の方が押してくる風はあまり感じません。
それはそれで幸せだなあとは思います。

ただ、「熱中する」ものと出会えて、追いかけ、まとい、楽しむってことについては、「いい時代」に
フィットできた感があるのです。音楽も、文化も、なんか、とってもいい時代のピースに
スイ、と入れてもらえた感じはするのです。ヒッピーブームメントもモーレツ世代も「へー」と
見流してた世代ですけど、まんざら悪い心持ちではないのでした。

そうは言っても、年配者は今の若者を、自分の世代の感性で罵ってしまいますから、年配者ほど
「時代の恩恵」をあやかっておらず、「時代故の気苦労」からの我慢・断念もしていませんから
どうしたって「あなたの世代とは違う!」から言い返す気持ちにはならないでしょうね、若者側は。
正直、若者世代は、年配者世代の「ようやく手に入れたしめしめ感」が煩わしかったり、狡猾に
見えたりするだけでしょうね。なのに「説教」までふるまわれて、いい迷惑だと感じることでしょう。

その「説教」の「前提」が、「時代の風」にビュービュー吹かれて帆を張っただけの、イケイケどんどんな
時代の上のものだったりすると、今のヤングが真に受ければ「大怪我」だってしかねない。
と、いうか、けがさせちゃってるんです。だから世代間の断絶でも起こさなくちゃ、たちゆかなくなってます。

時代の方が持って来たもので「生きて来た」人たちは、どれが自分の本当の実力だったか、だなんて
検証しませんよね。自分の実力と、時代の風を混濁して、ないまぜにして、総合的に「自分の経験ではね・・」
などという「得体のない」論拠から、ものを伝えてきちゃってる。つまりは「自慢話」なのであって、
聞くに値するものを披露できる人は、相当なバランス感覚と、「しらけ」のある人でしょう。
他者は真似しえないし、倣ったところでうまくいかなくても、責任もとりやしない。むしろ背後から
突き落とすような「あなたはなっちゃいません」的非難を平気でしてきます。あなたの努力や我慢が
足りないからです、とか平気で言ってきますが、あなたは「時代の風」で授かった「運の良さ」を
計算に入れてないじゃないか、と唸るのです。

違うんですよ。あなたは風に乗ってるでしょう?
私が今の風にのっかっても、ここいらへんに落ち着くのが精一杯なんですよ、などという
遠巻きで伝わりにくい説明をしたくもないのにはじめなくちゃならない苦痛と来たら!!

なまじそれが上手にできたところで、いい終えた辺りで「そんな言い訳は聞きたくない」的恫喝で
本当に終わることが増えてるので、「話すだけ無駄!!!!」にシフトした方が精神的にいいのですよ。

そう考えると、ヤングの方の一見「あきらめ」にも似た「無抵抗っぽく見える状態」の方が健全な
気がします。年配者は自分が「時代に翻弄されたが、それでもやってきたんだ」の価値観から
ものを言うたびに、「ケチをつけているだけの人」に位置させられてしまうでしょう。
実際「こんな世の中をこっから生きていかなくちゃなんない」という「出来合いの中のもので、
まぁうまくやれ」的放逐をされてるヤングは「ものを壊すな」「他人に迷惑をかけるな」「体罰禁止」
などと、基本的に「破壊活動禁止」の不文律まで飲んでるので「じゃあなにもすんなてことだよな」
ってなっちゃうのを、どうして責められようかってもんですよ。マグマのように、表面化で煮えたぎってる
怒りというか、悶々というか、尋常じゃないと思いますよ。「切れるな!」とまで言われたら、
無気力・無関与以外に自分を守れやしなくなります。

そうした年配者の「無配慮な心配のしてき方」が、私は本当に大嫌いです。本当に嫌いです。
なまじ当人は「善かれ」ではじめた配慮のつもりでしょうがね、それを守って実践し不幸を被った
ところで、「自分の責任」だなんて放逐する連中です。

ですから、自分が合点して、幸も不幸も請け負うことを、人生の早いうちに飲み込んで、なるだけ
風に左右されずに生きるのがいいと思います。「誰のせいにもできないからね」って、「耳をすませば」で
主人公に助言したお父さんの台詞は正しいと思います。自分で決めれば、少なくとも誰彼を
恨んで済ますなどというクダラナイことを、ひとつしないで済みますから。

「年配者の、若者への不勉強さからくる、無配慮な放言」って罪じゃないのかな。
けっこう人生をこれで狂わされてたり、不快感を持ち続けさせられてたりするケース、多いと思うよ。
ボケたふりで逃がしゃしないつもりだよ、こっちは。