作成日: 13/07/14  
修正日: 13/07/14  

自分次第

見下したり蔑んだり期待しちゃいけません


自分以外のなにかを、誰かを蔑んだり、見下したりすることをする人がいますが、ありゃあ、いけませんな。
その瞬間には言い切る快感に酔うのかもしれませんがね、じゅわ、とアドレナリンが出るんでしょうがね、
とった態度や言葉を相手は忘れませんしね、なにより「先がない」んです。よくなる兆しってものが大変に少ない。
不毛な気持ちに自分を押しやる行為ですなあ。

今朝ジョギングしてて、「期待しちゃう、ってなんなんだろ?」と頭をよぎりました。
私たちは日々、いつの間にか「期待」しちゃってる、ってありません?

「なにかいいことないかな」とか「いい巡りにたどり着きますように」みたいなぼんやりしたものまで、
「自分が何一つ蒔いてない種」のことに、うすぼんやりと「でもいいことはやってきますように」みたいな
ことを半分くらい深刻に真剣に思ってる節がありませんか?

これ、どこからの発想なんでしょうね。
自分が蒔いてない種も、自分に刈り取りの責任が押し付けられることがあるように、
ある種の幸運も「突然に巡ってくる」こともアルカモネ!っていうのは経験則からきてるのでしょうか。

がっかりしちゃうのは「思った通りじゃなかった」ときです。
がっかり、には「事前に腹算用」してたことがあります。事実はその時はじめて眼前に来たのですから
ありのままだけに受け取れば良さそうなものを、「うれしそう」であったり、「がっかりしながら」だったりと、
まぁ自分の側に「それに対しては、おおむねこれくらいの結果が返ってくるはず」感が準備されちゃってる。

これが「期待」。
語感には「できるなら、自分にとって、いいことがかえってこい」という、エゴっぽい良さげな要望が
インサートされている。
いいこと、も悪いこと、も「自分があらかじめ引いてるボーダーライン上」の上を行くか、下回るかという
いわばマッチポンブ(自作自演)なわけです。しかもこれ、常々ボーダーライン上を要求し続けているという
心理的にバイアスのかかってる状態だから、プレーンにただ結果がきてもあんまりいい具合に受け取れない
感じがするのですなあ。

「いいこと」であった時には「思った通り」であって、普通に受け取っちゃう。
「悪いこと」であった時には「思った通りじゃない」という、へこむ心理が働く。
ほら、どっちが起きても「普通」か「へこむ」であって、「上向く」とは少し違うニュアンス、感じません?

期待、というのは「上向く」を含んでると思います。
「いいこと」で「上向く」かも知れません。その本音には「失敗をしでかさずに済んでよかった」といった
マイナスに予感したバイアスが、人知れずずーっとその人にかかってたこと、の時間の長さがあったとしたら、
成功体験の報われ単位は案外小さいものになったりもします。

話は変わりますが、ジョギングをこのごろしていて、走ってるときの心理状態の持ち方で、緊張感や達成感が
極端に変わることを感じています。
目の前の「目標」を立てて走ると、ひどく疲れるのです。
でもよそごとを考えて走ってたり、緑をみながら悠々と走ってると、疲れを覚えないのです。
『?』と思ったのは、「頭で考えるほど、やけに疲れるってところに押しやられるなあ」ってことです。

目標・目的っていうのは、「結果」が達成できるかどうか、がバロメータです。
あやふや、あいまいにしてたものを「明確」に示すことで、集中し、集約して、ナニガシカのことを
やり遂げる作用です。

ま、走ってると「目的」「目標」がやけに重くてね、すぐ嫌んなっちゃいます。
走るペースも、進む具合も、なるたけ決めないときの方が健康。
ぬ、なんか、ここにはわけがあるなと今朝は思ったのです。


人って「結果」に左右されてると、どんどん、すさみますね。
気持ちが。

結果なんかで左右させられてるのが、つくづく嫌なんだと思いますよ。人ってのは。
分かりやすいし、見えやすいものだから、ついぞ「目標」「目的」を安逸に示しますけどね、
どうもこいつが気持ちの上でよろしくない。

「結果」ばかりを追求し、探求し、希求しちゃってると、「なにかを追いかけてる」感はありますけど、
神経をすり減らし続けてもいる。持久戦になっちゃってる。
また「結果」次第で、自分がそれに費やした時間や手間を「割にあうものだったか」などと検証まで
してて、基本的に「損得勘定」で計ることばかりに、やけに長けてしまうし、強化もしている。
「結果」は自分に「割にあうか、あわないか」で目算をつける癖を自分に植え込んでしまっていますよね。

そんなこと繰り返してて、心が休まるわけもなく、満たされるわけもない。
日々、毎日「結果を出し上手」になればなるほど、目算だて(計算づく)を巧みにしているだけで
あって、幸福ってもんには近づいていない。近づきもしない行為に汲々としてしまう。
でも本人は「一生懸命」やってるから、心のどこかで「期待」してる。報われるはず、と
「期待」してる。だって一生懸命なんだもん。時間も手間も費やしたものね。
でも本質としては計算づく、しかやってない。一生懸命やりました、計算づく、ってあんばい。

日々の生活の中では、一生懸命を毎日投入してる。多かれ少なかれ一生懸命を注入してる。
それでもやっぱりそれでは、自分にとって「いいこと」を返礼される頑張り方ではない気がします。

自分が蒔いてもいない種に実がつくことを「運良く」転がり込んでくる、って気持ちが芽生えているのは
上述の「日々の一生懸命」じゃ、どうも人生ではうまくいかないようです、とこっそり気づいてる心理の
裏返しだと思います。

どうやら「日々の一生懸命」じゃ足りないのか、間違ってるのか、うまくいかないらしい、って時間の方で
断然長く過ごしているから気づきもします。

そこで先に書きましたジョギングの時の「目的・目標はないほうが楽」にかかってくるのです。
「ああ、よかった」って自分が思えることを期待してはじめたことは、「やり遂げた」だけで、もういいのです。
プレーンに、結果が出て「はい、おしまい」でいいのです。
それに対して「いい」とか「悪かった」とか「割にあうかどうか」だなんてのは、一切合切蛇足です。

一生懸命やったことは、一生懸命やっただけです。報いとか結果は「よその人のもの」くらいに
思って、どうか忘れた方がしあわせだと思いますよ。やり遂げたことは、やり遂げただけ。いいも悪いもない。


冒頭に書きました「人を蔑んだり見下したりはよくない」って書いたのは教訓めいたものではなく、
それ繰り返してると、じゃんじゃん自分の「考え方」を蔑んだり見下してる相手にフォーカスしていく
心理を強めていくばかりで、どんなに巧みになったところで、健康な心理状態にたどり着ける見込みが
ないってことなんです。低きに合わせてどうしたいのよ?見下して、蔑んでる相手の仲間になるって公言
してるようなものじゃん。アホじゃん。アホじゃん、かなり。

合点づくでそれやってんならいいんですけどね。
あと「毒」吐くと、言葉であろうが態度であろうが、相手にも効きますけどね、吐いた本人にも
廻りますんで。テキメンですんで、そのつもりで。

自分のやってることは、あまり「見込み」をつけずに、期待は最小限に抑えておくのが綺麗な
感じがします。種は蒔くまではできます。それが実をつけるかどうかは、別の話です。
ですから「できることはする。けれど結果は天に任せる」に位置してるのが肝心、だと思うんですよね。